第35話「さびしい匂い」
獣なら、俺にもわかる。
だが、ザヴラ村の湿地に出るものは、獣じゃなかった。
ザヴラ村は、ホレツ村から半日ほど北にある、羊飼いの寒い村だった。
痩せた土地に、痩せた羊と、痩せた人間が暮らしている。
その村で、ひと月のあいだに三人が消えた。
みんな、羊を追って北の湿地に入ったきり、戻ってこなかった。
村長は、それを「霧の主」と呼んだ。
依頼は、消えた者の捜索と、霧の主の討伐。
報酬は、乾し肉と、銅貨が少し。
寒村に銀貨なんてない。
だが、乾し肉は、冬を越すための命そのものだ。
俺たちは、その依頼を受けた。
湿地は、村の北にあった。
昼でも薄暗い。
立ち枯れた木が、骨のように何本も突き出している。
足元はぬかるみで、一歩進むごとに、泥がぬぷりと足を吸った。
そして、霧があった。
青い霧が、水面すれすれを低く這っている。
ふつうの霧じゃない。
風はぴたりと止まっているのに、その霧だけが、ゆっくりと一方へ流れていた。
そこで、灰が足を止めた。
いつもの、値踏みの目じゃない。
獲物や敵を測るときの、あの冷たい目とは違う。
その目は、青い霧をじっと見ていた。
いや、見ているというより、耳をすませている。
あるいは、においを嗅いでいる。
「どうした」
俺が訊いても、灰は答えなかった。
答えるかわりに、霧の方へ、一歩踏み出した。
……これは、知らない反応だ。
奪う者を前にしたときでさえ、こいつはこんな顔をしない。
灰の口が、わずかに動いた。
声にはならなかった。
だが、その形を、俺は読めた気がした。
——いる。
そう、言ったように見えた。
霧の奥に、何かが横たわっていた。
近づくと、それは人だった。
羊飼いの一人だろう。
泥の上に、うつ伏せに倒れている。
だが、声をかけても、肩に触れても、動かない。
俺は、医者の手で、その首すじに触れた。
脈はない。
死んで、何日か経っている。
なのに、腐ってもいないし、傷ひとつない。
ただ、ひどく痩せていた。
骨と皮だけになるまで——まるで、体の中身をそっくり吸い出されたみたいに。
その時、すぐ先の霧が、ぐらりと動いた。
水面が、内側から押し上げられるように盛り上がる。
盛り上がった青い塊から、ぬうっと頭がもたげた。
蛇だ。
大蛇だった。
胴は、俺の腕より太い。
全身が青い霧を纏っていて、その霧が鱗の境目をぼかしている。
どこまでが体で、どこからが霧なのか、目では追えない。
その口が、ゆっくりと開いた。
並んだ牙の奥から、また青い霧がとろりと漏れ出した。
俺は、腰のナイフを抜いた。
抜きざまに、泥を蹴って踏み込む。
だが、刃は手応えもなく、霧をすり抜けた。
体の輪郭が霧でぼやけていて、どこを狙えばいいのか、刃の先が定まらないのだ。
その隙に、蛇の尾が横から薙いできた。
避けきれず、左肩で受ける。
水をたっぷり含んだような、重い一撃だった。
たまらず、ぬかるみに片膝をつく。
囲まれては、いない。
相手は一匹きりだ。
だが、捉えられない相手というのは、何匹に囲まれるよりも、たちが悪い。
そこへ、灰が動いた。
俺の前に、すっと出る。
手にした棒を、まっすぐ構えた。
構えたまま、また動かない。
測っているのだ——霧の中でぼやけた体の、どこか一点を。
……あの、スライムの時と同じだ。
あの時もこいつは、ぶよぶよした体の奥に隠れた、見えない核を探し当てた。
今も、目に見えない芯を、灰は探している。
蛇が、頭を引き、灰めがけて跳んだ。
その瞬間だった。
灰の棒が、霧をまっすぐ貫いた。
狙ったのは、ぼやけた胴の、たった一点。
こつん、と硬いものに当たる音がした。
骨か、それとも核か。
灰は、間を置かず、同じ場所をもう一度突いた。
蛇の体が、びくんと痙攣する。
纏っていた青い霧が、ほどけ始めた。
ほどけた霧は、蛇の体からゆらりと立ちのぼり、ゆっくりと空へ流れていく。
——その時。
灰が、また、空を見上げた。
穴の底で、死んでいく子供の魂を見送った、あの時と。
まったく同じ目で。
流れていく霧は、ただの水のかたまりじゃなかった。
その中に、何かがあった。
消えた三人の、何か。
吸い出された、中身の、何か。
俺には、見えない。
だが、灰には、見えている。
いや——見える、というのとは違う。
灰は、それを覚えているのだ。
俺には、見えない。
灰には、見えている。
穴で、何度も、見送ったからだ。
穴で、何度も、見送ったから。
やがて霧は、すっかり薄れて、消えた。
後に残ったのは、霧をなくした、ただの死んだ大蛇だった。
湿地が、嘘のように静かになる。
俺は、ぬかるみから立ち上がった。
尾を受けた肩が、ずきずきと痛む。
「あれは、何だった」
俺は、灰に訊いた。
半分は、自分自身に訊いていた。
獣じゃない。
だが、神でもない。
前の世界で覚えた俺の知識には、あんなものは、どこにも載っていない。
灰は、霧の消えた方を、じっと見ていた。
見たまま、ぽつりと言った。
「……さびしい、においがした」
奪われた者の、最後の、何か。
さびしい、においが、した。
俺は、それ以上は訊かなかった。
うまく言葉にはできないが、灰の答えは、たぶんそれで合っているのだろう。
俺の知らない、この世界の、何か。
奪われた者が最後に残した、何か。
それが、獣の体に宿る。
そして灰の鼻は、その悲しいにおいを、はっきりと嗅ぎ分けた。
俺は、死んだ蛇の口から、牙を抜き取った。
長く、ゆるく湾曲した牙だ。
根元には、毒をためる腺がついている。
これは乾かせば、薬にもなるし、毒にもなる——医者だった頃の知識が、そう教えてくれる。
それから皮も剥いだ。
霧が抜けてしまうと、青く光っていた鱗は、ただの丈夫な革に戻った。
これは、街で売れる。
最後に俺は、痩せこけた死体を背負って、村へ運んだ。
せめて、土に還してやりたかった。
村長は何度も礼を言い、約束の乾し肉を、俺の手に載せた。
灰は、まだ湿地の方を見ていた。
もう、霧はどこにもない。
だが、その目は、まだ何かを見送っているようだった。
魔物は、ただの獣じゃない。
その中には、奪われた者の、なれの果ても、いる。
魔物は、ただの獣じゃない。
奪われた者の、なれの果てだ。
そして、そのなれの果てを、灰は誰よりも早く嗅ぎ分ける。
だから俺たちは、人を喰らうものを。
狩りに、行く。




