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灰のレン  作者: K3/KASANE
第三編・冒険者

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第36話「咳でしのぐ」


 灰の背中には、消えない印がある。


 二重の輪を重ねた、烙印だ。


 逃げ出した奴隷につけられる、しるしだった。


 その印が、ドラーヴァ砦で、俺たちの足を止めた。


 ドラーヴァ砦は、ハルメン西部の関所だ。


 辺境と内地を分ける、ぶ厚い石の壁。


 王道を東へ行くには、この門をくぐるしか道はない。


 門の前には、長い列ができていた。


 行商人、巡礼者、それに俺たちのような流れ者。


 衛兵が一人ずつ、順番に改めている。


 荷をあらため、顔をあらため、そして通行税を取る。


 払えない者は、引き返すしかない。


 やがて、俺たちの番が来た。


 衛兵は、若くなかった。


 長いことこの門に立ってきた、という目をしている。


 人の嘘を、いやというほど見慣れた目だ。


「親子か」


「ああ」


「西から来たな。何者だ」


「流れの、冒険者だ。ルーウェインで登録した」


 俺は、ギルドでもらった木札を見せた。


 衛兵はそれを、しばらくためつすがめつ眺めた。


 それから、灰へ目を移す。


 布を頭からかぶった、片腕のない子供。


 その姿に、衛兵の目が留まった。


 ……見るな。


 俺の手が、また、腰のナイフの柄へ動きかけた。


「その子。腕は、どうした」


「生まれつきだ」


「布の下は」


 言いながら、衛兵の手が、灰の方へ伸びた。


 頭の布を、めくろうとする。


 布の下には、灰色の髪。


 そのさらに下、背中には、あの烙印がある。


 もし、めくられたら――


 その時、灰が、咳をした。


 ごほ、と。


 濡れた、重い咳だった。


 続けて、もう一度。


 灰の小さな体が、咳のたびに、前へ折れる。


 衛兵の手が、ぴたりと止まった。


「……病気か」


 俺は、すかさず言葉をかぶせた。


「胸を、患っててな。人にうつるかは、わからん」


 衛兵が、さっと手を引いた。


 うつる、という言葉は、よく効く。


 誰だって、流行り病だけは、もらいたくないのだ。


 ……いまのは。


 俺は、横目で灰を見た。


 灰は、まだ咳をしている。


 だが、その目だけは、咳をしていなかった。


 澄んだまま、じっと衛兵を見ている。


 計っていたのだ。


 いつ咳をすれば、あの手が止まるかを。


 ……教えていない。


 咳のふりなんて、俺は一度も、この子に教えていない。


 なのにこの子は、また自分で考えた。


 奪われた過去を隠すために。


 自分の弱さを、武器にして。


 咳のふりは、教えていない。


 この子は、弱さを、武器にした。


 それでも、衛兵は、簡単には引き下がらなかった。


「通行税は、二人で、銀貨一枚」


 銀貨。


 そんなもの、俺たちは持っていない。


 あるのは、乾し肉と、銅貨が数枚。


 それだけだ。


 払えなければ、内地へは入れない。


 俺が何か言う前に、衛兵の方が、先を続けた。


「……だが、金がないなら、働きで払う手もある」


 衛兵の目が、ちらりと砦の奥を見た。


「この先の農地が、荒らされてる。猪だ。でかいやつだ」


「猪」


「コバルトボアって、化け物だ。畑を、ひと晩で潰す。兵を出しても、手が足りん」


 話が、見えてきた。


「倒せば、通すか」


「倒せたら、な」


 衛兵は、笑った。


 どうせ倒せるわけがない、と決めてかかった笑いだった。


 農地は、砦の北の斜面にあった。


 実った麦は、半分も踏み潰されている。


 土の上には、巨大な蹄の跡が残っていた。


 俺が両手を広げたくらいの、幅だ。


 ……でかい。


 Fランクのスライムや、Dランクの狼とは、まるで格が違う。


 その夜、ボアは、来た。


 青灰色の、山のように大きな猪だった。


 月明かりに、太い牙が鈍く光る。


 突進してくる速さは、馬よりも速かった。


 まともに受ければ、人ひとりなど、ひと突きで終わる。


 俺は、横っ飛びに跳んだ。


 跳びざま、すれ違うボアの脇腹を、ナイフで裂く。


 だが、傷は浅い。


 毛と脂が、厚すぎるのだ。


 ボアが、向きを変えた。


 変えて、また突っ込んでくる。


 今度は、灰の方へ。


 灰は、逃げなかった。


 逃げずに、地面すれすれまで身を低くして、構えた。


 ボアの巨体の、どこを狙えばいいのか。


 俺にはわからない。


 あの分厚い皮の下の、急所がどこかなんて。


 だが、灰には、それが見えていた。


 ボアの鼻先が、灰に届く。


 その瞬間だった。


 灰は、横へひとつ、ころりと転がった。


 転がりざま、手にした棒の先を、ボアの後ろ脚の継ぎ目へ、すべり込ませる。


 それが、てこの支点になった。


 突進してくる巨体の重さそのものが、その一点へ、ぐうっと集まっていく。


 力では、ボアに勝てない。


 巨体の重さを、一点に、集めた。


 ぐ、と、鈍い音がした。


 後ろ脚が、折れる。


 山が崩れるように、ボアの巨体が、横へ傾いだ。


 倒れこんだボアの喉に、すかさず俺が、ナイフを入れた。


 それで、終わった。


 コバルトボアは、食える。


 いや、ごちそうだ。


 脂の乗った肉が、山ほど取れた。


 牙は、削れば武器になる。


 皮は、鎧の裏地に使える。


 俺たちは、その肉を担いで、砦へ運んだ。


 肉を見た衛兵の目が、変わった。


 倒せるはずがないと踏んでいた猪を、本当に倒してきた親子。


 その目は、……こいつら、使えるかもしれん、と言っていた。


「通っていい。税は、肉で足りる」


 衛兵は、そう言った。


 言って、もう一度、灰を見る。


 だが今度は、布をめくろうとは、しなかった。


「達者でな、嬢ちゃん」


 灰は、答えなかった。


 答えるかわりに、また、ひとつ咳をしてみせた。


 門が、開いた。


 ぶ厚い石の壁の向こうに、内地が広がっている。


 辺境よりも、緑がずっと濃い。


 灰が、俺の半歩前を歩いていく。


 背中の烙印は、まだ、誰にも見られていない。


 弱さを演じ、機転で、しのいだ。


 烙印は、まだ、誰にも見られていない。


 弱さを演じ、機転で、しのいで。


 俺たちは、また一つ、壁を。


 越えに、行く。


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