第24話「十二人を断つ」
八歳の冬を、私はいまも、寒さで覚えている。
覚えているのは、その冬に、私が、断つことを覚えたからだ。
断つ、という言葉を、その冬の私は、まだ知らない。
知らないまま、私は、断った。
◆ ◇
八歳の冬、穴の底に、凍えるほどの寒さが降りた。
天井から滴っていた水が、止まる。
止まった水は、白くなって、岩に貼り付いた。
貼り付いたその水を、私は指で削って、舐めた。
針で刺すように、冷たい。
その冷たさを、私は飲み込んだ。
飲み込んでも、腹は満ちない。
その冬、骨は、落ちてこなかった。
落ちてこないのは、上の格子が凍りついていたからだ。
その向こうで、誰かが、骨を落とすのを忘れていた。
私は、骨を握って、待った。
待っても、来ない。
来ないものを、私はもう、何日も待っていた。
◆ ◇
その冬、十二人が、私の周りで死にかけていた。
死にかけていたのは、骨を齧らなかった者たちだ。
本能の声を、聞かなかった者たちだ。
私は、その声を聞いた。
聞いて、固い骨を噛み砕いてきた。
噛み砕いてきたその歯が、私をここまで生かした。
だが、彼らは、噛まなかった。
噛まずに、ただ痩せていった。
痩せていく彼らを、私は、片方の目で見た。
残った左の目だけで、見た。
右の目は、もうない。
ない目のかわりに、左の耳が、彼らの息を数えた。
浅い息。
間の空く息。
止まりかけの息。
数えながら、私の歯は、固いままだ。
固い歯で、私は、まだ噛める。
噛める私と、噛めない彼らの間で。
私は、ひとり、生きていた。
噛んだ者は、生きた。
噛まなかった者は、私の食料に、なりかけた。
◆ ◇
死にかけの匂いが、濃くなった夜だった。
その匂いの底に、別の匂いが混じる。
甘くて、腐ったような匂い。
その匂いを、私は知っていた。
半年前、同じ匂いが、私の右の目を抉ったからだ。
抉ったあの時、声が、私の中で言った。
——次は、目だけでは、済まない。
その覚えていた匂いが、また、暗い奥から来た。
来たのは、三体。
人の形を、している。
しているが、人ではない。
肌は、土気色。
白く濁った目の下で、黒い舌が垂れていた。
三体は、死にかけの十二人の方へ進んだ。
進んだのは、死にかけが、いちばん近い死だからだ。
死肉食らいは、死に寄る。
寄って、まだ温かいうちに、口をつけるのだ。
私は、骨を握った。
その先を、十二人と、三体の間に置く。
置いたのは、私の意志ではない。
意志ではないものが、私の中で動いた。
動いたそれが、ひとつのことを、私に教えた。
——奪われる前に、断て。
その夜、私は初めて、奪われる側ではなかった。
その夜、私は初めて。
奪われる側では、なかった。
◆ ◇
私は、選んだ。
選んだのは、断つことだった。
断つ、というのを、その時の私は、まだ言葉で知らない。
知らないまま、私の手が動いた。
その手が、骨を、棒のように構える。
三本になった指と、親指で。
たった片方の手で。
構えたその先で、私は、いちばん近い者から断った。
断ったのは、もう、息の止まりかけた者だ。
骨の先が、その者の息の場所に入る。
その先で、息が、止まった。
止まったその音を、私は声に出さない。
そして、次の者へ、私は移った。
ひとり。
ふたり。
みっつ。
数えながら、私は、断った。
断つ私を、三体が見ていた。
その白い目に、迷いはない。
死にかけも、私も、その目には、同じ「死」に見えていたのだ。
一体が、私の方へ、足を踏み出した。
その足は、止まらない。
私は、急いだ。
急いで、次を断つ。
断つそばから、群れが、近づいてくる。
近づくその甘い匂いが、私の首筋まで来た。
その匂いの中で、私は、最後のひとりに、骨を入れた。
入れた、その時。
横から、土気色の腕が、伸びた。
その手が、私の左の腕を、掴む。
掴んだ力は、人のものではない。
引かれた私の腕が、肩の付け根で、軋んだ。
その先で、私は、選んだ。
骨を、離さないことを。
離せば、私の手は、空になる。
空の手は、私を、生かさない。
だから、私は、腕の方を、くれてやった。
骨を、離さない。
かわりに、腕を、くれてやった。
くれてやったその腕に、土気色の歯が食い込んだ。
その歯が、骨ごと、私の左の腕を持っていく。
持っていかれた肩から、熱いものが、噴いた。
噴いても、私は、声に出さない。
出せば、私は、死肉ではなく、獲物になる。
だから、私は、声を、飲んだ。
声を飲んだ私の喉へ、二体目が、来た。
その口が、私の残った喉を狙っている。
狙われたその喉の前に、私は、骨の先を立てた。
その先が、二体目の白い目に入る。
入った先で、二体目が、退いた。
その隙に、私は、残りを断った。
片方だけ残った手で、最後まで、断った。
断ち終えた私を、群れが、また見ていた。
だが、測ったその目は、私ではなく、奪った腕の方を選んだ。
選んだのは、その方が、楽だったからだ。
三体は、私の腕を持って、暗い奥へ戻っていく。
その匂いが、薄くなるまで、私は立っていた。
◆ ◇
立っていた私の足元に、十二の、静かな身体があった。
八歳の冬、私は、十二人を、断った。
断った後に残ったのは、私ひとりと、十二の静かな身体と、白く貼り付いた水だけだった。
八歳の冬、私は、十二人を、断った。
残らなかったものの中に、私が口にしたものも、含まれる。
それを、私は書かない。
書けば、これを読む者が、私を憎むからだ。
憎まれることが悪いことだと、いまの私は知っている。
知っているのは、私がいま、こうして書いているからだ。
書いているのは、ずっと後の、私だ。
あの冬の私は、まだ、何も知らなかった。
◆ ◇
あの冬、私の肩に、布は、もうなかった。
五年前に子供がくれた布は、もう、別の子供の肩にある。
布は、渡っていった。
だが、声は、渡らずに、私に残った。
布のないその肩で、私は、十二人を断った。
——お前は、生きろ。
あの子供の声が、断つ私の上に、まだあった。
生きろ、と言われて。
私は、こうして、生きた。
こうして、というのが、何なのかを。
あの夜の私は、まだ知らない。
生きろ、と言われて。
私は、こうして、生きた。
◆ ◇
断たれても、残ったものがある。
残ったのは、三つだけだった、と、いま書ける。
腹が、減ったこと。
眠りたかったこと。
死にたく、なかったこと。
その三つだけは、断たれなかった。
腹が、減った。
眠りたい。
死にたく、ない。
断たれなかったのは、その三つだけだ。
その断たれなかった三つを、私は、片方の手で抱えた。
もう片方の腕は、もうない。
そのない腕の側で、私は、骨を握っていた。
その先を、上に向ける。
向けた先に、凍りついた格子があった。
その隙間から、薄い光が落ちている。
その光の先に、外がある。
それを、その時の私は、まだ見たことがない。
その見たことのない外へ、私は、行くと決めた。
決めたのは、私ではない。
決めたのは、腹の底の、死にたくない、という声だった。
その声に、私は従った。
従う私は、もう、八歳の前の私ではない。
左の腕も。
右の目も。
まっすぐな指も。
ない。
ない私が、骨を握って。
見たことのない外へ。
登りに、行く。




