第26話「片腕の構え」
子が、目を覚ました。
覚ましたのは、左目だけだった。
右の目は、もうない。
残った左目は、金色に近い灰を帯びていた。
眠りの靄はなかった。
覚めた瞬間から、その目は澄んでいる。
澄んだまま、警戒していた。
寝ぼけは、ひとつもない。
目が、まず天井をなぞる。
壁。
棚。
火。
出口。
最後に、俺。
俺を捉えた瞬間、子の体が動いた。
床に落ちていた薪を掴む。
掴んだ薪を、剣のように構えた。
片手で。
左腕のない体で。
薪の先が、まっすぐ俺の喉を指している。
俺は動かなかった。
動けなかったのではない。
動かない方がいいと、体が判断した。
この子は、脅しているのではない。
生きる姿勢を取っている。
俺は両手を上げた。
ゆっくり。
見えるところに。
「大丈夫だ」
言葉は通じない。
分かっている。
分かっていても、声は出した。
声の高さが、刃より先に相手へ届くことを、俺は知っていた。
「取らない。何も、取らない」
子の目は動かない。
その目の底に、俺が二年で見慣れたものがあった。
恐怖だ。
だが、この子の恐怖は少し違う。
震えていない。
震えずに、構えている。
何度も、こうしてきた目だった。
◆◇
警戒したまま、一時間が経った。
子も、俺も、動かない。
上げた両手が、だんだん重くなってくる。
だが、下ろせば薪が来る。
だから、下ろさない。
子の構えも揺れない。
揺れないが、薪の先だけは少しずつ下がっていく。
体力が削れている。
その間、俺は子を観ていた。
医者の目が、勝手に観てしまう。
頬はこけている。
唇は乾いて、ひび割れている。
肩で浅く息をしている。
脇腹には、俺が縫った傷。
縫い目はまだ赤い。
赤いが、膿んではいない。
膿んではいないが、確かめたい。
そう思った時には、手が動きかけていた。
医者の手だ。
傷に触れて確かめる手。
前世で、何千回も伸ばした手。
その手が伸びかけた瞬間。
薪の先が跳ね上がった。
下がりかけていた先が、まっすぐ俺の喉へ向く。
止まれ。
俺は手を止めた。
止めて、ゆっくり元の位置へ戻す。
戻しきるまで、薪は下りなかった。
触れたい手を、止めること。
いまの俺にできる手当ては、それだけだった。
前世の俺は、動かなかった。
動けと言われるまで、動かなかった。
だが、いまは違う。
動きたい手を、自分で止めている。
同じ動かないでも、これは俺が選んだ動かないだ。
この子に要るのは、診断じゃない。
水と、時間だ。
◆◇
先に動いたのは、子の喉だった。
ごくり。
唾を飲み込む音がした。
乾いた喉が、小さく鳴る。
その音を、子自身が聞いた。
目だけが、床の器へ動く。
器には水がある。
俺が汲んでおいた水だ。
子は薪を構えたまま、器へにじり寄った。
寄るなり、空いた片手で器を奪う。
奪って、口へ運ぶ。
がぶがぶと喉を鳴らして飲んだ。
水が口の端からこぼれる。
こぼしても、構わず飲む。
飲む間も、薪の先は俺に向いたままだ。
武器は下ろさない。
賢い。
いや、違う。
奪うことに慣れている。
俺は動かなかった。
動けば、この均衡が壊れる。
◆◇
水を飲み終えて、子は立とうとした。
だが、体が傾く。
脇腹だ。
俺が縫った、あの傷。
傷が、立つことを許さなかった。
子の膝が床に落ちる。
落ちても、薪だけは離さない。
手の甲に、青い血管が浮いている。
その下に、脈があった。
弱い。
弱いが、ある。
ある。
俺は黒い板を出した。
白い石で、線を引く。
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一本の縦線。
それを、子に見せた。
子は見なかった。
見なくても、俺はその線を消さない。
消さなければ、ある。
この子は、まだある。
俺も、まだある。
縦線を板の上に残したまま、俺は子から離れた。
壁を背に座る。
ここから先は、この子が決めることだ。
逃げるのも。
留まるのも。
俺は決めない。
決めれば、また奪う側に戻ってしまう。
戻らないために、俺は待つことにした。
待つ。
前世の俺は、それを知らなかった。
命じられるまま頭を下げた。
詫びて、何も決めずに死んだ。
だが、いまは違う。
決めないことを、自分で選んでいる。
消されなかった一本の線が。
ふたつの命を、数えていた。




