第39話「引く手」
最初の男が異変に気づいた時には、もう、その膝が折れていた。
灰の棒が、膝の継ぎ目を、的確に打っていたのだ。
倒れていく男には目もくれず、灰は次の的へ踏み込む。
二人目の、喉。
三人目の、肘。
骨の鳴る鈍い音が、続けざまに響いた。
俺が教えた、あの一点ばかりを。
誰に言われるでもなく。
ためらいも、なく。
俺も、走った。
走って、灰の死角に回り込もうとした一人の、首をひねる。
骨が、鳴る。
二人で片づけるはずだった。
だが、ふたを開ければ、ほとんど灰が、片づけていた。
最後の一人が、鏝を掴んだ。
武器のかわりに。
二重の輪を灰へ突きつけて、何かを喚いた。
売り物に傷をつけるな、とでも言ったのかもしれない。
灰は、止まらなかった。
突きつけられた鏝の輪を、棒で払う。
払って、膝の裏を打つ。
崩れ落ちる男の喉に、棒の先を、当てた。
そして、止めなかった。
……止めろ、とは。
言えなかった。
言う資格が、俺にはない。
骨は棒だ、と教えたのは、俺だ。
急所を教えたのも、俺だ。
だが、この容赦のなさだけは、俺が教えたものじゃない。
穴が、教えたものだ。
奪われ続けた五年が、この小さな体に刻みつけたものだ。
俺はただ、その上に、棒を握らせた。
すでに刻まれていた牙に、刃をつけてやっただけだ。
俺が教えたものじゃない。
穴が教えたものだ。
◆
戦いが、終わった。
立っているのは、俺と、灰だけ。
六人の男が、地に伏している。
灰は、血のついた棒を握ったまま、息ひとつ乱していなかった。
その目は、水を飲む時と、同じだ。
ただ静かに、檻の方を見ていた。
俺は、檻の縄を、ナイフで切った。
だが、子供たちは、出てこない。
縄が解けても、膝を抱えたまま、じっと俺たちを見ている。
こいつは奪う者か、それとも奪われる者か——その目で。
……無理もない。
昨日まで、大人というものは、こいつらを攫う手だった。
差し出された手が、いつ、引っぱたく手に変わるか。
この子たちには、わからないのだ。
俺は、動かなかった。
ここで近づけば、また固まってしまう。
動いたのは、灰だった。
灰は、手にした棒を、地に置いた。
そして、空いた手を、ゆっくり檻の中へ差し入れた。
何も言わずに。
ただ、手を開いて。
いちばん近くにいる子の、目の前に。
その子は、しばらく、その手を見ていた。
指の足りない、灰の手を。
見て、それから、おそるおそる、握った。
握られた灰の手は、その子を引っぱたかなかった。
ただ、引いた。
檻の、外へ。
……お前は。
かつて奪われる側にいた、その手で。
いまは、奪われる子を、引いている。
俺が棒を持たせた、その同じ手で。
◆◇
俺たちは、子供たちを、ブルノヴィエまで送り届けた。
井戸端で泣いていたあの女が、いちばん小さい子に、駆け寄った。
駆け寄って、崩れるように、抱きしめる。
その光景を、灰は、すこし離れたところから見ていた。
誰かを抱きしめる手というものを、まるで初めて見るように。
……お前にも、いたんだろうな。
あの女みたいに、お前の名を呼ぶ声が。
穴に落とされる、ずっと前に。
俺は、それを訊かなかった。
訊いたところで、灰は答えられない。
もう、覚えていないのだから。
あの鏝の連中が奪っていったのは、自由だけじゃない。
名も。
顔も。
呼んでくれた声も。
ぜんぶ、あいつらが攫っていった。
……だが。
まだ、ある。
縦線一本にすり減らされても、それでも消えなかったものが。
この子の中に、まだ、残っている。
それをいつか、この子は、取り返しに行くのかもしれない。
名も、顔も、声も。
奪われた、ぜんぶを。
俺は、灰の頭に、布をかけ直してやった。
灰色の髪を、隠す。
背中の、烙印も。
いまは、まだ、隠して生きるしかない。
だが、いつか。
奪われたものを。
俺たちは、取り戻しに、行く。




