第40話「速さは隠せない」
強さは、隠せる。
弱いふりなら、できる。
わざと、もたついて見せればいいのだ。
だが、速さだけは、隠せない。
いざという時に、体が勝手に出してしまう、あの速さだけは。
この子の牙が、いつか人目に晒される日が来る。
俺は、ずっとそれを恐れていた。
その日が、思っていたよりも早く、来ただけのことだ。
◆◇
俺たちが目指していたのは、カルディスだった。
グラッサン海に面した、港の大都市だ。
西の辺境とは、何もかも桁が違う。
きれいに敷かれた石畳の道。
見上げるほど高い、城壁。
風に混じる、海の塩の匂い。
あれだけ大きな街なら、流れの冒険者も大勢いる。
その中なら、灰の力も、ちょっとした腕利き程度で通る。
そう、踏んでいた。
だが、その街道が、塞がっていた。
カルディスへ続く、最後の峠道。
両側を岩に挟まれた狭い切り通しに、人と荷車が長い列をなして、立ち往生していた。
行商人。
巡礼者。
地方へ向かう、家族づれ。
みんな、先へ進めずに、苛立っている。
列の先頭の方へ目をやって、俺は、足を止めた。
道のまんなかに、小屋がひとつ、座っていた。
……いや、小屋じゃない。
亀だ。
青い甲羅をした、巨大な亀。
甲羅の差し渡しは、荷馬車ほどもある。
それが、ゆっくりと首をめぐらせては、道の岩を、ぼりぼりと噛み砕いていた。
青殻亀獣。
苔むした岩そっくりの甲羅が、昼の光を受けて、うっすらと青く滲んでいる。
◆
すでに、領主の兵が来ていた。
十人ばかりが、槍を構えている。
だが、構えるばかりで、誰も踏み込めない。
一人が、意を決して、槍を突き入れた。
だが、突き出した穂先は、甲羅の上をつるりと滑っただけだった。
火花が散る。
まるで、通らない。
あの甲羅の硬さは、鉄の盾どころの比じゃない。
別の兵が、横合いから斬りかかった。
途端に、亀獣の前脚が、ぬっと薙ぐ。
薙がれた兵は、数歩ぶん吹き飛ばされ、地面に転がった。
残りの兵たちが、じりっと退く。
……手も足も、出ない。
いっそ飛空船でも呼べれば、上から狙い撃ちにできるんだろうが。
あんなものは希少で、べらぼうに高い。
こんな田舎の峠に、来るわけがなかった。
兵の頭らしい男が、舌打ちした。
「迂回路は、ない。山が、崩れたばかりだ」
現地の言葉が、聞こえた。
「数日、ここで、足止めだ」
数日。
その言葉に、列のあちこちで、ため息が漏れた。
数日も足止めをくらえば、荷は腐る。
路銀も、尽きる。
俺は、ちらと、灰を見た。
……まずい。
灰はもう、じっと亀獣を見ていた。
いつもの、値踏みの目じゃない。
測る、目だ。
あの分厚い甲羅の、どこが急所か。
灰はもう、それを探していた。
いつもの値踏みではない。
測る目だ。
◆◇
止めようとした。
目立つな、と。
兵たちの目の前で力を見せれば、それこそ、いままで必死に隠してきたものが、ぜんぶ晒されてしまう。
だが、止めるより早く、灰の足は、もう前へ出ていた。
列の脇を、するりとすり抜けて。
兵の制止も、聞かずに。
その小さな体が、亀獣の真正面に、立った。
ざわめきが、起きた。
子供が、何を、と。
亀獣の首が、ぐるりと灰を捉えた。
捉えるなり、岩を噛んでいた顎が、灰めがけて伸びる。
速い。
ただ大きいだけの、鈍重な獣じゃない。
兵たちが、息をのんだ。
俺も、もう走り出していた。
間に合わない。
間に合わない、と思った、その時。
灰が、横へ、ひとつ転がった。
伸びてきた首を、紙一重で躱して。
そして躱しざま、首の付け根へ、棒の先を入れた。
そこだけは、甲羅がない。
首を出した時にだけ晒される、わずかな継ぎ目だ。
灰は、その一点だけを、最初からじっと待っていたのだ。
てこの、支点。
灰が、棒をぐいとねじる。
ぐ、と、鈍い音がした。
亀獣の太い首が、ありえない方向へ傾いだ。
傾いで、止まる。
巨体が、ゆっくりと横倒しになった。
どん、と地が揺れる。
……一突き、だ。
兵が十人がかりでも手も足も出なかった化け物を。
片腕の、子供が。
たった、一突きで。
十人がかりで手も足も出なかった化け物を。
たった一突きで。
◆
切り通しが、静まり返った。
誰も、声を出さない。
いや、出せなかった。
灰は、倒れた亀獣の脇で、棒を握ったまま立っていた。
息ひとつ、乱していない。
その目は、やはり、水を飲む時と同じだ。
ただ、静かに、そこにいた。
やがて、列のどこかで、誰かが声を上げた。
歓声だった。
行商人が、巡礼者が、家族づれが、いっせいに灰を見ている。
恐れと、驚きと、感謝の入りまじった、まなざしで。
……ああ。
俺は、思わず天を仰いだ。
隠して、隠して。
ここまで、必死に隠してきたのに。
この子の牙は、いま、白日の下に、さらけ出された。
もう、しまうことはできない。
◆◇
兵の頭が、こちらへ近づいてきた。
灰を見て、それから、俺を見る。
「その子は、何者だ」
現地の言葉だ。
「ただの、流れの冒険者だ」
俺は、そう答えた。
通るとは、思っていない。
案の定、男は、首を振った。
「流れの冒険者が、亀獣を、一突きで仕留めるか」
答えに、詰まる。
「カルディスの、ギルドへ、行け」
男は、言った。
「この働きは、報告が、上がる。最下級のままじゃ、済まない」
……済まない、か。
報告が上がれば、名が上がる。
名が上がれば、いままで人混みに紛れていた俺たちが、誰かの目に留まる。
目に留まれば、今度は、狙われる側に回る。
強い者は、利用されるか、潰されるか、そのどちらかだ。
盗賊だった頃から、それだけは、身に染みて知っている。
……だが。
俺は、灰を見た。
灰はもう、倒した亀獣の甲羅の縁を、棒でこじっていた。
縁の下の、青い肉を、削り取っている。
食う気だ。
あるいは、素材にする気か。
兵がどうの、名がどうのと、この子はまるで気にしていない。
目の前の獲物が、食えるか。
使えるか。
灰にとっては、ただ、それだけなのだ。
……強いな、お前は。
俺みたいに、まだ来ない先のことばかり、こわがらない。
ただ、いまを生きている。
それだけで。
俺は、ふっと息を吐いた。
吐いて、覚悟を決めた。
隠せないなら、もう、隠さない。
名が上がるなら、上がればいい。
その分だけ、俺が目を光らせる。
この子に手を伸ばす者がいたら、今度は、俺が、牙になる。
「行くぞ、灰」
俺は、歩き出した。
灰が、削り取った肉を布に包んで、後ろからついてくる。
札も持てなかった子が。
いま、人の渦のただ中で、自分の名を、持とうとしている。
隠せなくなった牙を、抱えて。
俺たちは、カルディスへ。
昇りに、行く。




