第21話「棒になる骨」
骨が、食べ物だけではないということを。
私は、その夜、知った。
知った夜のことを、私はいまも、手で覚えている。
覚えているのは。
その夜、私の手が、初めて長くなったからだ。
◆◇
上の格子が、軋んだ。
食べ物が落ちる時の音だった。
私は、その音を知っていた。
軋み、落下、衝突。
そして奪い合い。
その順番も、もう覚えていた。
落ちてきたのは骨だった。
大きな骨、肉の多い骨。
いつもより、ずっと多い。
その匂いが、暗闇の中に広がった。
途端に、影たちが動く。
古参たちの足音が、岩肌の上を交差した。
骨が打つ音。
唸り声。
低い怒鳴り声。
私は岩陰から見ていた。
見ながら、動かなかった。
――ここでは、最初に飛び出した者から死ぬ。
それを知っていたからだ。
◆◇
争いの途中で、小さな欠片が飛んだ。
骨の欠片だった。
それが、ころころと転がってくる。
私の足元まで。
私は拾う。
肉が少しだけ付いていた。
口に入れる、すぐに消える。
噛む間もない。
飲み込んだあと、腹が鳴った。
――もっと欲しい。
そう体が言った。
その時だった。
もうひとつの欠片が見えた。
岩二つ分ほど先。
そこには、さっきより多く肉が付いている。
私は見た。
見たまま、動かなかった。
外科学の規律さえ届かない暗闇で、その近くに、古参がいたからだ。
古参は別の骨を齧っている。
まだ気づいていない。
だが、気づけば終わる。
私のものにはならない。
――いまなら取れる。
そう思う。
思うが、足は動かなかった。
動けば見つかる、見つかれば奪われる、奪われれば打たれる。
打たれる痛みを、私は知っていた。
知っている痛みが、足を縫い付けた。
◆◇
その時、私の横に、骨が二本あった。
寝場所の横へ置いていた骨だ。
一本は短い。
何度も齧った、欠けた骨だった。
もう一本は長い。
古参がくれた骨だ。
私は、その長い方を手に取った。
冷たい、軽い、そして長い。
私の腕より、少しだけ長かった。
外の音を忘れさせるように、私はその長さを手で感じた。
感じた瞬間、何かが繋がった。
――骨は、私の腕より、少し長い。
その長さを、私の手が覚えた。
言葉にはできない。
だが、手は理解していた。
私は骨を前へ出した。
◆◇
骨の先が岩肌を滑る。
「――しゃり」と、小さな音。
私は腕を伸ばす。
届かない、まだ遠い。
体を前へ出す。
胸が岩肌を擦る、さらに伸ばす。
その先で、骨の先が欠片へ触れた。
触れた。
私は止まる。
止まって、ゆっくり引く。
骨の先で、欠片を引っ掛ける。
「ころ」と、欠片が動く。
また引く。
「ころ」と、また動く。
欠片は、少しずつ私の方へ近づいた。
やがて、手が届く。
私は拾った。
肉はまだ残っていた。
すぐに口へ入れる、飲み込む。
腹の奥が熱くなる。
――だが、その熱よりも、もっと別のものがあった。
私の手が、急に長くなった気がした。
腕は、届かない。
だが、骨の先は、届く。
私はもう一度、骨を伸ばした。
今度は欠片がない。
だから小石を引く。
引けた、また引いた。
また引けた。
意味はない、腹も満たされない。
それでも、私は何度も繰り返した。
ただ、面白かった。
その感覚を、私は初めて知った。
名前はまだない。
だが――温かかった。
◆◇
その時だった。
古参が顔を上げた。
白く濁った片目、残った片目。
その目が、私の手元を見る。
肉を見た。
そして、立ち上がった。
足が動く、こちらへ来る。
私は固まった。
逃げ場はない。
背中の後ろは壁だ。
寝場所の岩、そこまで下がる。
下がって、止まる。
もう後ろはない。
古参は近づく、ゆっくり、だが止まらない。
私は手の中の骨を見る。
そして、前へ出した。
◆◇
骨の先が、古参へ向く。
私の腕の先、さらにその先、そこに骨がある。
その先端は、古参の腹の前にあった。
古参が止まる。
骨を見る、私を見る、また骨を見る。
何度も行き来する。
その目の中に、私は初めて迷いを見た。
古参は、いつも奪う側だった。
いつも近づく側だった。
だが今、近づけない。
近づけば、骨の先が届く。
そのことを、古参の体の方が先に理解していた。
私は骨を握り直した。
指に力を入れる。
三本の指。
親指、人差し指、中指。
三本が骨を押さえる。
私は、骨を少しだけ突き出した。
先端が腹へ触れる。
刺さらない、傷も付かない。
それでも、古参は退いた。
一歩、また一歩、暗闇の方へ戻っていく。
私は見ていた、信じられなかった。
――何かが、私から退いた。
初めてだった。
退かれたのは、初めてだった。
――届く手は、退かせる手でもあった。
◆◇
やがて、足音が遠ざかる。
私は動かない、しばらく動かなかった。
骨を下ろせなかった。
胸の前へ引く、握る、見つめる。
白い骨、ただの骨。
さっきまでは食べ物だった。
だが今は違う、何かが違う。
言葉にはできない、できないが、手は知っていた。
――この骨は、私の腕の続きだ。
届かない場所へ届く、取れないものを取る、近づけない相手を止める。
そのためのものだ。
私は、その形を手で覚えた。
――この骨は、私の腕の続きだ。
三本の指が、それを覚えた。
◆◇
いまの私なら、こう書ける。
――骨は棒だ。
棒は骨だ。
だが、その言葉を知るのは、ずっと後だった。
この夜の私は、まだ知らない。
知らないまま、ただ握っていた。
骨を、腕の続きを、その形を、手の中で何度も確かめた。
握る、伸ばす、引く、また握る、繰り返す。
繰り返すたびに、骨は骨ではなくなっていく。
私の手になっていく。
長い手、届く手、退かせる手。
その始まりだった。
――あの夜、私の手は、初めて骨を棒にした。
――骨を握る手は、いつも、この夜の手だ。
ただ、いま書くからこそ、ひとつだけ足せる。
――届く手は、見られる。
目立たないことだけが武器だった私が、初めて目立った夜でもあった。
その先に何が来るのか、あの夜の私は、まだ知らない。
◆◇
その夜、私は眠らなかった。
骨を握っていたからだ。
暗闇へ向ける。
足音はもうない、古参も来ない、それでも下ろさない。
骨は、手の熱で少しずつ温かくなった。
温かくなった骨を、私は腕の続きとして握る。
握ったまま、暗闇を見る。
その先に明日があった。
明日の中で、また骨が落ちる、また欠片が散る。
その時、私はこの骨を使う。
使って、届かなかった場所へ届く。
届いて、手に入れる。
だから、来た骨を、私は――棒にする。




