第27話「裾をつかむ手」
あれから、数日が経った。
子は、まだ棒を手放さない。
眠る時も抱いている。
俺が近づけば、すぐに目を開ける。
その目は、いつも澄んでいた。
寝ぼけた顔を、俺は一度も見ていない。
毎朝、子は黒い板を確かめる。
俺が引いた、あの縦線を。
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線が消えていないかを見ている。
消えていなければ、子はまた横になる。
消えなければ、ある。
それだけが、この子と俺の、たったひとつの約束らしかった。
飯の時もそうだった。
俺が椀を差し出す。
子は、それを奪うように取る。
取って、隅へ下がる。
壁を背にして。
俺から一番遠い場所で。
そうして初めて、口に運ぶ。
食う間も、目だけはずっと俺を見ている。
横取りを警戒しているのだ。
誰も取らない。
そう言っても、無駄だった。
この子の体が知っている。
差し出された手は、いつか引っぱたく手に変わる。
穴の中で、そう教わってきたのだ。
だから、俺は何もしない。
椀を置く。
離れる。
奪わせる。
奪うと思わせたまま、食わせる。
それが、いまの俺の精一杯だった。
「名前は」
一度だけ訊いた。
子は答えない。
答えずに、ただ俺を見た。
言葉が通じないのか。
名を持っていないのか。
それとも、持っているものを渡したくないのか。
分からない。
分からないまま、俺はそれ以上訊かなかった。
名は、急ぐものじゃない。
◆◇
食料が尽きかけていた。
罠を見回らなければならない。
俺は外套を羽織った。
すると、子がついてくる。
留まれと言っても聞かない。
ひとりにされるのを嫌がるのか。
いや、違う。
俺を見張っているのだ。
いつ、こいつが牙を剥くか。
その目で、俺の背中を追っている。
外は霜だった。
地面が白く光っている。
俺は、その上の足跡を読んだ。
爪の深さ。
歩幅。
跳ねた跡。
獣の重さ。
盗賊の二年で、こういうものは読めるようになっていた。
兎だ。
罠にかかっている。
そう踏んで、俺は林の奥へ入った。
◆◇
匂いが、先に来た。
甘くて、腐ったような匂い。
獣の死骸の匂い。
だが、兎にしては強すぎる。
その匂いの先に、それはいた。
三体。
人の形をしている。
しているが、人ではない。
肌は土気色。
目は白く濁り、口から黒い舌が垂れている。
前世なら、作り話の化け物だ。
だが、いまは現実だ。
その現実が、こっちを見ている。
名は知らない。
知らなくても分かる。
死肉を食らうものだ。
そして、いま。
その濁った目が、子の脇腹に向いていた。
俺が縫った、あの傷。
数日経っても、まだ滲んでいる。
古い血の匂いが、布の下から漏れていたのだ。
死肉を食らうものを呼ぶには、それで十分だった。
「下がれ」
俺は子を背に庇った。
庇った瞬間、一体が跳んだ。
その腕を払う。
払った手が痺れた。
力が人のそれじゃない。
二体目が横から来る。
三体目は、もう背後だ。
囲まれる。
まずい。
この形だ。
俺は、数に弱い。
盗賊の頃から、ずっとそうだった。
一対一なら負けない。
だが、囲まれると手が足りなくなる。
囲む側にいた男が、いま初めて囲まれている。
背後の一体が、俺の肩に食らいついた。
肉を裂かれる。
熱い。
痛みより、熱が先に来た。
落ち着け。
骨だ。
こいつらが化け物でも、首から上を繋いでいるのは骨だ。
骨の継ぎ目だ。
その継ぎ目をずらせばいい。
俺は、肩に食らいついた一体の顎を下から掴んだ。
掴んで、ひねる。
人の頸椎が外れる角度に。
ごり。
鈍い音がした。
一体が崩れ落ちる。
そのまま動かなくなった。
残りは二体。
全部は無理だ。
肩をやられている。
子もいる。
ここで削り合うのは下策だ。
俺は火種ごと薪を地に叩きつけた。
火の粉が舞う。
死肉を食らうものが、一瞬ひるんだ。
その隙だ。
「走れ」
俺は、子の腕を掴んだ。
掴んで、走る。
林の中を、転がるように。
背後で濁った唸りが遠ざかっていく。
追ってはこない。
獲物より、足元の死骸を選んだらしい。
助かった。
◆◇
息が切れていた。
肩から血が垂れている。
俺は立ち止まり、傷を見た。
深い。
縫う必要がある。
自分で縫うのか。
気が重い。
いや。
重いのは、傷のことじゃない。
俺は、さっきこの子の腕を掴んだ。
考えるより先に。
許しもなく。
この子に触れてしまった。
穴の中で、掴む手が何をしてきたか。
引きずる手。
打つ手。
奪う手。
この子の体は、それしか知らない。
やっちまったか。
数日かけて、ようやく椀を受け取るところまで来た。
その数日が、いまので全部消えたかもしれない。
振り向けば、きっと棒の先がこっちを向いている。
そう思って、俺は振り向けなかった。
その時だ。
裾を引かれた。
見ると、子が俺の外套を掴んでいた。
棒は握っていない。
地に置いて。
たったひとつの手を空けて。
初めてだった。
この子が、棒を俺に向けずに。
俺に触れたのは。
何も言わない。
ただ、掴んでいる。
離すまいとするように。
そうか。
置いていかれると思ったのか。
俺は、その手の上に自分の手を重ねなかった。
まだ早い。
触れれば、また警戒へ戻ってしまう。
代わりに言った。
「帰るぞ」
通じなくてもいい。
声の調子で伝わればいい。
子の手は、俺の外套を掴んだままだった。
俺たちは、来た道を引き返す。
奪い合うだけのこの世界に。
戻る場所が、ひとつ、できかけていた。
塒へ。
二人で、戻りに行く。




