第31話「握り直した名」
ルーウェインは、坂の上にあった。
近づくにつれ、灰の足が重くなる。
壁が見えたからだ。
石を積み上げた、灰色の壁。
穴の壁とは違う。
手を伸ばしても、届かない。
見上げても、果てがない。
その壁が、街をぐるりと囲っている。
灰は、それを睨んでいた。
囲うものは、閉じ込めるものだ。
この子の体は、そう覚えている。
門が開いていた。
人が、出たり入ったりしている。
その人の数で、灰の歩みが止まった。
俺の数えで、ざっと百。
いや、もっといる。
荷車。
馬。
売り声。
鉄を打つ音。
革のにおい。
糞のにおい。
焼けたパンのにおい。
全部が、いちどに来る。
穴の中には、においなんてなかった。
あったのは、自分の血と、誰かの死だけだ。
この子の鼻も、耳も、目も、いま初めて世界に殴られている。
灰の指が、俺の外套を掴んだ。
強く。
離さない。
それでいい。
離すな。
俺がここにいる。
門の手前で、俺は灰の前にしゃがんだ。
布を直す。
灰色の髪を、深く隠す。
背中の襟を、もう一度合わせた。
あの烙印を、誰にも見せないために。
「いいか」
灰の目を、まっすぐ見た。
「強く見えるな」
灰が、まばたきをする。
「速いところを見せるな。器用なところも見せるな」
言葉の意味を、この子はまだ全部は分かっていない。
それでいい。
体で覚えればいい。
「目立つな」
俺は、それだけ言った。
「見られないってことが、生きるってことだ」
穴の底で、この子は逆を教わってきた。
弱く見えれば、奪われる。
目立たなければ、忘れられて、死ぬ。
だから、俺の言葉は、この子の体に逆らう。
逆らうことを、これから覚えてもらう。
灰は、何も言わなかった。
ただ、布の奥でうなずいた。
◆◇
門をくぐった。
人の波に、灰が呑まれかける。
俺は、この子を体の陰に置いた。
背中に、ぴたりとついてくる。
すれ違う者が、笑った。
ただの、酔った笑いだ。
だが、灰の体が跳ねた。
棒を、握り直している。
伸びてきた手があった。
物売りが、客の袖を引いただけだ。
それでも、灰の目が、その手を追った。
奪う手か。
そう値踏みする目だ。
近づく足音。
ぶつかる肩。
頭の上を飛び交う声。
この子には、その全部が刃に見えている。
俺は、灰の頭にそっと手を置いた。
奪う者じゃない。
奪われる者でもない。
ただ、歩いているだけの人間だ。
そう、伝えたかった。
だが、伝わらない。
この子の世界には、まだ二種類の人間しかいない。
奪う者か。
奪われる者か。
その物差し一本で、こいつは世界を測ってきた。
測れないものを、まだ知らない。
◆◇
目当ては、街の真ん中にあった。
冒険者ギルド。
流れ者が、口と腕を売る場所だ。
その前まで来て、灰の足が、また止まった。
剣を提げた男がいたからだ。
鎧をまとった男も。
灰の目が、すっと細くなった。
知っている形だ。
山賊が持っていた、錆びた剣。
あれと、同じだ。
だから、こいつらも奪う側だ。
灰の体が、そう判じた。
俺は、その肩に手を置いて、止めた。
よく見ろ。
俺は、声に出さずにそう言った。
剣を提げた男は、壁にもたれて、目を閉じていた。
鎧の男は、足を引きずっていた。
膝に、汚れた布が巻いてある。
その隣で、若いのが酒をあおっている。
昼間から、つぶれるほどに。
奪う者の顔じゃない。
疲れた者の顔だ。
怪我を抱えた者。
何かに負けて、酒に逃げる者。
剣を持っていても、奪いに行く力なんて、もう残っていない。
灰の目が、揺れた。
値踏みの答えが、出ないのだ。
奪う者でもなく、奪われる者でもない。
その目の前の人間が、どちらにも入らない。
灰の中で、言葉にならない何かが、つかえている。
まだ、名前のつかない違和感だ。
それでいい。
その違和感を、抱えていけ。
いつか、それが分かる日が来る。
俺がそうだったように。
◆◇
ギルドの戸を押した。
中は、薄暗い。
奥の机に、男がひとり座っていた。
受付だ。
俺は、灰を背に庇って、その前に立った。
「呼び名は」
男が、顔も上げずに言った。
呼び名。
俺には、ある。
「カラス」
そう言った。
言いながら、胸の奥が、ひとつ鳴った。
カラスは、俺の名じゃない。
もとは、別の名があった。
前の世で、母がつけ、人が呼んだ、まともな名が。
だが、この世界に落ちて、それは消えた。
誰も、俺の名を呼ばなかった。
盗賊どもが俺につけたのは、名じゃない。
黒い髪を見て、吐き捨てた言葉だ。
死肉に集る、汚い鳥。
その意味の、蔑みの音だ。
奪われた名の代わりに、押しつけられた音。
削られて、削られて、最後に残ったのが、それだった。
俺は、それを拾った。
誰かが押しつけた蔑みを、自分の手で握り直した。
削られた名の、削りかすを。
名がなければ、人は紛れられない。
カラスでいい。
カラスがいい。
それが、俺の選んだ名だ。
男が、紙に何か書いた。
俺の名を、書いている。
書ける手があるのは、いいことだ。
俺の手は、書けない。
「ひとりか」
男が、初めて顔を上げた。
「いや」
俺は、背中の灰を、少しだけ前に出した。
「連れがいる」
男の目が、灰へ向いた。
布の奥を、覗くように。
その瞬間、俺の中で、何かが冷えた。
布の下には、烙印がある。
逃げた奴隷の、しるしが。
もし、それが見えたら。
もし、この男が気づいたら。
俺の手が、ひとりでに動きかけた。
腰の、得物のほうへ。
考えるな。
考えれば、抜く。
この机ごと、この男ごと。
そう思った、自分に、ぞっとした。
だが、男の問いは、そんなものじゃなかった。
「その子は」




