第15話「王宮の地下」
戻れる場所が、ひとつできた。
それだけのことだった。
でも、岩の底では、そのひとつが大きかった。
私は何度もそこへ戻った。
喉が渇くたび。
腹が鳴るたび。
夢から目を覚ますたび。
戻った。
戻るたびに、私はその場所を確かめた。
水は、まだ落ちている。
一滴。
また一滴。
変わらず落ちている。
それを見ていると、少しだけ安心した。
岩の底では、変わらないものが少ない。
その水は、私が初めて見つけた同じものだった。
◆◇
動かないでいる時間は長い。
長い時間の中で、上の格子から何度も音がした。
一度目の音は、勢いよく開いた。
がん。
金属がぶつかるような音。
その直後。
何かが落ちてくる。
どさり。
岩肌に当たり、跳ねた。
ぬれた匂いがした。
新しい匂い。
血の匂い。
その匂いと同時に、暗闇が動いた。
影たちだ。
私が最初に見た二人だけではない。
もっといた。
岩陰の奥。
光の届かない場所。
そこに隠れていた影たちが、一斉に動き出した。
速かった。
飢えた獣みたいに。
いや。
獣そのものだった。
◆◇
影たちは、落ちたものを囲んだ。
声が飛ぶ。
「よこせ」
「俺が先だ」
「後から来た奴は後だ」
怒鳴り声。
呻き声。
骨のぶつかる音。
誰かが誰かを殴っている。
私はそう思った。
落ちてきたものは、死んだばかりの魔物だった。
毛がある。
角がある。
肉がある。
だから、みんな動いた。
肉がある時だけ、穴は生き物みたいに動く。
大人たちは早かった。
誰かが取る前に取る。
誰かに噛まれる前に噛む。
誰かに奪われる前に飲み込む。
やがて、塊はいくつかに分かれた。
二人の影が、それぞれ大きいところを抱えて戻っていく。
戻った先で、ごり、という音がした。
硬いものを噛む音。
ごり。
ごり。
ごり。
その音を聞くたび、腹が鳴った。
私は目を閉じた。
閉じても音は聞こえる。
耳を塞ごうとした。
でも、耳を塞ぐ力すら残っていなかった。
◆◇
何度目かの光の変化のあとだった。
今度は違う音がした。
ゆっくりだった。
ぎい。
ぎい。
重いものを下ろす音。
長い。
前の音より、ずっと長い。
私は目を開けた。
影たちも、まだ動かない。
みんな上を見ていた。
やがて、何かが降りてきた。
人だった。
服を着ている。
ここでは珍しい。
いや。
私は初めて見た。
服を着たままの人間を。
その人は立っていた。
男だった。
暗闇に目が慣れていないのか、周囲を見回している。
何も分かっていない顔だった。
私も最初は、あんな顔をしていたのだろうか。
そう思った瞬間。
影が動いた。
二人。
左右から、一気に近づく。
男は抵抗した。
腕を振る。
拳を振る。
拳が影の顔に当たった。
影が低く唸る。
そして、骨を握り直した。
白い骨だった。
長い。
尖っている。
その骨が、男の首へ入った。
深く。
まっすぐ。
男の口が開く。
声は出なかった。
血だけが流れた。
赤い血。
温かそうな血。
それが服を濡らしていく。
影たちは、まず服を剥いだ。
血に濡れた服を、何のためらいもなく剥いだ。
傷口を広げるようにして。
そして、自分の体へ巻いた。
男は動かない。
もう、動かなかった。
別の影が近づく。
男の足を掴む。
そのまま、岩陰へ引きずっていった。
ずる。
ずる。
音が長く続いた。
私は見ていた。
怖いとは思わなかった。
ここでは、それが当たり前だったからだ。
◆◇
私は覚えた。
音だ。
音で分かる。
勢いよく開く音は、肉。
死んだばかりの人。
死んだばかりの魔物。
大人たちが一斉に動くもの。
ゆっくり軋む音は、新しい人。
まだ動く人。
まだ何も分かっていない人。
音が違う。
だから分かる。
分かれば、先に隠れられる。
私はその形を覚えた。
勢いよく開く音は、肉。
ゆっくり軋む音は、新しい人。
それが、この底での知識だった。
◆◇
その日の後だった。
左の耳に声が届いた。
岩二つ分ほど離れた場所からだ。
「半刻、過ぎたな」
「過ぎた」
「動かないか」
「動かない」
低い声だった。
聞き慣れた声。
最初に見た二人だ。
片足の男と、腕のない男。
二人が話していた。
「新しいやつが、まだいる」
「どこだ」
「あっちだ」
あっち。
その方向は、私だった。
私は息を止める。
止めた息の上に、別の声が落ちてきた。
「いや」
「あれはもう駄目だ」
「なぜだ」
「三日だ」
「気付いたら死体の中にいた」
「気力が湧かなかったんだろう」
「半刻が過ぎたな」
駄目。
その音を聞いた。
その音は、私を指していた。
指された私の中で、何かが動く。
小さい。
本当に小さい。
でも、確かに動いた。
否。
その形だった。
駄目だという音が、私を指した。
指された奥で、何かが否と言った。
◆◇
しばらく沈黙が続いた。
やがて、もう一人が口を開く。
「ここは王宮の地下らしい」
「らしい?」
「ああ」
「俺もそう聞いた」
「だが、誰も上は見たことがない」
王宮。
その音を聞いた瞬間だった。
私の胸の奥が、小さく動く。
知っている。
知らない。
知っているのに、思い出せない。
夢の中。
光。
銀の食器。
長い卓。
林檎。
二段の笑み。
レン様。
その音たちが浮かぶ。
でも、繋がらない。
王宮。
地下。
光。
林檎。
二段の笑み。
全部、別々だった。
別々のまま、そこに置かれている。
◆◇
私は目を閉じた。
夢の光を思い出す。
あの場所。
暖かかった場所。
怖いもののなかった場所。
その真下に、私はいるらしい。
上と下。
近い。
なのに、遠い。
どうしても繋がらない。
王宮の、地下。
あの光の真下に、私はいる。
二段の笑み。
銀のナイフ。
林檎の渦。
王宮の地下。
私はそれらを、別々に置いた。
別々に置かれたものを、動かさなかった。
動かせなかった。
まだ繋がらないからだ。
繋がらないまま、腹が鳴る。
もう痛くはなかった。
痛くないことが、よくないことなのだと。
私の体だけが知っていた。
その奥で。
否。
その形だけが、まだ残っている。
残ってはいたが。
私は、まだ動けなかった。




