第41話「負けを面白がる男」
名が上がれば、いずれ、こういう男が現れる。
強い者を、利用しようとする男。
あるいは、潰そうとする男。
俺は、それが現れるのを、ずっと待っていた。
だが、いざ現れた男は、俺の想像していたより、ずっと冷たかった。
◆◇
カルディスのギルドは、ルーウェインのそれの、三倍はあった。
どっしりした石造りの、大きな建物だ。
壁には、これまでの討伐の記録が、びっしりと刻まれている。
依頼の貼り紙も、見上げるほど高いところまで、隙間なく貼られていた。
峠の亀獣の話は、もう、ここまで届いていた。
受付の男は、俺たちを見るなり、奥へ走っていく。
その走った先から、でっぷり太ったギルドの長が、出てきた。
「お前たちか。亀獣を、仕留めたのは」
現地の言葉だ。
「ああ」
「最下級のままには、しておけん」
長は、言った。
「昇格審査を、受けろ。実技だ。勝てば、いくつか、飛ばす」
……飛ばす、か。
俺は、灰を見た。
灰は、壁の記録を、じっと見上げていた。
文字は、読めないだろう。
だが、刻まれた数の多さは、わかる。
ここには、強い者が、たくさんいる。
灰の目は、その数を、測っていた。
俺は、首を横に振った。
「この子は、登録がない」
長の眉が、上がった。
「歳が、足りなかった。ルーウェインでは、雑役の連れだった」
長は、灰を上から下まで、見た。
「いまは、どうだ」
……もう、雑役の歳ではない。
道は、長かった。
その分だけ、この子は、伸びた。
「ああ。もう、足りている」
俺は、卓に銅貨を置いた。
長が、紙を一枚、引き寄せる。
「名は」
「灰だ」
灰の名が、最下級の札に、書き込まれた。
札を持たぬ連れではなく、いちばん下の、ひとりの冒険者として。
だから、審査の場に、立てる。
◆
審査は、ギルドの裏手の、闘技場で行われた。
砂を敷いた、円い場所だ。
昇格を望む者が、模擬戦で、自分の腕を見せる。
相手は、上級の冒険者たち。
灰は、最初の三人を、危なげなく退けた。
棒で。
刃を、向けることもなく。
ただ、相手の剣を、継ぎ目から弾き落とすだけで。
誰ひとり、灰に触れることすら、できなかった。
観客席が、ざわついていた。
片腕の、小さな子供が。
大人の冒険者を、まるで子供のように、あしらっていく。
……目立ちすぎだ。
だが、もう、止まらない。
止められない場所まで、来てしまった。
もう止まらない。
止められない場所まで来てしまった。
その時、観客席のいちばん高い場所から、声がした。
「面白い」
よく通る声だった。
現地の言葉が、流れるように整っていて、訛りがまるでない。
貴族の、言葉だ。
声の主が、立ち上がった。
仕立ての良い、外套。
腰に、細身の剣。
歳は、俺と同じくらいか。
痩せて、背が高く、その目は、ぞっとするほど酷薄だった。
「私に、やらせろ」
男は、そう言って、闘技場へ降りてきた。
ギルドの長が、慌てて頭を下げる。
「ファルディン卿。審査の相手は、こちらで——」
「かまわない」
男は、長の言葉を、手で払った。
「あの子供が、本物かどうか。私が、見てやろう」
ファルディン。
俺は、その名を、聞いた。
プリズマ帝国の、貴族の名だ。
海の、ずっと向こうの国の。
……なぜ、そんな男が、こんな港町にいる。
◆◇
クライス・ファルディン。
男は、そう名乗った。
名乗ってから、灰を見る。
値踏みの目だ。
……いや、違う。
灰の値踏みは、奪うか奪われるかを、測る目。
だが、この男の目は、品定めだった。
値打ちが、あるか、ないか。
まるで、ものを見るような目で、灰を見ていた。
クライスが、剣を抜いた。
細身の刃が、砂に落ちる光を、すうと撫でる。
その構えには、隙がなかった。
……こいつは、強い。
さっきまでの上級の冒険者とは、格が違う。
子供だましの剣じゃない。
長い年月、人を斬り続けてきた剣だ。
灰が、棒を構えた。
いつものように、動かない。
測っているのだ。
この男の、剣の出どころを。
間合いを。
癖を。
先に動いたのは、クライスだった。
速い。
俺の目でも、追えるかどうか。
刃が、灰の首をめがけて、走った。
——だが。
灰は、もう、そこにいなかった。
半歩、内へ。
刃の、内側へ踏み込んでいたのだ。
斬撃は、懐へ踏み込んだ相手には、届かない。
灰は、それを知っていた。
誰にも教わらず、たったこの一戦で、見抜いたのだ。
懐に入った灰の棒が、クライスの手首の継ぎ目を、打った。
細身の剣が、宙を舞う。
そして、その剣が砂に突き立つよりも早く、灰の棒の先は、もうクライスの喉に当たっていた。
止まった。
止めた。
突かずに。
闘技場が、静まり返った。
プリズマの貴族が。
名のある剣士が。
片腕の、子供に。
喉元へ棒を突きつけられたまま、立っていた。
止まった。
止めた。
突かずに。
◆
俺は、思わず息をのんだ。
だが、灰に殺気は、ない。
灰は、ただ、勝った相手を見ている。
いつもの、水を飲む時と同じ目で。
殺さなかったのは、ここが審査の場だからだ。
倒すことと、しのぐことを、この子はもう、ちゃんと分けている。
観客が、どっと沸いた。
だが、その歓声の中で、クライスだけが、笑っていた。
負けたのに。
喉に棒を当てられたまま、その男は、薄く笑っていた。
「……ほう」
クライスの目が、灰の、灰色の目を覗き込んだ。
その目の奥に、何があるのかを探るように。
覗き込んで、低い声で言った。
「面白い」
俺だけに聞こえる、声で。
「鍛えて、届く速さじゃ、ない」
「お前は、何だ」
灰は、棒を引いた。
引いて、何も言わずに、退がる。
クライスは、砂から自分の剣を抜き取った。
抜いて、鞘に収める。
収めながら、まだ、灰を見ていた。
負けを悔しがる目じゃ、ない。
欲しいものを、見つけた目だ。
……まずい。
俺の背筋が、すうと冷えた。
怒る男なら、まだいい。
怒りは、いつか冷める。
だが、この男は、負けを面白がっている。
負けを面白がる男は、相手を、二度と忘れない。
負けを面白がる男は二度と忘れない。
◆◇
クライスは、闘技場を出る前に、一度だけ振り返った。
振り返って、ギルドの長に、何かを囁く。
長の顔が、こわばった。
囁きの中身は、聞こえない。
聞こえなかったが、灰を見る長の目が、それまでとは別のものを見るように変わった。
報告する者の、目だ。
……あの男の後ろには。
何か、別のものが、いる。
プリズマの貴族が、たった一人で、こんな港町にいるはずがない。
誰かの目の代わりに、ここにいるのだ。
その誰かが、いったい誰なのかは、俺には、まだわからない。
わからないが、ひとつだけ、わかることがある。
この男は、また来る。
灰を、見に。
あるいは、灰を、取りに。
◆
審査は、通った。
灰の等級は、いくつも飛び越えた。
俺たちはもう、最下級じゃない。
ギルドを出ると、もう日が暮れていた。
港の、潮の匂いが濃い。
灰が、俺の半歩前を歩いていく。
血のつかない、ただの棒きれを抱えて。
「あの男を、どう、見た」
俺は、訊いた。
答えなんて、期待していない。
だが、灰は、ぽつりと言った。
「……強い」
そして、こう続けた。
「もう一度、やったら。次は、負けるかもしれない」
俺は、驚いた。
この子が、負けを口にするのは、初めてだった。
負けを、想像できる。
それは、相手を、ちゃんと見たということだ。
それも、恐れでは、ない。
灰の目は、こわがってなどいなかった。
むしろ、次を、待っている。
あの強い相手と、もう一度やり合う日を。
……そうか。
ずっと、隠れて生きるしかなかった子が。
いま、初めて。
自分の方から、誰かに。
挑みに、行く。




