第32話「手放さなかった名」
「親子かい」
それだけだった。
「ああ、まあな」
背中に汗がにじんでいた。
男は古い紙を一枚引き寄せた。
次に、灰を見た。
「そっちは」
灰の指が、俺の外套を強く掴んだ。
俺は言おうとした。
灰、と。
俺が渡した名を。
その時だった。
小さな声がした。
「……レン」
乾いた、かすれた声。
めったに出さない声だ。
灰が言った。
俺は思わず灰を見た。
布の下の目が、まっすぐ受付の男を見ている。
もう一度、その口が動いた。
「レン」
今度は、はっきりと。
灰じゃなかった。
俺が渡した名を、この子は消したわけじゃない。
その奥から、別の名を出した。
レン。
俺の知らない名だ。
番号でもない。
灰でもない。
この子が、自分で口にした名だ。
俺が灰と呼んだ子は、もとからレンだったのだ。
穴の底で。
誰にも書かせず。
誰にも消させず。
胸の奥に、ひとつだけ握っていた。
言えば奪われる。
そういう場所で、この子は生きてきた。
だから、言わずに守ってきた。
その名を、いま。
この子は自分から声に出した。
奪われる場所では、言わないことが守ることだった。
だが、ここでは言うことが、自分のものにすることだ。
男は肩をすくめた。
「で、どっちだ」
俺は少し笑った。
「両方だ」
灰と、レン。
二つの名が、紙に並んだ。
ただし、それは冒険者の登録証ではない。
宿を紹介するための控え。
街の隅で、しばらく息をするための仮の紙だ。
冒険者の札をもらったのは、俺ひとり。いちばん下の、最下級だ。
灰の分はない。歳が、足りないからだ。
それでも、紙にレンの名が残った。
俺の書けない手の代わりに。
この子の、まだ書かない手の代わりに。
ギルドを出ると、日が暮れかけていた。
酒場の軒先に、冒険者たちがたむろしている。
泥と返り血で汚れている。
樽に腰かけて酒をあおっていた。
誰も、レンを見ない。
逃げた奴隷にも、売り物にも、興味がない。
ただ疲れていて。
ただ飲みたいだけだ。
灰の目から、ほんの少し力が抜けた。
この世界には、奪う者と奪われる者と。
それから、ただくたびれた者もいるらしい。
俺たちも、その中に紛れればいい。
灰は、まだ冒険者ではない。
まだ、ただの逃亡者だ。
それでも。
カラスと、灰。
そして、レン。
名さえあれば、少しだけ紛れられる




