第18話「呼んだ声」
人間でなくなる、と、私はその時、思った。
思ったが、それは間違いだった。
間違いだった、と、いまの私は書ける。
書けるのは、私があの夜を生き延びたからだ。
あの夜。
私の中の何かが、生き延びるための音を見つけた。
その音を、私は母の声だと思った。
思ったが、それも半分は間違いだ。
母の声でもあった。
母の声ではない何かでもあった。
その二つを、あの夜の私は、まだ分けられなかった。
◆◇
夢と現実の境が消えた。
その中で、いろんなものが同時に動いた。
煌めく宴の光。
銀の食器。
林檎の渦。
二段の笑み。
銀のナイフ。
背中を焼いた熱。
冷たくなった子供の手。
水の滴。
骨。
鉄の味。
その全てが、同時にあった。
あったが――どれも繋がらない。
繋がらないまま、私の体は寒さを感じなくなっていた。
寒さが消えたのではない、消えていたのは私の方だった。
私は薄くなっていく、岩の底に溶けていく。
そのことだけは分かった。
分かったが、止め方は知らない。
知らないまま、私は少しずつ消えていった。
――消えたのは、寒さではない。
消えたのは、わたしの方だった。
◆◇
消えた先に夢が待っていた。
そこに、ひとりの女がいた。
母という音を、私は知らなかった。
知らなかったが、その人を見た瞬間、私の中の何かが囁いた。
(母)
私はその音を信じた。
女は立っていた。
長い髪、暗い色の髪。
顔は見えない。
見えなかったのは暗いからではない、私がその顔を知らないからだ。
知らない顔の代わりに、一本の手だけがあった。
細い指、白い手。
その手が伸びる、私の頬へ触れる。
暖かかった。
暖かい――ただそれだけが確かだった。
その指は、頬から髪へ入る。
外科学の規律さえ遠い夢の底で、そして頭を撫でた。
ゆっくり、何度も。
何も奪わず、何も求めず、ただそこに置かれる。
撫でられるということを、私は知らなかった。
穴の手は違う、奪う手か、打つ手か、そのどちらかだった。
だから、ただ置かれた手を、私は初めて知った。
その重さだけが、夢の中で確かだった。
――穴の手は、奪う手か、打つ手だった。
――ただ置かれた手を、私は初めて知った。
長い時間が過ぎた。
やがて、母の唇が動く。
声は聞こえない、けれど分かった。
その唇は、私を呼んだ。
「――レン」
その音を、私は知っていた。
最初の夢、光の中の卓、二つの声。
低い声、高い声。
いま聞こえているのは、高い方だった。
高い方は、母の声だった。
呼ばれた瞬間、私の奥底で、何かが跳ねた。
「――レン」
その音が、消えていく私を底で掴んだ。
◆◇
母の手は暖かかった、暖かかったはずだ。
私はその暖かさを知っている。
知っているのに、どうして知っているのか思い出せない。
思い出せないまま、私はその手を追った。
追ったのは、もう一度触れてほしかったからだ。
なぜ触れてほしいのか、私は知らない。
知らないが、その手が遠ざかると、胸の奥が少し苦しくなった。
身が裂けるほどに、また少し苦しくなった。
その苦しさの名前を、私はまだ知らない。
◆◇
跳ねた何かが、私の左手へ伝わった。
すると、左手が動く、岩肌へ伸びる。
指先が岩を掴む、体を引きずる、前へ、少しだけ。
その先に骨があった。
骨にはまだ何かが付いていた。
私はそれを剥がした、剥がしたものを口へ運んだ。
それについては書かない。
書けば、これを読む者は私を憎むだろう。
私自身も、まだその味を覚えている。
覚えているものを、私は書かない。
――生きるということが、その夜は、これだった。
口へ入れた瞬間、本能が満足した。
満足した本能は、もっと欲しがった。
私は骨を噛む。
「ごり、ごり」と、硬い音がした。
噛む、また噛む、欠けた骨を飲み込む。
飲み込むたびに、何かが強くなった。
歯だった、顎だった、噛む力だった。
骨を齧るたび、私の歯が強くなった。
――歯と、顎が、強くなった。
◆◇
私は思った。
(人間でなくなる)
と、そう思った。
思ったが、それも間違いだった。
いまの私は知っている。
あの夜、私が捨てたのは人間性ではない、別の何かだった。
だが、あの夜の私は知らない。
知らないまま、こう思った。
――人間のままなら死ぬ。
人間でなくなれば生きる。
死にたくなかった。
死にたくなかったのは、あの音が残っていたからだ。
(レン)
その音が、まだ私の中で響いていた。
さらに、もうひとつの声。
「――お前は、生きろ」
母の声と、子供の声。
二つの音が、底でひとつになる。
ひとつになった音が、私を引き上げる。
だから、私はもう一度、その音を繰り返した。
(レン。
レン。
レン)
繰り返すたび、その音は形になった。
私の新しい形になった。
――レン。
その音が、私の、新しい形になった。
◆◇
私は骨をもう一本握った。
齧った、飲み込んだ。
そして眠った。
深く、深く、初めての深さで。
◆◇
目を覚ました時、腹は痛くなかった。
その痛くないことを、私の体は良いことだと思った。
良いという感じを、私は初めて知った。
知った瞬間、口の中に鉄の味が残っていた。
その味は、もう知らない味ではなかった。
私は天井を見る。
高い岩の天井、格子の向こうの光、冷たい世界。
それでも、私はまだ生きていた。
生きていて、そして、初めて自分の名前を取り戻していた。




