第38話「攫う手」
俺が、灰に教えなかったものが、ひとつだけある。
憎しみだ。
骨の在りかは、教えた。
急所も、てこの使い方も、教えた。
だが、誰かを憎め、とは一度も言っていない。
言わなくても、この子はもう、知っていたからだ。
あの、奴隷狩りの匂いを。
◆◇
ブルノヴィエは、二本の街道が交わる、宿場町だった。
ドラーヴァ砦を越えて内地に入り、三日。
人が増えれば、銭が回る。
そして、銭の回る場所には、銭目当ての別のものも集まってくる。
町の井戸端で、一人の女が泣いていた。
それを取り囲む人垣の、まんなかで。
この土地の言葉は、半分しかわからない。
だが、言葉がわからなくても、泣き声に滲んだものは、はっきり伝わってきた。
——子を、取られた。
そう訴える声だった。
聞けば、この三日のうちに、村の子が四人も消えたという。
みんな、羊を追いに出たきり、戻ってこない。
はじめは、森のけものの仕業かと思われた。
だが、けものは、こんな跡を残さない。
地面に刻まれていたのは、車輪と、人の足と、蹄の跡だ。
……奴隷狩りだ。
強化された俺の頭が、勝手に跡を読み、線を引いていく。
軽装の荷車。
馬は数頭立て。
通ったのは、二日以内。
向かった先は——北だ。
◆
正直に言えば、俺はこの依頼を、受けるつもりがなかった。
相手が、けものなら、いい。
けものは食えるし、素材にもなる。
倒せば、銭になる。
だが、今度の相手は、人だ。
人を狩れば、こっちも狩られる側に回る。
なにより、目立つことだけは、避けたかった。
灰の背中には、消えない印がある。
あの奴隷狩りどもに、あれを見られたら。
逃げた奴隷だと知れたら。
今度は、こっちが売られる番だ。
……関わるな。
俺は、自分にそう言い聞かせた。
だが、そう言った俺の外套の裾が、くいと引かれた。
見ると、灰が、じっと北を見ていた。
いつもの、値踏みの目じゃない。
値踏みというのは、奪うか奪われるかを測る目だ。
だが、いまの灰は、何も測っていなかった。
ただ、決めていた。
……行く、と。
俺がまだ何も言わないうちから、この子はもう、決めていたのだ。
俺が何も言わないうちからこの子はもう決めていた。
◆◇
俺たちは、北の森へ、跡を追った。
灰が、先を行く。
俺が跡を読むより、ずっと早く。
折れた下草。
泥に深く沈んだ、車輪の溝。
だが、灰はそれを、目で追ってはいなかった。
鼻で、追っていた。
……こいつは、知っているのだ。
この匂いの行き着く先が、どこなのかを。
穴へ落とされる前の、あの道を、この子は一度、自分の足で歩いている。
日が暮れる前に、火の匂いが流れてきた。
森の窪地に、野営があった。
荷車が、二台。
男が、六人。
火を囲んで、干し肉を噛んでいる。
その荷車の脇に、木でできた檻があった。
檻の中には、子供が四人。
手を縄でくくられ、膝を抱えて、固まっている。
その目には、もう、光がなかった。
……あの目を、知っている。
穴の底で、何度も見た。
奪われる側の、目だ。
火のそばに、見覚えのある道具が立てかけてあった。
長い柄の、その先に、輪。
二重の、輪だ。
焼き印の、鏝。
人の体に、しるしを焼きつけるための道具だった。
灰が、足を止めた。
止めて、その鏝を、じっと見ていた。
自分の背中にあるのと、同じ形を。
灰の、空いている方の手が、襟の合わせをぎゅっと握った。
背中の烙印の、ちょうど上から。
握る指が、白くなるほど、強く。
……そうか。
お前のあれも、あの鏝で、焼かれたのか。
二重の輪。
この子の背中にあるのと同じ形。
◆
俺は、灰の肩へ、手を伸ばした。
いったん止めて、夜を待つつもりだった。
見張りの薄いところを狙って、子供だけを連れて逃げる。
それが、いちばん利口なやり方だ。
六人を相手に、正面からやり合うのは、下策でしかない。
俺たちは、数には弱い。
ずっと、そうだった。
だが、俺の手は、灰に届かなかった。
届く前に、もう、灰はそこにいなかった。
その影は、地を這うほど低く、火の方へ滑り込んでいた。
……速い。
俺の目では、もう追えない速さで。




