表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰のレン  作者: KASANE
カラス編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/57

第27話「裾をつかむ手」


 あれから、数日が経った。


 子は、まだ棒を手放さない。


 眠る時も抱いている。


 俺が近づけば、すぐに目を開ける。


 その目は、いつも澄んでいた。


 寝ぼけた顔を、俺は一度も見ていない。


 毎朝、子は黒い板を確かめる。


 俺が引いた、あの縦線を。


 |


 線が消えていないかを見ている。


 消えていなければ、子はまた横になる。


 消えなければ、ある。


 それだけが、この子と俺の、たったひとつの約束らしかった。


 飯の時もそうだった。


 俺が椀を差し出す。


 子は、それを奪うように取る。


 取って、隅へ下がる。


 壁を背にして。


 俺から一番遠い場所で。


 そうして初めて、口に運ぶ。


 食う間も、目だけはずっと俺を見ている。


 横取りを警戒しているのだ。


 誰も取らない。


 そう言っても、無駄だった。


 この子の体が知っている。


 差し出された手は、いつか引っぱたく手に変わる。


 穴の中で、そう教わってきたのだ。


 だから、俺は何もしない。


 椀を置く。


 離れる。


 奪わせる。


 奪うと思わせたまま、食わせる。


 それが、いまの俺の精一杯だった。


「名前は」


 一度だけ訊いた。


 子は答えない。


 答えずに、ただ俺を見た。


 言葉が通じないのか。


 名を持っていないのか。


 それとも、持っているものを渡したくないのか。


 分からない。


 分からないまま、俺はそれ以上訊かなかった。


 名は、急ぐものじゃない。


 ◆◇


 食料が尽きかけていた。


 罠を見回らなければならない。


 俺は外套を羽織った。


 すると、子がついてくる。


 留まれと言っても聞かない。


 ひとりにされるのを嫌がるのか。


 いや、違う。


 俺を見張っているのだ。


 いつ、こいつが牙を剥くか。


 その目で、俺の背中を追っている。


 外は霜だった。


 地面が白く光っている。


 俺は、その上の足跡を読んだ。


 爪の深さ。


 歩幅。


 跳ねた跡。


 獣の重さ。


 盗賊の二年で、こういうものは読めるようになっていた。


 兎だ。


 罠にかかっている。


 そう踏んで、俺は林の奥へ入った。


 ◆◇


 匂いが、先に来た。


 甘くて、腐ったような匂い。


 獣の死骸の匂い。


 だが、兎にしては強すぎる。


 その匂いの先に、それはいた。


 三体。


 人の形をしている。


 しているが、人ではない。


 肌は土気色。


 目は白く濁り、口から黒い舌が垂れている。


 前世なら、作り話の化け物だ。


 だが、いまは現実だ。


 その現実が、こっちを見ている。


 名は知らない。


 知らなくても分かる。


 死肉を食らうものだ。


 そして、いま。


 その濁った目が、子の脇腹に向いていた。


 俺が縫った、あの傷。


 数日経っても、まだ滲んでいる。


 古い血の匂いが、布の下から漏れていたのだ。


 死肉を食らうものを呼ぶには、それで十分だった。


「下がれ」


 俺は子を背に庇った。


 庇った瞬間、一体が跳んだ。


 その腕を払う。


 払った手が痺れた。


 力が人のそれじゃない。


 二体目が横から来る。


 三体目は、もう背後だ。


 囲まれる。


 まずい。


 この形だ。


 俺は、数に弱い。


 盗賊の頃から、ずっとそうだった。


 一対一なら負けない。


 だが、囲まれると手が足りなくなる。


 囲む側にいた男が、いま初めて囲まれている。


 背後の一体が、俺の肩に食らいついた。


 肉を裂かれる。


 熱い。


 痛みより、熱が先に来た。


 落ち着け。


 骨だ。


 こいつらが化け物でも、首から上を繋いでいるのは骨だ。


 骨の継ぎ目だ。


 その継ぎ目をずらせばいい。


 俺は、肩に食らいついた一体の顎を下から掴んだ。


 掴んで、ひねる。


 人の頸椎が外れる角度に。


 ごり。


 鈍い音がした。


 一体が崩れ落ちる。


 そのまま動かなくなった。


 残りは二体。


 全部は無理だ。


 肩をやられている。


 子もいる。


 ここで削り合うのは下策だ。


 俺は火種ごと薪を地に叩きつけた。


 火の粉が舞う。


 死肉を食らうものが、一瞬ひるんだ。


 その隙だ。


「走れ」


 俺は、子の腕を掴んだ。


 掴んで、走る。


 林の中を、転がるように。


 背後で濁った唸りが遠ざかっていく。


 追ってはこない。


 獲物より、足元の死骸を選んだらしい。


 助かった。


 ◆◇


 息が切れていた。


 肩から血が垂れている。


 俺は立ち止まり、傷を見た。


 深い。


 縫う必要がある。


 自分で縫うのか。


 気が重い。


 いや。


 重いのは、傷のことじゃない。


 俺は、さっきこの子の腕を掴んだ。


 考えるより先に。


 許しもなく。


 この子に触れてしまった。


 穴の中で、掴む手が何をしてきたか。


 引きずる手。


 打つ手。


 奪う手。


 この子の体は、それしか知らない。


 やっちまったか。


 数日かけて、ようやく椀を受け取るところまで来た。


 その数日が、いまので全部消えたかもしれない。


 振り向けば、きっと棒の先がこっちを向いている。


 そう思って、俺は振り向けなかった。


 その時だ。


 裾を引かれた。


 見ると、子が俺の外套を掴んでいた。


 棒は握っていない。


 地に置いて。


 たったひとつの手を空けて。


 初めてだった。


 この子が、棒を俺に向けずに。


 俺に触れたのは。


 何も言わない。


 ただ、掴んでいる。


 離すまいとするように。


 そうか。


 置いていかれると思ったのか。


 俺は、その手の上に自分の手を重ねなかった。


 まだ早い。


 触れれば、また警戒へ戻ってしまう。


 代わりに言った。


「帰るぞ」


 通じなくてもいい。


 声の調子で伝わればいい。


 子の手は、俺の外套を掴んだままだった。


 俺たちは、来た道を引き返す。


 奪い合うだけのこの世界に。


 戻る場所が、ひとつ、できかけていた。


 塒へ。


 二人で、戻りに行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ