第25話「脱出」
穴を出た日のことを、私は、半分しか覚えていない。
半分しか覚えていないのは、もう半分を、私のいない間に、体がやってしまったからだ。
その覚えている半分を、いまから書く。
穴を出た日を、私は、半分しか覚えていない。
もう半分を、体が、私のいない間に、やった。
◆ ◇
その日、私は、縦穴の底に立っていた。
縦穴は、穴の天井の、いちばん高いところにある。
そのてっぺんに、小さな四角い光が見えた。
ずっと遠い光だ。
その光を、私は何年も、見上げてきた。
見上げるだけだったその光に、その日、私は初めて、手を伸ばすと決めた。
決めたのは、私ではない。
腹の底の、死にたくない、という声だ。
私は、その声に従った。
◆ ◇
縦穴の壁に、骨の先を打ち込む。
それを手がかりに、体を引き上げた。
また一段、上へ、骨を打ち込む。
たった片方の手で。
三本になった指と、親指で。
左の腕は、もうない。
その足りない分を、骨が埋めていた。
骨は、岩より冷たかった。
その冷たい柄を、私は何度も握り直す。
握り直すたびに、三本の指の皮が剥けた。
指の先から、血がにじむ。
その血で、柄が滑る。
滑るその柄を、私は歯で噛んで止めた。
一歩ずつ。
私の下で、十二の静かな身体と、穴の闇が、遠ざかっていく。
私は、振り返らない。
見るのは、上だけだ。
光が、すこしずつ、近づいてくる。
何年も、見上げるだけだった光。
その光に、初めて、私は近づいていた。
手が、もう届きそうになる。
何年も、見上げるだけだった光に。
その日、初めて、手が、届きそうになった。
手が届きそうになった、ちょうどその時だった。
◆ ◇
その時、上で、何かが動いた。
人だ。
光を背にした、影。
その手に、弓があった。
弦が、引かれる。
来る。
——脇腹に、刺さった。
その先で、熱が弾ける。
熱が、背中まで抜けた。
指が、ゆるみかける。
私は、それをもう一度、握った。
熱は、痛みより速い。
白い熱が、視界を灼く。
その白さの中で、私は、手を離さなかった。
離さなかったのは、私ではない。
私は、そこで、消えた。
私は、そこで、消えた。
消えたのは、考える方、だった。
◆ ◇
ここから先を、私は覚えていない。
考える私が、消えていたからだ。
だが、体は消えなかった。
私のいない体が、なおも登り続けた。
骨を打ち込んでは引き上げ、また打ち込む。
止まらないその体は、痛みを感じない。
感じる私が、もういないのだから。
脇腹から血が流れても、体は登る。
矢が刺さったまま、登る。
それは、人の登り方ではなかった。
人なら、矢の痛みで手が止まる。
人なら、血の足りなさで目がくらむ。
だが、私の体は、止まらない。
止める私が、いないからだ。
代わりに、何かが、体を動かしていた。
その何かを、私は知らない。
知らないが、それは、私の中にいた。
ずっと前から、いる。
骨を、岩に叩き込む。
それを支点に、体を撥ね上げる。
その体が、また骨を叩き込む。
打ち込む。
撥ね上げる。
打ち込む。
その繰り返しに、ためらいはない。
ためらいは、考える者のものだからだ。
——骨は、棒だ。
——棒は、骨だ。
骨は、棒だ。
棒は、骨だ。
その言葉を、その時の私は、まだ知らない。
知らないのに、体は、それを使った。
誰かに教わったからではない。
体が、もとから知っていたからだ。
その体が、人ならざる速さで、縦穴を登り切った。
◆ ◇
登り切った先に、光があった。
そこには、捨てられたものが、積もっている。
骨。
ぼろ布。
錆びた金物。
名前を失くした、誰かの遺品。
その光の下を、私の体は通った。
体の目は、その時、自分の姿を見たはずだ。
光が、容赦なく照らしていたからだ。
その体に、左の腕はない。
右の目もない。
右の手は、指が足りない。
背中には、焼かれた跡。
脇腹には、矢が立っている。
穴に落ちた日、その体には、全部があった。
いまは、その全部が、ない方に変わっていた。
左の腕。
右の目。
足りない指。
焼かれた背中。
脇腹の矢。
穴に落ちた日、全部が、あった。
——ない。
その「ない」を、私の目は、見たはずだ。
見たはずなのに、私は覚えていない。
矢を受けたあの時、覚える方が、吹き飛んだからだ。
吹き飛んだものは、もう戻ってこない。
だから、自分の体を初めて見た、その瞬間を、私は持っていない。
持っていないものを、私はいま、こうして書いている。
◆ ◇
そこから先も、私は覚えていない。
覚えのないその体が、光の場所を出た。
その先が、外だった。
白い塔が立っている。
その下に、石の道が続く。
道の脇を、人が歩いていた。
人も、塔も、空も、体には、すべて初めてのものだ。
空には、果てがない。
その空を、体は見ていたのかもしれない。
果てのないその空の下で、人は小さく動いている。
その人たちは、倒れていく子供を、見なかった。
見ても、関わらない。
それが、この世界のふつうだった。
初めて見たものを、体は覚えていない。
覚えるための私が、いなかったからだ。
体は、ただ歩いた。
王都を抜け、草原を横切る。
草原の果てに、街道があった。
その街道の脇で。
私の体は、ようやく止まった。
血が、足りなくなったのだ。
体が、街道の脇に倒れる。
その上に、空があった。
穴の光より、ずっと広い空だった。
穴を、出た。
出たのは、半分の私と、全部をなくした体だった。
◆ ◇
その覚えのない私を、誰かが、見つけた。
見つけたのが、誰だったか。
その人が、何をしたか。
——書かない。
まだ、それを書く時では、ないからだ。
書く時が来るまで、その人のことは、私の中に置いておく。
その上で、私は、長い眠りに落ちた。
そうして、私の、穴の五年は、終わった。




