第29話「断ち方は教えない」
決めたのは、ある朝だった。
この子に、戦い方を教える。
そう決めた。
◆◇
俺は医者だ。
医者の手は、人を治すためにある。
治すために、骨の在りかを覚えた。
どこに血の管が走るか。
どこで関節が曲がるか。
どこを押せば、人の体が止まるか。
全部、人を救うために覚えたことだ。
その同じ知識で、これから俺は壊し方を教える。
まったく、いい趣味だ。
だが、教えなければならない。
次に囲まれた時、灰は棒を構えたまま立ち尽くすだろう。
立ち尽くせば、奪われる。
奪われれば、それで終わりだ。
生きるためだ。
そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせないと、手が動かない。
ただし、ひとつだけ決めたことがある。
折り方までは教える。
だが、断ち方は教えない。
倒れた相手の、その先は俺の仕事だ。
この子の手は、汚させない。
できる限りは。
◆◇
俺は棒きれを二本拾った。
一本を灰に渡す。
一本は、俺が握る。
灰は何も言わずに棒を受け取った。
その握り方を見て、俺は少し黙った。
教えるまでもなく、棒が手に馴染んでいる。
まるで、腕の続きみたいに。
俺は言葉を飲み込んだ。
この子は、すでに棒を知っている。
なら、俺が教えるのは別のことだ。
俺は自分の膝の裏を指した。
「ここだ」
通じない。
分かっている。
だから、棒の先で軽く叩いて見せる。
膝の裏。
肘の継ぎ目。
手首の継ぎ目。
骨は、力で折るものじゃない。
位置だ。
てこの支点が合えば、三本の指でも大人の骨は軋む。
俺は灰の棒を取って、その一点に当ててやった。
灰の目が動く。
言葉ではなく、角度を見ていた。
距離を見ていた。
俺の手ではなく、棒の先が止まる場所を見ていた。
一度見せる。
二度目には、灰が当てた。
俺より正確に。
膝裏。
肘。
手首。
ずれない。
末恐ろしい子だ。
喉は教えなかった。
教えなくても、ある場所はある。
ただ、ないことにしただけだ。
◆◇
罠を見回り、物を拾い、街道の脇を歩いた。
倒れた誰かの荷から、火打石と塩を取る。
奪う手にも、もう震えはない。
その帰り道だった。
林の切れ目に、焚き火が見えた。
数人の男が、火を囲んでいる。
荷の脇に、鉄の道具が立てかけてあった。
長い柄。
その先に、輪。
二重の輪。
見覚えがありすぎた。
灰の背中のものと同じ形。
焼き印の鏝だ。
人に二重の輪を焼きつける道具。
つまり、こいつらは奴隷狩り。
でなければ、その先触れだ。
灰が足を止めた。
俺より早く。
棒きれを握り直している。
あの鏝が何かを、この子の背中は覚えている。
◆◇
男のひとりが、こちらを見た。
「ガキ連れか」
現地の言葉だ。
立ち上がった男の目が、灰の布の奥を覗こうとする。
「その布の下、見せてみろ」
見せられるか。
俺は前に出た。
灰を背に庇う。
飛び込んできた一人目。
首を掴んで、ひねる。
湿った枝の折れる音がした。
だが、相手は四人だ。
一人を倒す間に、二人が回り込む。
囲まれる。
苦手な形だ。
一人の棍棒が、俺の肩を打った。
別の一人が背後へ回る。
その膝が、俺の死角から踏み込んできて。
崩れた。
影が、ひとつ低く潜り込んでいた。
灰だ。
灰の棒の先が、その男の膝裏を打っていた。
俺が見せた一点を。
誰にも言われず。
自分から。
膝が、ありえない方向へ折れる。
男が倒れた。
呻いている。
呻く声は、止めない。
止めるのは、俺の仕事だ。
◆◇
俺は倒れた男と、棍棒の男の首を続けて取った。
ひとり。
ふたり。
骨が続けて鳴る。
灰の目の前で。
逃げ遅れた最後のひとりが、剣を振り上げた。
その手首を、灰の棒が先に打つ。
剣が落ちる。
だが、灰は剣を見なかった。
棒の先が返る。
返った先は、男の喉。
俺が教えなかった場所だ。
教えなくても、この子は知っていた。
棒の先が喉に届く。
その前に。
俺の手が、男の首にあった。
ひねる。
骨の音と、ほとんど同時に。
灰の棒の先が止まった。
突く場所が消えたからだ。
男はもう、俺の手の中で終わっていた。
◆◇
戦いが終わった。
立っているのは、俺と灰だけ。
灰は棒きれを握ったまま、静かに立っている。
棒の先に、血はついていない。
ついていないのは、今日、俺が間に合ったからだ。
間に合った。
それだけだ。
さっきの棒の返り方を、俺は見た。
迷いがなかった。
喉を突くつもりだった。
俺が教えなかった、まんなかを。
教えなかったその場所を、この子はもう知っている。
穴の底で、覚えてきたのだ。
俺が教えたのは、届かせ方だけ。
断つ気は、最初からそこにあった。
治す手が、この子に棒を持たせた。
骨の在りかを知る手が、骨の壊し方を教えた。
だが。
断つことは、俺が教えたんじゃない。
この子が、穴から持ってきた。
◆◇
「説教くさいな、俺も」
声に出して言った。
言って、自分で笑う。
笑わないと立っていられなかった。
灰は棒きれを下ろしている。
血のついていない棒を、それでも草でぬぐった。
手つきだけが、妙に慣れている。
まいったな。
医者の面目まるつぶれだ。
それでも。
この子の手は、今日、汚れなかった。
今日は。
その二文字が、喉の奥で苦かった。
◆◇
焚き火の脇の鏝を見た。
二重の輪が、火の名残でまだ熱い。
こいつらが、ここにいた。
つまり、奴隷狩りはもうこの辺りまで来ている。
一度嗅ぎつけられた場所に、長くはいられない。
また来る前に、離れる。
山小屋も、そろそろ潮時だ。
「行くぞ」
俺は歩き出した。
灰がついてくる。
ぬぐった棒きれを抱えて。
奪われるだけだった子が。
いまは、半歩前で棒を構えている。
明日の朝も、この子はそれを振るだろう。
誰に言われるでもなく。
俺の知らない速さで。
俺の教えなかった場所へ。
棒の先を、届かせに行く。




