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灰のレン  作者: K3/KASANE
カラス編

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第30話「間に合わなかった」


 山小屋を捨てた。


 住み慣れた場所だ。


 灰を拾って。


 傷を縫って。


 名を渡して。


 しばらく、ここで暮らした。


 だが、奴隷狩りに嗅ぎつけられた。


 一度知られた場所には、もういられない。


 荷物は少ない。


 水。


 干し肉。


 薬草。


 灰の棒きれ。


 それだけだ。


 俺たちは山を下りた。


 下りるにつれて、世界が少しずつ開けていく。


 その時、灰が足を止めた。


 目を見開く。


 灰色の目に映ったのは、地平まで続く街道だった。


 遠くに、人の住む家のかたまり。


 煙が、いくつも立っている。


 この子は、こんなものを見たことがない。


 穴の中と、山小屋しか知らないのだ。


 俺は、その横顔を見た。


 灰の目が揺れている。


 瞳の奥が、せわしなく動いていた。


 いつもの値踏みの目じゃない。


 値踏みしようにも、桁が合わないのだ。


 穴の壁は、手を伸ばせば届いた。


 山小屋の天井も、見上げればそこにあった。


 だが、これは違う。


 地平まで、果てがない。


 空が、こんなにも広い。


 前世の俺なら、何とも思わなかった景色だ。


 電車の窓から、毎日眺めていた。


 なのに、いまは。


 この子の隣で、初めて見るように、まぶしい。


 灰の喉が、こくりと鳴った。


 恐れか。


 驚きか。


 たぶん、両方だ。


 大きすぎる世界は、それだけで凶器になる。


 この子は、それを知らない。


 知らないまま、ここへ立っている。


「人だ」


 俺がそう言うと、灰は棒きれを握り直した。


 そうだよな。


 お前にとって、人は。


 奪う者か。


 奪われる者か。


 まだ、そのどちらかだ。


 俺は灰の頭に布をかぶせた。


 灰色の髪を隠す。


 背中の烙印も、襟を深く合わせて隠した。


 逃げた奴隷だと知れたら、あの鏝の連中がまた来る。


「顔を見せるな」


 そう言って、歩き出した。


 行く先は決めていた。


 冒険者の集まる街。


 西の、ルーウェイン。


 あそこなら、流れ者が珍しくない。


 名も素性も問われにくい。


 似た者同士の吹き溜まりだ。


 紛れて生きるには、ちょうどいい。


 ◆◇


 山を下りる数日。


 灰は毎朝、棒を振っていた。


 誰に言われるでもなく。


 その振りが、日に日に変わっていく。


 俺が見せたはずの動きが。


 いつのまにか、俺より速い。


 俺より正確だ。


 この子は、教わったことをどんどん超えていく。


 見て。


 まねて。


 そのうち追い抜く。


 俺の知らない速さで。


 街道は、思っていたより人が多かった。


 荷を背負った行商。


 馬を引く農夫。


 子連れの家族。


 灰は、その全部を見ていた。


 すれ違う人間を、ひとり残らず。


 値踏みする目だ。


 この人間は、奪うか。


 奪わないか。


 通りすがりの婆さんまで、品定めしている。


 人混みは、こいつには毒だな。


 俺は灰を自分の体の陰に置いて歩いた。


 途中の集落で、パンと塩を買った。


 店の女が、灰をちらと見る。


「病気かい、その子」


「人見知りでね」


 俺は笑って答えた。


 嘘は慣れている。


 医者の頃から、患者にはよく嘘をついた。


 大丈夫。


 すぐ治る。


 医者の二大方便だ。


 集落を出て、また街道を歩く。


 人の姿がまばらになっていく。


 林に挟まれた細い道。


 日が傾いてきた。


 その時だ。


 灰が足を止めた。


 ぴたりと。


 棒きれを握り直している。


 俺には、まだ何も見えない。


 だが、この子の目は林の奥を睨んでいた。


 何かいる。


 奪われる側で生きてきた勘だ。


 林の奥で、草が鳴った。


 影が立ち上がる。


 盗賊だ。


 影は四つ。


 いや、五つ。


 手に手に得物を持っている。


 錆びた剣。


 棍棒。


 薄笑い。


「ガキ連れか。銭になりそうなのは、どっちだ」


 現地の言葉が聞こえた。


 灰を見ている。


 売り物として見ている。


 頭に血がのぼった。


「下がってろ」


 灰にそう言って、俺は前へ出た。


 前と同じだ。


 俺が前に立つ。


 灰を後ろに庇う。


 そのつもりだった。


 ◆◇


 飛び込んできた一人目。


 首を掴んで、ひねる。


 骨が鳴った。


 だが、五人だ。


 一人を倒す間に、二人が回り込む。


 囲まれる。


 相変わらず、数には弱い。


 一人の剣が、俺の肩を裂いた。


 別の一人が背後へ回る。


 その刃が、俺の首をめがけて。


 届かなかった。


 影が、ひとつ横から割り込んだ。


 灰だ。


 灰の棒きれが、その男の手首を打つ。


 剣が落ちる。


 俺が見せた一撃だ。


 だが、灰はその剣を見なかった。


 棒の先が返る。


 返った先は、喉。


 俺が教えなかった場所。


 あの日、俺が間に合った場所だ。


 だが、今日は間に合わない。


 俺の首が、まだ別の男の間合いにあったからだ。


 棒の先が、男の喉に入った。


 一突き。


 それだけで、男が崩れた。


 殺した。


 この子が。


 俺を守るために。


 そう思った。


 そう思ってしまった。


 だが、考えるのは後だ。


 次が来る。


 灰はもう、次の一人へ踏み込んでいた。


 小さな体が、低く潜り込む。


 片腕で、棒を振る。


 膝。


 手首。


 こめかみ。


 力のない体が、力のいらない場所だけを選んでいる。


 俺も、残りの首を取った。


 気づけば、立っているのは俺と灰だけだった。


 五人が、地に伏している。


 その半分を、灰がやった。


 まだ、八つかそこらの子供が。


 あの日は間に合った。


 今日は、間に合わなかった。


 ◆◇


 戦いが終わった。


 俺は肩の傷を手で押さえた。


 浅い。


 縫うほどじゃない。


 助かったのか。


 俺が。


 この子に。


 拾って、守って、育ててきたつもりの子に。


 逆に、守られた。


 灰を見た。


 血のついた棒きれを握ったまま、立っている。


 初めて、血のついた棒だ。


 足元に男が倒れている。


 灰が突いた男だ。


 もう動かない。


 灰は、それを見下ろしていた。


 怯えもない。


 吐き気もない。


 人を殺したのに。


 その目は、水を飲んだ時と同じだった。


 ただ、静かだった。


 俺は、自分の最初の夜を思い出した。


 盗賊の寝床の中。


 歯の根が合わなかった。


 震える手を、もう片方の手で握っても、それでも止まらなかった。


 止めたのは俺じゃない。


 呼吸を数えた体だった。


 あの夜、俺は黒い板に書いた。


 慣れとは、恐ろしいものだ。


 書いた俺は、二年かけてようやく慣れた。


 なのに、この子は。


 最初の殺しの直後に。


 棒の血を、草でぬぐっている。


 俺は、震えた。


 この子は、震えない。


 そうか。


 この子には、もう堪えないのか。


 人を殺すことが。


 穴の中で、とっくに壊されていたのだ。


 そして、その壊された場所が、いま、牙になった。


 俺のせいもある。


 関節を教えた。


 届かせ方を教えた。


 喉は教えなかった。


 だが、その教えなかった場所で、この子は俺を守った。


 教えなかったことに、意味はなかったのだ。


 ぞくりとした。


 頼もしさじゃない。


 この子が、これからどこまで行くのか。


 それが見えない怖さだ。


 ◆◇


 灰が棒きれを下ろした。


 守るつもりが、守られて。


 育てるつもりが、追い抜かれて。


 医者なんて、面目まるつぶれだ。


 それでも。


 この子が生きているなら。


 俺の隣で息をしているなら。


 それでいい。


 いや。


 それでいいだけじゃ済まない。


 この子は、俺を守るために最初の一線を越えた。


 越えさせたのは、俺の首の位置だ。


 次は、越えさせない。


 越える時が来るなら、それはこの子が自分のために選ぶ時だ。


 俺のためじゃなく。


「行くぞ」


 肩を押さえて、俺は歩き出した。


 冒険者の街は、まだ先だ。


 灰がついてくる。


 血をぬぐった棒きれを抱えて。


 奪われるだけだった子が。


 いまは、俺の半歩前を守りに行く。


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