第16話「動かない子」
死ぬ、ということを、わたしはまだ知らなかった。
知らないまま、その夜、わたしは初めて、温かさというものを知った。
そして。
温かさを知ったその夜に、わたしは、それを失うことになる。
◆◇
わたしは夢を見ていた。
夢の中で、強い熱が背中に当たっていた。
大人の手が二本、わたしの肩を押さえつけている。
別の手が、赤く燃えるものを近づける。
背中に触れた。
肉の焼ける音がした。
じゅう。
その音と一緒に、匂いがした。
知らない匂いだった。
でも、わたしは覚えた。
覚えた瞬間に、何かが消えた。
消えたものの名前を、わたしは書かない。
書けば、思い出してしまう。
思い出せば、ここにいられなくなる。
だから、書かない。
◆◇
目を開けた。
暗闇が満ちている。
背中の傷は、もう熱くない。
熱くないのは、かさぶたになったからだ。
わたしは、そのかさぶたを左手でなぞった。
指先が、皮膚の盛り上がりを辿る。
盛り上がりは、線になっていた。
線は、何かの形を作っている。
その形が何を指すのかは分からない。
分からないまま、わたしは指を止めた。
あとで、岩の中の誰かが、その形を音で呼んだ。
はっぴゃくさんじゅうに。
その音は、わたしを指していた。
指していることは分かる。
でも、その音は冷たかった。
わたしの背中を焼いた側の音だからだ。
だから、わたしはその音を外に置いた。
その音で呼ばれる。
でも、呼ばれても、わたしの中の何も温まらない。
はっぴゃくさんじゅうに。
呼ばれても、何も温まらない。
温まる音を、その時のわたしはまだ持っていなかった。
◆◇
その時、上の格子が軋んだ。
ぎい。
ゆっくりした音。
新しい人の音だった。
上から、人が降ろされてくる。
子供だった。
わたしより、少し大きい。
その影が、岩肌を伝ってこちらへ来た。
軽い足音。
子供は、わたしの前にしゃがんだ。
痩せていた。
頬はこけている。
唇は乾いている。
それでも、その子は自分の襤褸の上着を脱いだ。
そして、わたしの肩に掛けた。
その瞬間。
温度が、肩に移ってきた。
子供の体温だった。
冷たい岩としか触れたことのなかった肩に、初めて別の体の熱が乗った。
知らない熱だった。
その熱が、肩から胸へゆっくり降りていく。
降りた先で、何かがほどけた。
名前はない。
名前はないのに。
それは、痛いくらい温かかった。
◆◇
子供は、わたしの隣に座った。
低い声で訊いた。
「名前は」
わたしは答えなかった。
答えられる音は、ひとつしかない。
はっぴゃくさんじゅうに。
その音は冷たい。
それを、この子に渡したくなかった。
渡したくない。
そう思ったことを、その時のわたしはまだ言葉にできない。
できないまま、黙っていた。
子供は、答えを待たなかった。
「いいよ。俺も、名前、忘れた」
そう言って、笑った。
口の中の歯は、半分欠けていた。
◆◇
それから長い時間をかけて、子供はいくつかのことを教えてくれた。
水の落ちる場所。
動かない人の影に隠れること。
古参の目を見ないこと。
肉が落ちても、すぐには動かないこと。
動いた者から、奪われること。
奪われた者は、次に自分が肉になること。
子供は、咳と咳の間に挟むようにして教えた。
聞きながら、わたしはひとつのことを知った。
この子は、わたしを生かそうとしている。
生かそうとする者を、わたしはこの時、初めて見た。
子供は、手の中に握っていたものを見せた。
小さな骨だった。
まだ赤いものがついている。
死んだばかりの肉から、奪い損ねられた残り。
大人の目からこぼれた、ほんの少し。
子供はそれを石で割った。
中から、濁ったものが出た。
血と髄が混じった、ぬるい汁。
子供はそれを指で受けた。
自分で舐めずに。
わたしの口元へ運んだ。
わたしは飲んだ。
鉄の味がした。
脂の匂いがした。
美味しいのかどうかは分からない。
でも、体の奥が温まった。
子供は言った。
「飲めるな」
それから、少し笑った。
「飲めれば、生きられる」
飲めれば、生きられる。
その夜、わたしはひとりではなかった。
眠る時、わたしは子供の隣にいた。
隣に誰かがいると、暗闇が少しだけ狭くなる。
その狭くなった暗闇の中で、わたしは明日を思った。
明日も、この子がいる。
そう思った。
疑いもしなかった。




