第20話「二つの輪郭」
古参は何も言わなかった。
ただ、手元の骨を投げた。
骨は岩肌を転がる。
「ころり、ころり」と、音を立てて、わたしの足元で止まった。
骨には、まだ少し肉が残っている。
古参は見ていた。
わたしが拾うかどうか、ただ見ていた。
わたしも見返した。
長い時間だった。
実際には短かったのかもしれない。
けれど――あの頃のわたしには長かった。
古参は首を傾ける。
外科学の規律など届かない暗闇で、そして、何も言わずに去った。
「ずる、ずる」
左足を引きずりながら、暗闇へ戻っていった。
◆◇
832、外の音。
レン、内の音。
その日、わたしは初めて二つの輪郭を持った。
外の輪郭で、岩の底を生きる。
内の輪郭で、わたしを守る。
その使い方を、わたしは覚えた。
――外の音で呼ばれ、内の音で立つ。
それが、その日からのわたしだった。
◆◇
わたしは骨を拾った。
肉を剥がした、口に入れた。
固かった。
固いまま飲み込んだ。
飲み込むと、少しだけ腹が落ち着く。
そのあとで、骨を寝床へ持っていった。
そこには、もう一本の骨がある。
欠けた骨だ、最初の骨。
その隣に、新しい骨を並べた。
一本、二本。
わたしは眺める、長い間、眺めていた。
◆◇
暦はない、季節も分からない、昼と夜も曖昧だった。
けれど、骨なら数えられる。
一本、二本。
増えれば、わたしが生きた証になる。
そう思った。
その時のわたしは、本気でそう思った。
水の場所が、ひとつ。
骨が、二本。
名前が、ひとつ。
全部で四つ。
――それが、わたしの財産だった。
その中で、名前だけが特別だった。
骨は奪われる、水場も奪われるかもしれない。
けれど――レンは奪われない。
胸の奥にある限り、誰も触れられない。
◆◇
骨を見ながら、わたしは考えた。
古参は、なぜ骨をくれたのか。
可哀想だったから、余っていたから、太らせたいから、いろいろ考えた。
けれど、どれも違う気がした。
違う――という感じだけが残った。
答えは出ない、出ないまま、問いだけが残った。
いまのわたしなら、別の答えを考える。
だが、あの頃のわたしは知らない、知らなかった。
古参は、わたしを見ていた。
何を見ていたのか、それはいまでも分からない。
生き残る子供を見ていたのか、昔の自分を見ていたのか、ただの気まぐれだったのか。
わからない、本当にわからないままだ。
◆◇
やがて、わたしは横になった。
肩には、あの子の上着がある。
もう温かくない、けれど、布は覚えていた。
わたしの肩の形を、小さな背中の形を。
抱きしめるように、布を引き寄せる、目を閉じる。
暗闇の中で、わたしは、わたしを呼んだ。
(レン)
声にはしない、けれど確かに聞こえた。
呼ばれたわたしが、内側で振り向く。
返事の仕方は知らない、知らないが――温かかった。
その温かさだけで、十分だった。
◆◇
呼ばれて眠る、それは初めてだった。
穴へ落ちてから、初めての深い眠りだった。
恐怖に起こされない、空腹で飛び起きない。
ただ、沈むように眠った。
深く、静かに、眠った。
――私が、私を呼んだ。
――呼ばれて眠る夜は、初めて深かった。
◆◇
目覚めた時、わたしは知った。
大きなことではない、世界の秘密でもない、もっと小さいことだ。
けれど――あの頃のわたしには、世界より大きかった。
知ったのは、生きるということだった。
見続ける、骨を齧る、水を飲む、隠れる。
そして――明日を迎える。
それを繰り返す、繰り返し続ける。
その先がどこへ繋がるかは分からない。
分からなくても、続ける。
――それが、生きるということだった。
◆◇
わたしは骨を握った。
胸の前に置く。
骨は冷たい、けれど、左手は少し温かかった。
その温かさの奥に、レンという音がある。
誰にも言わない、誰にも渡さない、誰にも奪わせない。
わたしだけの音、わたしだけの輪郭、わたしだけの名前。
――私は、レンである。
そのことを、誰にも言わない。
言わないまま、わたしは、骨を抱えて暗闇を見た。
格子の光を見た、岩肌を見た、眠る古参を見た、自分の影を見た。
そして、まだ来ない明日を――見ている。




