第14話「林檎を剥く女」
甘いものには、それを剥く手がある。
剥く手は、ゆっくりだ。
ゆっくりとした手は、急がない。
急がない手の中で、果実はするするとほどけていく。
ほどけた皮が、長い渦を作る。
その渦の中に何があるのか。
三歳の私は、まだ知らなかった。
知らなかったから。
私はただ、その手を見ていた。
ただ、見ていた。
見ていたこと。
それが、わたしの罪だった。
◆◇
同じ夢が、何度も来た。
来るたびに、夢は少しずつ先まで見えるようになった。
いつもは二段の笑みで千切れていた夢が、その夜は千切れなかった。
千切れない夢の中に、長い卓があった。
磨かれた木の卓。
その上に、灯りが置かれている。
灯りは揺れない。
窓が閉じられているのだろう。
風のない部屋だった。
その灯りの傍に、女がいた。
白い指。
細い手首。
長い睫毛。
女は銀のナイフを握っていた。
もう一方の手には、林檎。
赤い林檎だった。
女はその林檎を剥いている。
ゆっくり。
急がずに。
皮は、絹みたいに薄く剥かれていく。
くるり。
くるり。
長い皮が、渦になる。
その渦は、女の指から垂れていた。
長い。
とても長い。
卓の縁を越えそうなくらい長い。
私は、その渦を見ていた。
見ているうちに、喉が鳴った。
こくり。
小さな音だった。
夢の中なのに、甘い匂いがした。
林檎の匂い。
蜜の匂い。
果実の匂い。
でも、その甘さの奥に、別の匂いがあった。
苦い匂い。
杏の種に似た匂い。
甘さの下に隠れた匂い。
三歳の私は、その匂いを知らない。
知らないまま、鼻の奥だけが、ちりりと痛んだ。
女は笑っていた。
唇の端が上がる。
一段。
そして、もう一段。
二段の笑み。
私はその笑みを知っていた。
知っているはずだった。
どこで。
いつ。
思い出そうとした瞬間、女の手が止まった。
ぴたりと。
完全に。
止まった。
その手の中で、林檎がことりと傾く。
白い果肉が、灯りを向いた。
つやり。
果肉が光る。
女は、その果肉へナイフを当てた。
薄く削ぐ。
一片。
また一片。
削いだ果肉を、銀の皿へ載せる。
白い果肉。
銀の皿。
揺れない灯り。
女はその皿を持ち上げた。
私の方へ差し出す。
差し出された皿の向こうで、女がもう一度笑った。
二段の笑み。
声は聞こえない。
でも、唇だけが動いた。
お食べ。
たしかに、そう見えた。
その時だった。
私の中で、何かが囁いた。
食べてはいけない。
誰かの声ではない。
誰にも教えられていない。
最初から、私の中にあった音だ。
私は、その音を信じた。
信じた。
信じたのに。
私の手は動いていた。
皿へ伸びる。
止まらない。
指先が近づく。
銀の皿。
白い果肉。
女の笑み。
食べてはいけない。
そう言われているのに、手は伸びる。
指が皿に触れた。
その瞬間。
喉が焼けた。
◆◇
私は咳き込んだ。
夢から引き剥がされるように、岩の底で咳をした。
何度も。
何度も。
でも、何も出てこない。
喉だけが焼けている。
焼けた喉の奥に、感触が残っていた。
冷たい。
硬い。
薄い。
銀色の何か。
夢の中のナイフに似ていた。
私は喉を押さえた。
夢は終わっていた。
続きはない。
その先もない。
あの皿の果肉を、私は食べたのか。
食べなかったのか。
その後に何があったのか。
私は知らない。
夢はそこまでしか見せてくれない。
見せてくれないその先に、答えがある。
私はそう思った。
だから、頭の中へ置いた。
消えないように。
忘れないように。
そっと置いた。
あの皿を、私は食べたのか。
夢の千切れた先を、私はまだ持っていない。
◆◇
時間が過ぎた。
どれくらいかは分からない。
ここには暦がない。
空も見えない。
だから数えられない。
数えられないまま、光だけが変わる。
格子の向こうの光。
薄い光。
暗い光。
明るい光。
その濃淡だけが、時間だった。
私はその時間の中で眠った。
起きた。
また眠った。
腹は鳴り続けた。
喉も渇いた。
穴には、草がない。
虫もいない。
食べ物は落ちてくる時しかない。
でも、水は違った。
私は岩へ頬を押しつけた。
冷たい。
その冷たさの中に、水があった。
ぽたり。
一滴。
また一滴。
ぽたり。
私は舌を伸ばした。
滴を受ける。
岩の味がした。
苦い。
少し、鉄に似ている。
美味しくはない。
でも、飲める。
私は何度も舐めた。
一滴。
また一滴。
飲んでいるうちに、気づいた。
いつも同じ場所だ。
水は、いつも同じ場所へ落ちる。
私は覚えた。
その場所を。
覚えれば、また来られる。
戻って来られる。
ここには何もない。
何もないと思っていた。
けれど、この場所だけはある。
私はその場所を見つめた。
見つめながら、頭の中で形にする。
ひとつ。
ひとつだけ。
戻れる場所。
滴の落ちる場所を、私は覚えた。
岩の底に。
私の場所が、ひとつできた。




