第17話「奥の底」
いま、これを書いている私は、あの咳が何だったのかを知っている。
知っている。
けれど、あの夜の私は知らなかった。
知らないまま、ただ明日を思っていた。
明日も、この子がいる。
そう信じていた。
だから。
その音が変わったことに、最初は気づかなかった。
◆◇
子供の咳は増えた。
最初は、時々だった。
次は、毎日になった。
やがて、話すたびに咳をするようになった。
ごほ。
ごほ。
乾いた音だった。
岩肌に反響するその音を、私は毎日聞いた。
聞いているうちに、何かがおかしいことだけは分かった。
子供の肩が細くなる。
腕が細くなる。
頬が落ちる。
目だけが大きくなる。
それなのに、子供は笑った。
「まだ生きてる」
そう言って、欠けた歯を見せた。
私は、その笑顔を見た。
見るだけだった。
何もできない。
何も知らない。
だから、見るだけだった。
◆◇
時間が過ぎた。
どれだけ過ぎたかは分からない。
でも、子供の体温は確実に減っていた。
肩で分かる。
隣にいるから分かる。
最初に掛けられた上着は、まだ温かい。
けれど、それは布の温度だった。
子供自身の温度ではない。
子供の熱は、少しずつ消えていた。
少しずつ。
少しずつ。
私はその変化を見ていた。
止め方を知らない。
助け方も知らない。
だから、ただ見ていた。
◆◇
ある夜だった。
子供はほとんど動かなかった。
呼吸は浅い。
目も開かない。
私は隣に座っていた。
何をするでもなく、ただ座っていた。
やがて、子供の目が少し開いた。
薄く。
本当に少しだけ。
その目が、私を見る。
「お前は、生きろ」
声は掠れていた。
風みたいな声だった。
子供は、もう一度言った。
「お前は、生きろ」
ごほ。
咳が出る。
血が混じる。
それでも、続ける。
「俺の分まで」
私は言葉を返せなかった。
返す言葉を持っていなかった。
持っていたとしても、たぶん返せなかった。
だから、ただ見ていた。
お前は、生きろ。
俺の分まで。
その音だけが、穴の底に残った。
◆◇
私は子供の顔を見た。
目は半分閉じている。
その奥に、まだ光があった。
小さい光。
今にも消えそうな光。
私はそれを見ていた。
左手では、子供の手を握っていた。
温かい。
まだ温かい。
だから大丈夫だと思った。
大丈夫だと、そう思った。
けれど、温かさは少しずつ減る。
減って。
減って。
減って。
ある瞬間。
完全に止まった。
私は、その瞬間を見た。
最後まで見た。
逃げなかった。
目も逸らさなかった。
だから、見えた。
見えてしまった。
子供の体の中から、何かが抜けた。
上へ。
格子の方へ。
静かに。
音もなく。
私は知らない。
あれが何だったのか、いまも知らない。
けれど、抜けていったことだけは分かった。
左手が知っていた。
握っていた指先が知っていた。
温度ではない。
息でもない。
もっと別の何か。
それが、抜けていった。
何かが、子供の体から、上の格子へ抜けていった。
◆◇
その後だった。
古参の影が来た。
静かだった。
慣れているのだろう。
何も言わない。
子供の体へ手を伸ばす。
上着を剥ぐ。
布を剥ぐ。
腰に残っていた小さな骨も取る。
手に持てるものを、全部持っていく。
私は見ていた。
見ているだけだった。
止めない。
止められない。
古参は、暗闇へ消えた。
後に残ったのは、子供だったものだ。
細い足。
骨ばった膝。
動かない指。
私はそれを見ていた。
何も言わなかった。
言葉がない。
私の持つ音は、ひとつだけ。
はっぴゃくさんじゅうに。
その音は、この夜、何の役にも立たなかった。
◆◇
肩の上には、まだ上着があった。
温かい。
けれど、その温かさは違った。
子供の熱ではない。
私自身の熱だった。
子供の熱は、もうどこにもない。
どこにも。
本当に、どこにもなかった。
私はそれを理解できなかった。
理解できないまま、ただ座っていた。
隣に、動かない子供がいる。
それだけだった。
◆◇
その夜、私が何を感じたのか、私は書かない。
書かない。
あの夜の私には、それを表す音がなかったからだ。
いまの私にはある。
けれど、その音を書いても、あの夜には届かない。
届かないものを、私は書かない。
だから、書かない。
ただ、ひとつだけ書く。
握っていた手から、私の力が抜けた。
頭の中も、一緒に抜けていった。
空っぽになる。
何もない。
何もないはずだった。
なのに。
その何もない場所の、もっと奥。
もっと底。
誰にも触れられない場所で。
何かが、ほんの少しだけ動いた。
言葉にならない何かが。
わたしの、奥の底で。
動いた。




