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灰のレン  作者: K3/KASANE
第三編・冒険者

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第35話「さびしい匂い」


 獣なら、俺にもわかる。


 だが、ザヴラ村の湿地に出るものは、獣じゃなかった。


 ザヴラ村は、ホレツ村から半日ほど北にある、羊飼いの寒い村だった。


 痩せた土地に、痩せた羊と、痩せた人間が暮らしている。


 その村で、ひと月のあいだに三人が消えた。


 みんな、羊を追って北の湿地に入ったきり、戻ってこなかった。


 村長は、それを「霧の主」と呼んだ。


 依頼は、消えた者の捜索と、霧の主の討伐。


 報酬は、乾し肉と、銅貨が少し。


 寒村に銀貨なんてない。


 だが、乾し肉は、冬を越すための命そのものだ。


 俺たちは、その依頼を受けた。


 湿地は、村の北にあった。


 昼でも薄暗い。


 立ち枯れた木が、骨のように何本も突き出している。


 足元はぬかるみで、一歩進むごとに、泥がぬぷりと足を吸った。


 そして、霧があった。


 青い霧が、水面すれすれを低く這っている。


 ふつうの霧じゃない。


 風はぴたりと止まっているのに、その霧だけが、ゆっくりと一方へ流れていた。


 そこで、灰が足を止めた。


 いつもの、値踏みの目じゃない。


 獲物や敵を測るときの、あの冷たい目とは違う。


 その目は、青い霧をじっと見ていた。


 いや、見ているというより、耳をすませている。


 あるいは、においを嗅いでいる。


「どうした」


 俺が訊いても、灰は答えなかった。


 答えるかわりに、霧の方へ、一歩踏み出した。


 ……これは、知らない反応だ。


 奪う者を前にしたときでさえ、こいつはこんな顔をしない。


 灰の口が、わずかに動いた。


 声にはならなかった。


 だが、その形を、俺は読めた気がした。


 ——いる。


 そう、言ったように見えた。


 霧の奥に、何かが横たわっていた。


 近づくと、それは人だった。


 羊飼いの一人だろう。


 泥の上に、うつ伏せに倒れている。


 だが、声をかけても、肩に触れても、動かない。


 俺は、医者の手で、その首すじに触れた。


 脈はない。


 死んで、何日か経っている。


 なのに、腐ってもいないし、傷ひとつない。


 ただ、ひどく痩せていた。


 骨と皮だけになるまで——まるで、体の中身をそっくり吸い出されたみたいに。


 その時、すぐ先の霧が、ぐらりと動いた。


 水面が、内側から押し上げられるように盛り上がる。


 盛り上がった青い塊から、ぬうっと頭がもたげた。


 蛇だ。


 大蛇だった。


 胴は、俺の腕より太い。


 全身が青い霧を纏っていて、その霧が鱗の境目をぼかしている。


 どこまでが体で、どこからが霧なのか、目では追えない。


 その口が、ゆっくりと開いた。


 並んだ牙の奥から、また青い霧がとろりと漏れ出した。


 俺は、腰のナイフを抜いた。


 抜きざまに、泥を蹴って踏み込む。


 だが、刃は手応えもなく、霧をすり抜けた。


 体の輪郭が霧でぼやけていて、どこを狙えばいいのか、刃の先が定まらないのだ。


 その隙に、蛇の尾が横から薙いできた。


 避けきれず、左肩で受ける。


 水をたっぷり含んだような、重い一撃だった。


 たまらず、ぬかるみに片膝をつく。


 囲まれては、いない。


 相手は一匹きりだ。


 だが、捉えられない相手というのは、何匹に囲まれるよりも、たちが悪い。


 そこへ、灰が動いた。


 俺の前に、すっと出る。


 手にした棒を、まっすぐ構えた。


 構えたまま、また動かない。


 測っているのだ——霧の中でぼやけた体の、どこか一点を。


 ……あの、スライムの時と同じだ。


 あの時もこいつは、ぶよぶよした体の奥に隠れた、見えない核を探し当てた。


 今も、目に見えない芯を、灰は探している。


 蛇が、頭を引き、灰めがけて跳んだ。


 その瞬間だった。


 灰の棒が、霧をまっすぐ貫いた。


 狙ったのは、ぼやけた胴の、たった一点。


 こつん、と硬いものに当たる音がした。


 骨か、それとも核か。


 灰は、間を置かず、同じ場所をもう一度突いた。


 蛇の体が、びくんと痙攣する。


 纏っていた青い霧が、ほどけ始めた。


 ほどけた霧は、蛇の体からゆらりと立ちのぼり、ゆっくりと空へ流れていく。


 ——その時。


 灰が、また、空を見上げた。


 穴の底で、死んでいく子供の魂を見送った、あの時と。


 まったく同じ目で。


 流れていく霧は、ただの水のかたまりじゃなかった。


 その中に、何かがあった。


 消えた三人の、何か。


 吸い出された、中身の、何か。


 俺には、見えない。


 だが、灰には、見えている。


 いや——見える、というのとは違う。


 灰は、それを覚えているのだ。


 俺には、見えない。


 灰には、見えている。


 穴で、何度も、見送ったからだ。


 穴で、何度も、見送ったから。


 やがて霧は、すっかり薄れて、消えた。


 後に残ったのは、霧をなくした、ただの死んだ大蛇だった。


 湿地が、嘘のように静かになる。


 俺は、ぬかるみから立ち上がった。


 尾を受けた肩が、ずきずきと痛む。


「あれは、何だった」


 俺は、灰に訊いた。


 半分は、自分自身に訊いていた。


 獣じゃない。


 だが、神でもない。


 前の世界で覚えた俺の知識には、あんなものは、どこにも載っていない。


 灰は、霧の消えた方を、じっと見ていた。


 見たまま、ぽつりと言った。


「……さびしい、においがした」


 奪われた者の、最後の、何か。


 さびしい、においが、した。


 俺は、それ以上は訊かなかった。


 うまく言葉にはできないが、灰の答えは、たぶんそれで合っているのだろう。


 俺の知らない、この世界の、何か。


 奪われた者が最後に残した、何か。


 それが、獣の体に宿る。


 そして灰の鼻は、その悲しいにおいを、はっきりと嗅ぎ分けた。


 俺は、死んだ蛇の口から、牙を抜き取った。


 長く、ゆるく湾曲した牙だ。


 根元には、毒をためる腺がついている。


 これは乾かせば、薬にもなるし、毒にもなる——医者だった頃の知識が、そう教えてくれる。


 それから皮も剥いだ。


 霧が抜けてしまうと、青く光っていた鱗は、ただの丈夫な革に戻った。


 これは、街で売れる。


 最後に俺は、痩せこけた死体を背負って、村へ運んだ。


 せめて、土に還してやりたかった。


 村長は何度も礼を言い、約束の乾し肉を、俺の手に載せた。


 灰は、まだ湿地の方を見ていた。


 もう、霧はどこにもない。


 だが、その目は、まだ何かを見送っているようだった。


 魔物は、ただの獣じゃない。


 その中には、奪われた者の、なれの果ても、いる。


 魔物は、ただの獣じゃない。


 奪われた者の、なれの果てだ。


 そして、そのなれの果てを、灰は誰よりも早く嗅ぎ分ける。


 だから俺たちは、人を喰らうものを。


 狩りに、行く。


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