第45話「託した名」
穴の底で、俺は岩の天井を見上げていた。
見覚えのある天井だった。
いや、見覚えなどあるはずがない。
ここは第一の穴ではない。
海の向こう。
別の大陸。
別の国。
別の穴だ。
それでも、穴は同じ顔をしている。
光を奪う。
名を奪う。
人間を、底へ置き去りにする。
どこの穴でも、それだけは変わらない。
俺がいま思い出しているのは、前世のことではなかった。
灰、という名前の子供のことだった。
◆◇
第二の穴。
海の果てにある、いちばん遠い穴。
底には、俺たちのほかにも人がいた。
痩せた男。
目の濁った女。
まだ若いのに、もう老人のように座り込んでいる者。
みんな、奪うか奪われるかの目で俺たちを見ていた。
第一の穴と同じだ。
どこの穴でも、最初に残るのは腹の音で、最後に残るのは目だ。
俺は岩の縁に横たわっていた。
動けない。
腹の傷が熱を持っている。
船底の汚れ。
潮水。
布切れ。
穴の湿った空気。
どれも傷には最悪だった。
医者の目が、勝手に診断する。
化膿。
発熱。
悪寒。
血に回り始めた毒。
敗血症。
もって数日。
たぶん、それ以下。
皮肉なものだ。
医者だった俺が、自分の腹ひとつ救えない。
だが、不思議と悔しくはなかった。
俺の手は、もう一度だけ届いた。
クライスの手が灰に触れる前に。
それだけで、今の俺には十分だった。
◆
灰が、俺の傷を看ていた。
穴の水で布を洗い、膿を拭う。
押さえる場所。
布を替える間隔。
熱を確かめる手つき。
全部、俺が教えたものだった。
救われた子が、救った男を看ている。
灰の頬に、俺の血がついていた。
拭ってやりたい。
だが、手が上がらない。
灰は穴の隅から骨を拾ってきた。
まだ肉のついた骨だった。
それを俺の口元へ持ってくる。
食え、と。
穴で生きるには食わなければならない。
それを、誰よりも知っている手だった。
だが、飲み込む力がもうない。
俺は首を振り、灰の手を押し返した。
灰の目が揺れた。
穴で動かなくなった子供を見る目だった。
いやだ。
そう言えないまま、ただ目だけが言っていた。
俺は、話すことにした。
いままで話さなかったことを。
この子に、置いていけるものを。
◆◇
「灰。聞け」
声が掠れていた。
灰が顔を上げる。
「俺はな。昔、医者だった」
通じるかはわからない。
長い旅の間に、灰は言葉を覚えた。
だが、俺の前世の話は初めてだ。
「別の世界で。人を救う仕事だった」
息を吸うだけで、腹の奥が焼ける。
それでも、言わなければならなかった。
「でも、一度も、誰も救えなかった」
灰は黙って聞いている。
「最後に、謝りに行った」
「謝ることしか、できなかった」
「それで、刺されて死んだ」
自分で言って、少し笑いそうになった。
ひどい人生だ。
だが、そのひどい人生が、ここへ繋がった。
「こっちへ来て」
「お前を拾って」
「初めて、ひとり、救えた」
灰の目が、かすかに揺れる。
「お前を救えたことが」
俺は言った。
「俺の、医者の答えだ」
今度は、ちゃんと笑えた気がした。
前世の俺は、謝って死んだ。
今世の俺は、救ったと言って死ねる。
それだけで、十分だった。
◆
託すものを、俺は数えた。
医者が最後に、残った脈を数えるように。
「ひとつ」
息を整える。
「骨は、棒だ」
灰が俺を見る。
「棒は、骨だ」
「忘れるな。お前を、生かす」
ふたつ。
「お前の名は、レンだ」
灰の目が止まった。
「誰にも、書かせるな」
「誰にも、消させるな」
「お前が、お前の中に持っていろ」
みっつ。
「お前は、灰だ」
俺は、ゆっくり言った。
「俺と、お前の、両方の名だ」
「俺が消えても、その名は、お前の中に残る」
よっつ。
ここで、息が詰まった。
肺がうまく動かない。
灰が身を乗り出す。
俺は首を振った。
まだだ。
まだ、これだけは言う。
「謝るな」
灰が、聞き取れなかったように瞬きをした。
「生き残ったことを、謝るな」
「助けられなかった子のことを、全部、背負おうとするな」
「俺のことも」
息が切れる。
それでも、言う。
「謝らずに、生きろ」
前世の俺が、最後までできなかったこと。
この子には、それを背負わせない。
「俺と、同じ過ちを、するな」
灰の顔が、歪んだ。
泣き方を知らない子供が、初めて泣きそうになる顔だった。
◆◇
俺の目が暗くなっていく。
暗くなる視界の真ん中に、灰の顔があった。
灰の口が動く。
「……立って」
乾いた声だった。
「立ってよ。カラス」
めったに出さない声で、灰は俺に立てと言っている。
穴の中で動かなくなる者を、この子は何人も見てきたはずだ。
動かなくなれば終わりだと、誰よりも知っているはずだ。
だから、俺にだけは言う。
立って、と。
水場まで来られなかった子に言えなかった言葉を。
肉片に手を伸ばしたまま冷えた子に言えなかった言葉を。
格子の下で声も出せなくなった子に言えなかった言葉を。
全部まとめて、俺に言っている。
……言うな。
そう言いたかった。
お前のせいじゃない。
俺のことまで、穴の底の子供たちと同じ場所へ置くな。
そう言いたかった。
だが、もう声が出ない。
謝りそうになった。
すまない、と。
だが、言わなかった。
最後にそれを言えば、俺はまた前世と同じ男に戻ってしまう。
だから、代わりに心の中で名前を書いた。
レン。
灰。
ふたつの名を、同じ場所に。
俺の名前は、もういい。
カラスでいい。
灰でいい。
お前の中に少し残るなら、それでいい。
暗くなる。
音が遠のく。
最後に、灰の手が俺の手を握った。
温かかった。
まだ、生きている手だった。
だから俺は、その手に全部を渡した。
骨を。
名を。
生きろという言葉を。
謝らずに生きろという、俺の最後のわがままを。
渡せるものを、ぜんぶ。
この子に。
託した。




