第46話「脈を待つ」
ここから先は、私が書く。
カラスの手は、もう書かない。
書かない手の分まで書くと、決めた。
その決めた朝のことから、始める。
◆ ◇
その朝、穴の底は静かだった。
カラスの胸が、動いていなかった。
そんなことがあるはずがないと思って、私は待った。
待てば咳をして起きる。
起きて軽口を言う。
行くぞ、と言う。
——けれど、言うはずの口は、開かなかった。
前の晩まで、息はあった。
浅くて、間遠くて、それでもあった。
私は夜のあいだ、その音を数えていた。
数えるものがあるうちは、ある。
明け方に、私はすこしだけ眠った。
眠ったことを、いまでも悔いている。
◆ ◇
私は、カラスの手首を取った。
三本の指と親指で、手首の内側に、指の腹を当てる。
皮膚の下に打つものがあれば、生きている。
教わったことの、ひとつだ。
熱があるか。
息が、何回か。
脈が、何回か。
看ているあいだ、私は毎日それを数えて、数えた数をカラスに言った。
カラスはそのたびに笑って、いい弟子だ、と掠れた声で言った。
指の下で、私は打つものを探した。
探して、待った。
待っても、来なかった。
来ないものの代わりに、思い出が来た。
カラスの、黒い板だ。
毎朝カラスは、その板を確かめていた。
縦の線を一本引いて、引いて、消して、また引いた。
なぜ引くのかを、私は訊かなかった。
訊かなくても、わかっていた。
線があるあいだ、カラスは、いた。
手首の下も、同じだ。
打つものがあれば、ある。
なければ——
あればある。
なければない。
私は、指を当てたまま、長く待った。
骨の形がわかるほど、痩せた手首だった。
その奥は、静かだった。
静かなまま、朝が終わった。
手首はゆっくり冷えて、岩の温度に近づいていった。
人は最後に岩になるのだと、その時に知った。
◆ ◇
それから三日、私はカラスの隣にいた。
穴の底には、ほかにも人がいる。
痩せた男たちが、目だけでこちらを見ている。
何を見ているのかは、わかった。
カラスの外套。
カラスの靴。
それから、カラスそのものを。
動かなくなった者の持ち物は、穴では最初の夜に消える。
第一の穴で、私は数えきれないほど見た。
消えるだけなら、まだいい方だということも。
だから、隣に座った。
膝に拾った石をひとつ置いて、近づく足音を目で止める。
奪いに来る者を、見分ける目で。
二日目の夜に、ふたり来た。
足音を殺して、岩伝いに。
ひとりが、カラスの靴に手を伸ばした。
伸びた手の先を、私の石が打つ。
固い音が、穴に響いた。
男たちは、私を見た。
女がひとり。
腕がひとつ。
それでも、ふたりは退いた。
退かせたのは、力ではない。
目だと思う。
ここから先は、渡さない——そう決めた目は、石より固い。
足音は、それきり来なくなった。
三日、誰も、カラスに触れなかった。
◆ ◇
三日のあいだ、私は考えなかった。
考えると、聞こえるからだ。
立ってよ、と言った、自分の声が。
言われたカラスは、立たなかった。
立たないまま、私にぜんぶを渡した。
骨は、棒だ。
名は、レンだ。
お前は、灰だ。
生きろ。
よっつの声は、覚えている。
覚えているのに、体が動かなかった。
動かない私は、穴に落ちた日のわたしに似ていた。
膝を抱えて、岩になるのを待つだけの、あのわたしに。
それでも、待っているあいだ、誰かが靴を狙えば、石が出た。
体のどこかが、まだ番をしていた。
番をさせていたのは、よっつめの声だと、いまなら書ける。
立ってよと言った声だけが穴に残った。
四日目の朝が来た。
穴の高いところから、薄い光が落ちて、その光はカラスの顔の上で止まった。
穏やかな顔だった。
謝りに行く者の顔では、なかった。
止まった光の中で、私は見た。
見て、ようやく、言葉にした。
言葉にするまで、三日かかった。
カラスは、もう、息をしていなかった。
◆ ◇
四日目の朝に、私は立つと決めた。
立つ前に、することがふたつあった。
◆ ◇
ひとつめは、外套だった。
私の肩には、カラスの外套があった。
船の底で、カラスがかけてくれたものだ。
血の汚れの残る外套を、私は脱いで、カラスの体にかけた。
顔まで隠れるように。
思えば、私はかけられてばかりだった。
穴の外で拾われた日から——頭には布、背中には合わせた襟、寒い夜にはこの外套。
隠してくれる手は、いつもカラスの側にあった。
その手は、もう動かない。
動かない分を、今度は私がやる。
かけられる側は、今日で終わりだ。
かけられる側からかける側へ。
外套の下で、カラスは眠っているように見えた。
見えるだけだと、知っていた。
それでも、そう見えることが、すこしだけ私を助けた。
◆ ◇
ふたつめは、棒だった。
私の棒は、ない。
審問の日に、取り上げられた。
棒のない手は、ただの、奪われる手だ。
それを、五年の穴が私に教えた。
穴の底を、私は歩いた。
歩いて、隅の暗がりを探す。
捨てられたものの積もる場所は、どこの穴にもある。
骨、ぼろ布、錆びた金物、名前をなくした誰かの遺品。
その中から、私は長い骨を選んだ。
太くて、乾いて、まっすぐな骨だ。
誰の骨だったのかは、考えない。
考えない覚え方も、穴で覚えた。
三本の指と親指で握ると、手に馴染んだ。
重さも長さも、樫の棒とは違う。
違うのに、覚えのある場所に収まった。
三本の指は、もう棒の形を知っている。
骨は、棒だ。
棒は、骨だ。
ひとつめの声が、手の中で鳴った。
私は骨をひとつ振った。
毎朝、カラスの前で振っていた、あの振り方で。
風を切る音が、穴の底に薄く立つ。
その音を聞いて、ようやく、手が手に戻った。
骨は棒だ。
それがお前を生かす。
◆ ◇
それから、私はカラスの隣の岩に、骨の先で線を引いた。
縦の線を、一本。
カラスが毎朝、板に引いていた線だ。
線があれば、ある。
消えれば、ない。
カラスは、もういない。
いないはずなのに、私の中では、まだ、ある。
教わった手が、ある。
もらった名が、ある。
振り方も、看方も、火の起こし方も、ある。
だから、線は二本だ。
カラスの分を、隣に引いた。
引いて、しばらく、二本を見ていた。
穴の薄い光の中で、線はただの傷に見える。
そのただの傷が、私には、ふたり分の「ある」だった。
岩の上に、縦の線が二本並んだ。
消す者は、いない。
雨も、ここまでは届かない。
◆ ◇
名のことも、書いておく。
私の名は、レンだ。
誰にも書かせない。
誰にも消させない。
ふたつめの声の、とおりに。
穴の底で、私はその名を、初めて自分の荷物だと思った。
奪われない、荷物だ。
左の腕とも、右の目とも違う。
奪いようのない場所に、ある。
穴は、ぜんぶを取る。
腕も、目も、指も、声も、取られた。
それでも、名は残った。
残ったのは、内側に置いたからだ。
誰にも言わない名前は、誰にも取れない。
あの日のわたしは、それを知っていて、隠した。
今日の私は、もう、隠すために持つのではない。
名を取り上げた者たちは、それを知らない。
知らないことが、いつか、あの者たちの負けになる。
◆ ◇
最後に、私は外套の上から、カラスの胸に手を置いた。
置いて、言った。
「……行ってくる」
行くぞ、と言う声は、もうない。
ないから、私が言う。
言って、私は立った。
膝は、震えなかった。
震えるだけの涙は、三日で使い果たしていた。
残ったのは、乾いた体と、よっつの声だ。
穴の底に、骨がひとつ。
縦の線が、二本。
外套の下に、ひとり。
ぜんぶを覚えて、私は歩き出した。
カラスが遺したものを——名を。




