第36話「咳でしのぐ」
灰の背中には、消えない印がある。
二重の輪を重ねた、烙印だ。
逃げ出した奴隷につけられる、しるしだった。
その印が、ドラーヴァ砦で、俺たちの足を止めた。
ドラーヴァ砦は、ハルメン西部の関所だ。
辺境と内地を分ける、ぶ厚い石の壁。
王道を東へ行くには、この門をくぐるしか道はない。
門の前には、長い列ができていた。
行商人、巡礼者、それに俺たちのような流れ者。
衛兵が一人ずつ、順番に改めている。
荷をあらため、顔をあらため、そして通行税を取る。
払えない者は、引き返すしかない。
やがて、俺たちの番が来た。
衛兵は、若くなかった。
長いことこの門に立ってきた、という目をしている。
人の嘘を、いやというほど見慣れた目だ。
「親子か」
「ああ」
「西から来たな。何者だ」
「流れの、冒険者だ。ルーウェインで登録した」
俺は、ギルドでもらった木札を見せた。
衛兵はそれを、しばらくためつすがめつ眺めた。
それから、灰へ目を移す。
布を頭からかぶった、片腕のない子供。
その姿に、衛兵の目が留まった。
……見るな。
俺の手が、また、腰のナイフの柄へ動きかけた。
「その子。腕は、どうした」
「生まれつきだ」
「布の下は」
言いながら、衛兵の手が、灰の方へ伸びた。
頭の布を、めくろうとする。
布の下には、灰色の髪。
そのさらに下、背中には、あの烙印がある。
もし、めくられたら――
その時、灰が、咳をした。
ごほ、と。
濡れた、重い咳だった。
続けて、もう一度。
灰の小さな体が、咳のたびに、前へ折れる。
衛兵の手が、ぴたりと止まった。
「……病気か」
俺は、すかさず言葉をかぶせた。
「胸を、患っててな。人にうつるかは、わからん」
衛兵が、さっと手を引いた。
うつる、という言葉は、よく効く。
誰だって、流行り病だけは、もらいたくないのだ。
……いまのは。
俺は、横目で灰を見た。
灰は、まだ咳をしている。
だが、その目だけは、咳をしていなかった。
澄んだまま、じっと衛兵を見ている。
計っていたのだ。
いつ咳をすれば、あの手が止まるかを。
……教えていない。
咳のふりなんて、俺は一度も、この子に教えていない。
なのにこの子は、また自分で考えた。
奪われた過去を隠すために。
自分の弱さを、武器にして。
咳のふりは、教えていない。
この子は、弱さを、武器にした。
それでも、衛兵は、簡単には引き下がらなかった。
「通行税は、二人で、銀貨一枚」
銀貨。
そんなもの、俺たちは持っていない。
あるのは、乾し肉と、銅貨が数枚。
それだけだ。
払えなければ、内地へは入れない。
俺が何か言う前に、衛兵の方が、先を続けた。
「……だが、金がないなら、働きで払う手もある」
衛兵の目が、ちらりと砦の奥を見た。
「この先の農地が、荒らされてる。猪だ。でかいやつだ」
「猪」
「コバルトボアって、化け物だ。畑を、ひと晩で潰す。兵を出しても、手が足りん」
話が、見えてきた。
「倒せば、通すか」
「倒せたら、な」
衛兵は、笑った。
どうせ倒せるわけがない、と決めてかかった笑いだった。
農地は、砦の北の斜面にあった。
実った麦は、半分も踏み潰されている。
土の上には、巨大な蹄の跡が残っていた。
俺が両手を広げたくらいの、幅だ。
……でかい。
Fランクのスライムや、Dランクの狼とは、まるで格が違う。
その夜、ボアは、来た。
青灰色の、山のように大きな猪だった。
月明かりに、太い牙が鈍く光る。
突進してくる速さは、馬よりも速かった。
まともに受ければ、人ひとりなど、ひと突きで終わる。
俺は、横っ飛びに跳んだ。
跳びざま、すれ違うボアの脇腹を、ナイフで裂く。
だが、傷は浅い。
毛と脂が、厚すぎるのだ。
ボアが、向きを変えた。
変えて、また突っ込んでくる。
今度は、灰の方へ。
灰は、逃げなかった。
逃げずに、地面すれすれまで身を低くして、構えた。
ボアの巨体の、どこを狙えばいいのか。
俺にはわからない。
あの分厚い皮の下の、急所がどこかなんて。
だが、灰には、それが見えていた。
ボアの鼻先が、灰に届く。
その瞬間だった。
灰は、横へひとつ、ころりと転がった。
転がりざま、手にした棒の先を、ボアの後ろ脚の継ぎ目へ、すべり込ませる。
それが、てこの支点になった。
突進してくる巨体の重さそのものが、その一点へ、ぐうっと集まっていく。
力では、ボアに勝てない。
巨体の重さを、一点に、集めた。
ぐ、と、鈍い音がした。
後ろ脚が、折れる。
山が崩れるように、ボアの巨体が、横へ傾いだ。
倒れこんだボアの喉に、すかさず俺が、ナイフを入れた。
それで、終わった。
コバルトボアは、食える。
いや、ごちそうだ。
脂の乗った肉が、山ほど取れた。
牙は、削れば武器になる。
皮は、鎧の裏地に使える。
俺たちは、その肉を担いで、砦へ運んだ。
肉を見た衛兵の目が、変わった。
倒せるはずがないと踏んでいた猪を、本当に倒してきた親子。
その目は、……こいつら、使えるかもしれん、と言っていた。
「通っていい。税は、肉で足りる」
衛兵は、そう言った。
言って、もう一度、灰を見る。
だが今度は、布をめくろうとは、しなかった。
「達者でな、嬢ちゃん」
灰は、答えなかった。
答えるかわりに、また、ひとつ咳をしてみせた。
門が、開いた。
ぶ厚い石の壁の向こうに、内地が広がっている。
辺境よりも、緑がずっと濃い。
灰が、俺の半歩前を歩いていく。
背中の烙印は、まだ、誰にも見られていない。
弱さを演じ、機転で、しのいだ。
烙印は、まだ、誰にも見られていない。
弱さを演じ、機転で、しのいで。
俺たちは、また一つ、壁を。
越えに、行く。




