第22話「古参の目」
温かい夢を、私はもう、あまり見なくなった。
見なくなったのは、四年目に入った頃からだ。
四年目、と、いまの私は書ける。
◆◇
その夜の夢は、まだ温かかった。
暗い場所で、私は誰かの隣に寝ている。
隣の体から、熱が伝わってくる。
その熱の上に、薄い布が掛けられていた。
布は、軽い。
その布の下で、声がした。
——お前は、生きろ。
声は、掠れている。
——お前は、生きろ。
俺の、分まで。
その声を、私は知っていた。
知ってはいたが、声の主の顔は、もう思い出せない。
思い出せないまま、夢の中で、熱が、ゆっくりと引いていく。
引いていくその熱の行き先を、私は目で追った。
その先に、布だけが、残った。
布の重さを、私は、いまも肩で覚えている。
◆ ◇
目が、覚めた。
その先に、岩の天井があった。
その隙間から、薄い光が落ちている。
その光は、夢の熱より、ずっと冷たい。
私の肩の上には、布があった。
布は、もう温かくない。
温かくないが、肩の形だけは、まだ覚えている。
布は、もう温かくない。
温かくない布の形だけが、まだ、肩にある。
◆ ◇
光の濃淡を、私はもう数えない。
数えても、外には出られないからだ。
外に出るのは、動かなくなった者だけ。
その者は、上の格子から、引きずり上げられる。
引きずられる音は、ずるり、と岩肌を擦った。
骨を齧る私の歯は、強くなっていた。
固い骨を噛むと、口の中で、こり、と硬い音が鳴る。
鳴ったその音の先で、骨が欠けた。
その欠片を、私は飲み込む。
飲み込んだものは、腹の底で、熱になった。
その熱は、私の体を、少しずつ大きくした。
大きくなった手で、私は骨を握る。
その骨を、棒のように構えた。
構えたその棒の先で、新入りが私を避ける。
いつのまにか、私を避ける者の方が、多くなっていた。
古参になるというのは、長く生きることではない。
見られる側から、見る側へ、回ることだ。
◆ ◇
「832」
と私を呼ぶ声は、減っていた。
私を呼んだ古参の多くが、もう動かなくなったからだ。
それでも、ひとりだけ、まだ私を呼ぶ古参がいた。
左の足を引きずる、あの古参だ。
その古参が来るのは、足音で分かる。
ずる、と片足を曳く音。
その音が近づくと、私の足元に、骨が放られた。
その骨には、いつも、肉が付いている。
その肉を、私は食べた。
食べてから、古参を見る。
見ても、古参は何も言わない。
言わないまま、自分の骨を齧った。
齧るその横顔は、痩せている。
その頬の奥で、目だけが、暗闇に光っていた。
——なぜ、この古参は、私に骨をくれるのか。
その問いを、私は四年、抱えていた。
抱えても、答えは出ない。
出ないまま、私は、別のことに気づいた。
ずる、というあの音を。
私は、待つようになっていた。
待つ、ということを、私は誰にも教わっていない。
教わらないまま、私の耳は、その音を探した。
探して、聞こえると、私の中の何かが、すこしだけ緩む。
緩む、ということが、温かい、ということなのだと。
その時の私は、まだ知らなかった。
ずる、という音を、私は待つようになっていた。
待つ音がある、ということが、温かさだった。
ずる、という音は、ずるり、というあの音と、似ていた。
似ている、ということを、私は、考えないことにした。
◆ ◇
左足の古参は、火の番をしていた。
穴の隅に、火のある場所がある。
誰かが落とした火種を、絶やさずに守っている場所だ。
古参は、夜になると、そこに座った。
座って、骨の欠片やぼろ布を、すこしずつ火にくべる。
くべる手つきは、遅い。
遅いが、火は、消えない。
その消えない火の脇で、古参は私に骨を放る。
その骨を、私は火の近くで齧るようになった。
火の近くは、暖かい。
暖かい場所に、誰かといる。
それが何なのかを、その時の私は、言葉で知らなかった。
知らないまま、私は、ただそこにいた。
ある時から、左足の古参が、咳をし始めた。
咳は、少しずつ増えていく。
その咳を、私は知っていた。
同じ咳を、四年前に聞いたからだ。
四年前、その咳をした子供が、私に布を掛けてくれた。
その布は、いまも私の肩にある。
咳が深い夜、古参は、火をくべる手を止めた。
その手の代わりに、私の手が、動いた。
私の手が、骨の欠片を、火に入れる。
すると、火が、また立った。
その火を、古参は見た。
見て、何も言わない。
言わないまま、古参は目を閉じた。
閉じたその横顔の前で、私は、火の番をした。
番、という言葉も、その時の私は知らない。
知らないまま、私は、火を見ていた。
火を、消さないこと。
それが、私が初めて、誰かのためにした仕事だった。
火を、消さないこと。
それが、私の、初めての仕事だった。
◆ ◇
その時、上の格子が、軋んだ。
ぎい、と蝶番が鳴る。
その鳴り方を、私は知っている。
新入りを、落とす時の音だ。
落ちてきたのは、子供だった。
子供は、私より小さい。
その子供は、岩の上で動かない。
目が、まだ暗闇に慣れていないからだ。
慣れない目で、子供は岩肌を見回す。
その目が、私の方を向いた。
子供の目が、暗闇の中で、わずかに光る。
その光った目を、私は見た。
私の手は、骨を握っている。
——四年前、私は、あの子供の側にいた。
動かない人の間に嵌って、誰かの手を、待っていた。
待っていたその私に、手を伸ばしてくれた者がいた。
そしていまは、私が、手を伸ばされる側にいる。
四年前、私は、手を待っていた。
いまは、私が、手を伸ばされている。
子供が、私の方へ、岩肌を進んできた。
その手が、私の骨に伸びる。
手の指は、細い。
その細い指の先が、骨の端に触れた。
その指を、私は見た。
——この子は、私の骨を欲しがっている。
——分ければ、私の骨が減る。
減れば、私が飢える。
私の手は、骨を引いた。
その骨を、胸の前に隠す。
隠した私を、子供は見た。
子供の目から、光が、すっと消えた。
その消えた光を、私は見ていた。
その時、私の手が、勝手に動いた。
その手は、肩の布を掴む。
掴んだ布を、子供の方へ押した。
その布を、子供は受け取る。
受け取った布を、子供は肩に掛けた。
骨は、分けなかった。
布は、渡した。
分けなかったことと、渡したことの、ちょうど間に、私はいた。
その間にいる、ということを、いまの私なら、言葉にできる。
古参になるというのは、選ぶことだったのだ。
選ぶ、ということを、私はその夜に覚えた。
覚えた、と、いま書ける。
◆ ◇
その夜、私は眠らなかった。
骨を握っていたからだ。
その先を、暗闇に向ける。
向けたその先で、左足の古参の咳が聞こえた。
前より、深い咳だ。
それを、私は数えた。
数えられたのは、私が、数えることを覚えていたからだ。
一つ。
二つ。
三つ。
咳の数を、暗闇の中で、私は数えた。
数えながら、私は知った。
——この古参も、いつか動かなくなる。
——動かなくなれば、ずる、というあの音は、もう来ない。
来なくなったその音を、私は、待ち続けるのだろうか。
四年前の、あの布のように。
温かくないまま、形だけが残るのだろうか。
分からないことは、分からないまま、私はそっと置いた。
その隣で、私は、火の方を見た。
火は、まだ、消えていない。
消えない火。
深くなる咳。
眠った子供。
——その全部を、私は見る。
見て、覚える。
誰が、動かなくなるか。
誰が、奪うか。
誰が、与えるか。
与える者から、私は、目を離さない。
目を離さない、そのことの名前を、私はまだ持っていない。
持っていないまま、私は、見極めに、行く。




