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灰のレン  作者: K3


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第19話「私はレン」


 名前を、わたしは自分でつけた。


 それは夢の中で聞こえた音だった。


 その音が、本当にわたしの名前だったのか、それは分からない。


 分からなかった。


 けれど、わたしはそれを信じた。


 信じる以外のことを、その時のわたしはまだ知らなかったからだ。


  ◆◇


 夢の中に、母がいた。


 母という音を、あの頃のわたしは知らない。


 知らないのに、その人を見た瞬間に、わたしの中の何かが囁いた。


 (母)


 その音を、わたしは疑わなかった。


 母は何も言わない。


 ただ、わたしの頭を撫でていた。


 長い指、柔らかな掌。


 その手が、髪の上をゆっくり滑る。


 撫でられるということを、わたしは穴に落ちてから知らなかった。


 穴の中の手は、奪う手だった。


 殴る手だった。


 引き剥がす手だった。


 だから、ただ置かれる手があることを、わたしは夢の中でしか知らなかった。


 ――穴の手は、奪う手か、打つ手だった。


 ――ただ置かれた手を、わたしは夢で知った。


 母の手は温かかった。


 その温かさだけが確かだった。


 顔は見えない、服も見えない、声も聞こえない。


 けれど、その温かさだけは絶対に間違えない気がした。


 やがて、母の手が離れる。


 ゆっくり、ゆっくりと、わたしから遠ざかる。


 離れていく、消えていく、暗闇の向こうへ。


 そして、最後にひとつだけ、音が残った。


「――レン」


「――レン」


 その音だけが、夢の中に残った。


 わたしは追いかけた、追いかけようとした。


 だが、音は逃げる。


 夢の縁から、滲むように消えていく。


 消えていく音を掴もうとして――その時、わたしは目を開けた。


  ◆◇


 岩の天井、冷たい空気、滴の落ちる音。


 いつもの朝だった。


 いや、朝かどうかも分からない。


 ただ、格子の光が少し明るい、それだけだった。


 わたしは目を閉じる。


 外科学の規律さえ届かない暗闇で、そして口の中で音を転がした。


 (レン)


 声にはしない、できない。


 出せば見つかる、見つかれば奪われる、それを体が知っていた。


 だから、口の中だけで転がす。


 レン、レン、レン。


 何度も、何度も転がした。


 すると、その音が少しずつわたしの形になっていく気がした。


  ◆◇


 光の濃淡が変わる、また変わる、何度も変わる。


 わたしは数えなかった、数える方法を持たなかったからだ。


 けれど、時間は流れる。


 流れる時間の中で、わたしは覚えていった。


 水の場所、隠れる場所、古参の寝床、格子の音。


 音には種類があった。


 食べ物、新しい奴隷、死体の回収。


 三つ――少なくとも、わたしには三つに聞こえた。


 その違いを、耳が覚えた。


 生きるためだった。


 見なくても分かるように、聞くだけで分かるように、覚えた。


  ◆◇


 その合間に、骨を齧る。


 骨を齧る、また齧る。


 歯が強くなる、顎が強くなる、欠けた骨も飲み込めるようになる。


 それが日々だった。


 骨、水、静止。


 それだけだった。


 骨を齧ること、水を飲むこと、動かないこと。


 わたしの体は、その三つを受け入れた、受け入れてしまった。


 その時のわたしは思った。


 (人間でなくなっているのだと)


 けれど、いまなら分かる、違った。


 人間でなくなっていたのではない。


 ――人間であるために、その三つを握りしめていたのだ。


 だが、その時は分からなかった。


  ◆◇


 ある時、わたしはもう一度あの音を思い出した。


 (レン)


 転がす、また転がす。


 すると、不思議なことに、胸の奥が少し温かくなった。


 骨を食べた時の温かさではない。


 もっと奥、もっと深い場所。


 832番と呼ばれても、何も感じなかった場所。


 その場所に、音が収まった。


 ぴたりと、最初からそこにあるべきもののように、収まった。


 ――形のあるものは、ぜんぶ奪われる。


 ――見えない音だけが、奪われない。


 その時、わたしは知った、初めて。


 誰にも奪えないものを持ったのだと。


 骨ではない、布ではない、水の場所でもない。


 もっと奥だ、もっと深い、わたしだけのもの。


 それを抱きしめるように、わたしは内側で決めた。


 ――私は、レン。


 誰にも言わない、誰にも渡さない、誰にも知られない、そう決めた。


 その決意は、まだ小さかった。


 けれど、岩の底で生まれた最初の宝物だった。


  ◆◇


 名前は、呼ばれるための音だ。


 けれど、呼ぶ者は、ここにいない。


 いないから、わたしが、わたしを呼ぶ。


 誰にも聞こえないように。


 誰にも奪われないように。


 胸の奥で、小さく、何度も。


 (レン)


 その音は、もう母の声ではなかった。


 わたし自身の声だった。


  ◆◇


 ここでは、すべてが奪われる。


 食べ物は奪われた。


 布は剥がされた。


 骨さえ取り合われた。


 動かない人の体も、やがてどこかへ消えていった。


 形のあるものは、いつか必ず失われる。


 ――それが、岩の底の決まりだった。


 だから、見えないものだけが残る。


 声にしない音だけが、わたしの中に残る。


 ――見えない音だけが、奪われない。


 だからわたしは、それを抱えた。


 抱えた音は、小さい。


 けれど、その小さな音は、空腹より強かった。


 寒さより強かった。


 暗闇より強かった。


 832番と呼ばれても、その音だけは消えなかった。


  ◆◇


 ある日、岩陰の奥から声がした。


「――832」


 低い声だった。


 わたしは振り向く。


 古参がいた。


 痩せている、肩は細い。


 片方の目は白く濁っていた。


 もう片方だけが、こちらを見ている。


 その目は、獣の目に似ていた。


 けれど――どこか違った。


 わたしはまだ、その違いを知らない。


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