第44話「庇った傷」
灰と旅をして、もう何年が過ぎたのか、数えるのはやめていた。
あの片腕の小さな子供は、いつのまにか背が伸びて、俺の肩の高さまで届いている。
棒の振りは、もう俺の目では追えない。
……それでも俺の目には、こいつがまだ、あの穴の底にいた子供に見えるのだ。
その子を海の向こうへ渡されるのを、黙って見送る気は、俺にはなかった。
◆◇
港への道は、鎖だった。
手を繋がれ、兵に前後を固められて、俺たちはカルディスの港まで引かれていく。
灰は、裸のまま引かれていた。
審問廷で剥かれた布を、誰も返してはくれない。
灰色の髪も、背中の二重の輪も、ずっと布で隠してきたものが、いま白日の下に晒されている。
道の両脇には、人が集まっていた。
異端をひと目見ようと寄った、その手に石がある。
最初のひとつが飛んで、灰の肩に当たった。
次のひとつ。
また、ひとつ。
「悪魔め」
「奴隷が」
「焼いて、しまえ」
石と罵りが、雨のように降った。
その中には、俺たちが救った村の者も、助けた子供の親も、いたかもしれない。
昨日まで頭を下げた相手が、今日は石を投げる。
名を決める側が異端と呼べば、民はいっせいに石を握るのだ。
それでも灰は、避けなかった。
俯きもしなかった。
石を受けながら、まっすぐ前を見て歩いていく。
奪われることに慣れた、あの背中で。
昨日まで頭を下げた相手が今日は石を投げる。
……やめろ。
俺は繋がれた手で、灰を庇おうとした。
だが、庇えなかった。
鎖が、それを許さない。
その許さない鎖の隣で、俺は生まれて初めて、心の底からこの世界を憎んだ。
海の匂いが、濃くなる。
桟橋には、帆を畳んだ船が一隻、こちらを待っていた。
あれに乗せられれば、もう海の向こうだ。
二度と戻れない場所へ運ばれる。
……ここまでだ。
俺は灰を見た。
灰も、俺を見た。
言葉はいらなかった。
骨は、棒だ。
道の上では、法も、神も、鎖を握る兵も、ただの骨にすぎない。
◆
桟橋の半ばで、俺は動いた。
繋がれた鎖を、すぐ近くの兵の首に巻きつけ、巻いて、ひねる。
骨の鳴る音がした。
同時に、灰も動いていた。
縄を噛み切り、空いた手で別の兵の膝の裏を払う。
二人がまとめて崩れた。
桟橋の脇に、荷揚げ用の棒が転がっていた。
樫の、長い棒だ。
灰がそれを拾う。
審問の日に奪われたものの、代わりを——迷いのない手だった。
兵たちが、剣を抜いた。
囲まれる。
俺たちには苦手なかたちだ。
だが、今日は二人だった。
背中を合わせる。
灰の背が、俺の背に触れた。
その小さな熱を、俺は覚えた。
◆◇
囲みを崩しかけた、その時。
ひとつだけ、速い影が割り込んだ。
兵じゃない。
仕立ての良い外套に、細身の剣——クライス・ファルディンだった。
男は兵を押しのけ、まっすぐ灰へ歩いてくる。
「もう、いい」
涼しい声だった。
「鎖は、似合わん。お前は、私が、もらう」
その手が、灰の腕へ伸びた。
欲しいものを当然のように取る、その手で。
——触らせるか。
考えるより先に、体が動いていた。
灰とクライスのあいだへ割り込んだ俺の腹に、細身の刃が、深く入った。
触らせるか。
考えるより先に体が動いていた。
◆
痛みは、遠かった。
不思議と、怒りもなかった。
……二度目だ。
前世でも、俺は腹を刺された。
夜の住宅街でのことだ。
あの時も、痛みは遠かった。
ただ、あの時は自分のために刺され、今度はこの子のために刺された。
……悪くない、と思った。
刃が抜かれる。
抜かれた腹から、熱いものがこぼれ、膝が落ちた。
灰が、俺の名を呼んだ。
「カラス」
めったに出さない声だった。
俺は笑ってみせた。
ちゃんと笑えたかは、わからない。
クライスが、俺を見下ろしていた。
刺した男を検分するような目で。
「庇ったか」
男はつまらなそうに言って、続けた。
「奴隷の、犬が」
その隙だった。
灰が跳んだ。
棒の先が、クライスの肩を打つ。
クライスは後ろへ退き、退きながら、舌を打った。
「……兵を、増やせ。生きたまま、二人とも、穴へ、落とせ」
灰は、棒を捨てた。
捨てて、俺を抱え起こす。
細い腕が、俺の重さを支えきれずに震えていた。
それでも、離さなかった。
離さないまま、俺たちは兵に囲まれて、船へと引きずられていった。
◆◇
船が、海へ出た。
グラッサン海。
灰色の波が、どこまでも続いている。
俺は船底に転がされ、腹からはまだ血が滲んでいた。
その隣で、灰が裸のまま膝を抱えている。
石に打たれた肩に、痣が浮いていた。
晒された背中の二重の輪が、船底の薄明かりの下に、晒されたままだ。
……まだ、隠してやれる。
俺は自分の外套に手をかけた。
血で汚れた外套だ。
かけた手が、震える。
腹の傷が、動くな、と叫んでいる。
その体に逆らって、俺は外套を脱ぎ、灰の肩にかけてやった。
この子に布をかけるのは、もう何度やったか、わからない。
穴から拾って、頭に布を巻いて、烙印を隠して——ずっと隠してきた。
……きっと、俺より前にも、誰かがこの子に、こうして布をかけてやった夜があった気がする。
俺はそれを知らない。
知らないが、その手のいちばん後ろに、いま俺の手が並ぶ。
誰かがかけた手のいちばん後ろにいま俺の手が並ぶ。
灰が、かけられた外套の襟を握った。
握って、肩へ引き寄せる。
それから船底のぼろ布を拾い、その布で、俺の腹の傷を押さえた。
俺が教えた手当てで。
救った手が、いま俺を救おうとしていた。
……間に合わないのは、俺がいちばんよく知っている。
医者の目は、こういう時にだけ正直だ。
甲板では、船員たちが低い声で話していた。
現地の言葉だ。
「この海の、底にゃ、いるんだ」
「クジラを、食う、クジラが」
「太古から、沈んでる。滅多に、浮かばねえ」
「浮かんだ海域は、船ごと、消えるとよ」
その名を、ひとりが囁いた。
俺は半分しか聞き取れなかった。
聞き取れなくても、わかった。
この世界の海の底には、俺の知らない、もっと古いものが眠っている。
神よりも古い、何かが。
……知らないことばかりだ。
知らないまま、俺はこの海を越えていく。
◆
何日揺られたかは、わからない。
着いた岸は、見たこともない土地だった。
空の色からして違う。
別の大陸だ。
兵が、俺たちを内陸へ引いた。
岩の峡谷。
その底に、穴がぽっかりと口を開けていた。
第一の穴より、ずっと深い。
光の届かない底だ。
灰が、足を止めた。
止めた灰の灰色の目が、その闇をじっと見ている。
……ああ。
お前を、また、こんな場所へ。
俺の腹から、力が抜けていく。
抜けていくなかで、俺は最後に、灰の手を握った。
握った手は、温かかった。
兵に、突き落とされる。
二人で。
光のない方へ。




