第19話「初陣」
戦は、私の想像していたものと、何もかもちがった。
◆
夜明け前に、隊は、動き出した。
霧の中を、息を殺して、進む。前の者の背だけを見て、足を運ぶ。誰も、口をきかない。鎧の擦れる音と、自分の心の臓の音だけがやけに大きく聞こえた。ヨナスの息が、すぐ後ろで浅く速くなっていた。
やがて、霧が、晴れてきた。
その向こうに、敵がいた。草の海の民が。
遠かった。だが、確かに、いた。低い、馬上の影。風になびく、いくつもの旗。その数の多さに、私はまず息を呑んだ。報せで聞いていたより、ずっと、多い。
戦が、始まった。
最初に来たのは、矢だった。
◆
空が、黒くなった。
敵の騎馬から、雨のように、矢が降ってきた。馬を駆けさせながら、振り向きざまに射る。その速さと、正確さが、尋常ではなかった。前の隊で、何人も、声もなく倒れた。盾を構える間も、なかった。
矢が、すぐ耳のわきを唸って抜けた。
風を切る、低い音。その音が、空のあちこちで、鳴っていた。隣を歩いていた兵が、ふいにつんのめるように倒れた。喉に、矢が、生えていた。声も、上げなかった。さっきまで、震える手で水を飲みすぎるなと言われていたミヒャエルのすぐ前の男だった。私は、ミヒャエルの襟を後ろから掴んで地に引き倒した。次の矢が、いまミヒャエルの頭があった場所を、抜けていった。
「伏せろ」と、私は怒鳴った。「立つな。立てば、当たる」
戦というより、嵐だった。
剣を、振る相手すら、いない。ただ、空から降る死を岩陰と、低い姿勢でやり過ごすしかない。私の剣は、鞘の中で何の役にも、立たなかった。手合わせの強さなど、この矢の雨の前では何の意味も、なかった。
「盾を、上げろ」と、私は叫んだ。「固まるな。固まれば、的になる」
私は、十人を、散らした。一か所に固まれば、まとめて射られる。商隊が、野盗の矢を避ける時と、同じだ。散って、低く、岩や窪みを使う。私の十人は、よく、聞いた。手合わせを見て、私を、信じ始めていたからだ。
だが、敵は矢だけではなかった。
矢で、こちらを崩しておいて今度は馬で突っ込んでくる。かと思えば、ぶつかる寸前でさっと、退く。追えば、横から別の一団が襲ってくる。退くと見せて、誘い込む。誘い込んで、囲む。
戦い方そのものが、こちらとはまるでちがった。
正面からぶつかって、力で押し合う。私たちの軍は、そういう戦を、するつもりで来ていた。だが、敵はそんな戦をしなかった。捉えどころが、ない。風のように、現れては、消える。重い鎧の騎士団が、翻弄されて崩れたという報せの意味が私にも、ようやく分かった。
敵には、決まった形がなかった。
こちらの軍は、隊列を組み足並みを揃えて進む。号令ひとつで、まとまって、動く。それが、強さのはずだった。だが、その揃った隊列こそが敵のいい的だった。固まっていれば、矢がまとめて当たる。動きが、重ければ軽い馬にいいように回り込まれる。
私は、商隊の頃を、思い出していた。
野盗に襲われた時、いちばん危ういのは固まった荷駄だった。固まれば、守りやすい、と人は思う。だが、固まりは逃げ場を失う。だから私は、いつも、隊を散らした。散って、低く地形を使う。いま、私が十人にさせていることはそれと、同じだった。
軍の戦い方では、この敵には、勝てない。
頭の隅で、私は、そう判定していた。だが、その判定を上に言ったところで通らない。受け持ちの外の、新参の女の言葉など誰も、聞かない。私にできるのは、せめて自分の十人だけでも、軍の流儀ではなく商隊の流儀で動かすことだけだった。
やがて、敵の馬が、間近に迫った。
ここまで来れば、矢ではなく、剣だった。私は、はじめて本身を抜いた。馬上から斬りかかってくる敵の、その剣筋を読んだ。隻腕の体を、馬の死角へ滑り込ませる。三本指の右手が、下から、敵の脇を断った。馬上の体が傾いて、落ちた。
一人。
だが、それだけだった。一人斬ったところで、戦の流れは、びくともしない。次の馬が、もう来ている。私がどれだけ斬っても、敵の数は、減った気がしなかった。手合わせとは、まるでちがう。あそこには、一対一の終わりがあった。だが、戦場には、終わりがなかった。斬っても、斬っても、次が来る。
◆
私は、必死に退き道を探した。
いつもの癖だ。どこへ退けば、十人を、生かせるか。左手の、浅い谷。あそこなら、馬は、入りにくい。あそこへ退いて、態勢を立て直す。私は、そう、見切った。
だが、命令がそれを塞いだ。
退くな、前へ出ろという命令が降りてきた。私の見た、唯一の退き道へ出るなと。なぜ、と問う暇は、なかった。問うても、理由は、降りてこない。命令は、いつも、骨だけだ。
私は、奥歯を、噛んだ。
退き道が、ある。見えている。なのに、命令がそこを塞ぐ。軍は、退き道を、設計しない。それどころか、見つけた退き道さえ命令で塞いでくる。
私にできたのは、十人をできるだけ固めず低く命令の許す範囲でいちばん安全な場所に置くことだけだった。
それが、初陣の、私の戦いだった。
敵を、斬ることでは、ない。十人を、一人でも多く、死なせないこと。それだけを、考えていた。武勇など、ほとんど出番がなかった。出番のないまま、ただ、矢と、馬と、命令の間で十人を生かそうと、もがいていた。
戦場は、剣の腕で、動くのではない。
手合わせとは、何もかも、ちがった。私は、それを骨身で思い知っていた。
その男は、こちらがいちばん追い詰められた時に現れた。
◆
戦況は、傾きかけていた。
悪い方へ、だ。前へ出ろ、という命令のせいで私たちの隊は敵の馬に横腹を突かれかけていた。退き道は、塞がれている。前にも、横にも、敵。じわじわと、囲まれていく。このままでは、隊ごと、潰される。ヨナスの顔が、白かった。
その時だった。
別働隊が、敵の横合いから、駆け込んできた。
鮮やかな、突き入れ方だった。敵のいちばん薄いところを、的確に、突いた。まるで、敵の動きを先に読んでいたかのように。崩れかけたこちらの戦線が、その一手で息を吹き返した。囲みが、ほどけた。私たちは、救われた。
その別働隊を、率いる男が、いた。
馬上で、剣を振るう、上級士官。その姿を、私は、見た。
◆
脇腹が、疼いた。
天気のせいでは、なかった。雨が、近いわけでもない。だが、確かに、疼いた。古い、毒の矢の跡が。鋭く、深く。まるで、警鐘のように。
私は、その男の顔を見た。
そして、分かった。
あの男だ。
四十年余り。忘れたことなど、一度も、なかった。あの男だ。私の、いちばん大切なものを、奪った男。カラスを刺して、第二の穴へ突き落としたあの男。歳を取っていた。だが、見間違うはずが、ない。あの顔。あの、余裕のある、立ち姿。場の流れを、誰よりも先に読む、あの目。
カラスのことが、胸に、噴き上げた。
タカハシと名乗った、あの奇妙な男。穴の底で死にかけていた私を、生かした男。文字を教え、薬を教え人として生きる道を教えてくれたただ一人の人だった。私の半分は、あの男でできている。そのカラスを、この男が、刺した。庇おうとしたカラスを深く刺し、第二の穴へ、突き落とした。私の見ている、前で。
あの日から、その光景を忘れた夜は、なかった。
憎しみは、薄れもしなかった。むしろ、年を経るごとに、澄んでいった。怒りの熱い部分は、とうに燃え尽きて後には冷たく硬い芯だけが残った。その芯が、いま目の前の男の顔を見て静かに脈打っていた。
ふたたび、私はあの男を見た。
味方として。同じ旗の、下で。
兵たちが、その男を呼ぶ声が聞こえた。ファルディン、と。なるほど、ここではその名で通っているのか、と私は思った。名など、どうでもよかった。あの男が、どんな名で呼ばれていようと、私の知るあの男であることに変わりはない。
◆
私は、能面に、なっていた。
怒りが、頭の天辺まで駆け上がってそれを通り越していた。怒りを通り越すと、私は、静かになる。手が、震えない。頭の芯だけが、氷のように、冴える。いま、私の顔には何も、出ていないはずだった。出してはならない。人前で、崩れるわけには、いかない。
斬ってやりたい、と思った。
いますぐ、馬から引きずり下ろして、カラスの仇を。あの日から、胸の底で燃やし続けた火が音を立てて燃え上がりかけた。
だが、私は、動かなかった。
いまでは、ない。
ここは、戦場だ。命令の下だ。十人を、預かっている。私が、いま私情で動けば十人が死ぬ。それに――あの男との決着は、こんな混乱の中でつけるものではない。あの男には、私が誰かを思い出させてからつけねばならない。それまでは、まだ、時ではない。
商いと、同じだ。
払うべき値が、来るまでは手の内を見せない。じっと、待つ。
あの男は、私の方をちらりと、見た。
隻腕の、年のいった、新参の士官。あの男の目には、そう、映ったはずだ。少しの、値踏み。それだけだった。あの男は、私が誰か、気づかなかった。あの日、自分が穴へ落としたものに繋がる女だとは思いもしない。当たり前だ。あの男にとって、私はその他大勢のひとつの顔でしか、ない。
あの男は、すぐに、私から目を逸らした。
もっと大事なものを見るために。戦場の全体を。どこが勝ち、どこが負けるか。あの男の目は、いつも、そればかりを追っていた。隻腕の新参の士官など、見るに値しない。あの男の、その横顔を私は能面の下から見ていた。
あの日も、そうだった。
あの男は、カラスを刺す時も、たいして私を見なかった。穴へ落とす時も。私は、あの男にとっていつも、風景の一部だった。憎しみだけが、片側から繋がっている。憎まれていることにすら気づかない相手を、私は長い年月、憎み続けてきた。それは、ひどく孤独な憎しみだった。
奇妙な、痛みだった。
憎んでいる相手に、覚えられてすらいない。
それでも、と私は思った。
覚えられていない方が、いまは、いいのかもしれない。
ここで、あの男に、私が誰かを悟られれば。あの男は、勝つ側を見抜くその目で私を危ういと判じるだろう。そして、戦のどさくさに紛れて私をもう一度始末しようとするかもしれない。背中を預け合う、この戦場で。あの男になら、それは、たやすいことだ。
だから、私はただの隻腕の新参でいる。
名のない、その他大勢の、ひとつの顔で。能面の下に、あの日から燃え続ける火を、隠したまま。あの男が、私を思い出す日まで。その日を、私が選ぶまで。商いと、同じだ。手の内は、いちばん高く売れる時まで、見せない。
私は、もう一度、剣を握り直した。
戦が、私を待っていた。憎しみは、後だ。いまは、九人を生かす時だった。
戦の流れは、皮肉なほど私とあの男を近づけた。
◆
敵の囲みを、ほどいた後も、戦は続いていた。
散り散りになった隊が、もう一度敵の波に揉まれた。気づけば、私の隊と、あの男の別働隊が同じ一角で背中を合わせるような形になっていた。
前から、敵。後ろからも、敵。
私が前を、あの男が後ろを。あるいは、その逆を。互いの背を、結果として守る形になった。誰が、そう決めたわけでも、ない。戦の流れが、そう、させた。
宿敵と、肩を並べて、戦っている。
これ以上の、皮肉が、あるだろうか。カラスを刺した男の、背中を私が守っている。その男もまた、私の背中を、守っている。互いに、それと知らずに。いや、知らないのは、あの男だけだ。私は、知っている。知りながら、背中を、預けている。
吐き気が、するほどの、皮肉だった。
だが、私は能面のまま剣を振るった。十人を、生かすために。いまは、それだけだ。
敵が、波のように寄せては引いた。
寄せるたびに、私は、前の敵を断った。引くたびに、息を整えた。背後では、あの男の隊が、同じことをしていた。あの男の剣が風を切る音が、私のすぐ後ろで、聞こえた。確かな、迷いのない音だった。気配だけで、腕の確かさが分かった。
奇妙な一体感が、あった。
言葉も交わさない。顔も合わせない。だが、互いの背の守りを信じて、前の敵に集中できる。それが、共闘というものだった。戦友と呼ぶべき関係。本来なら。
だが、私の背を守っているのは、カラスを刺した男だ。
その事実が、一突きごとに、胸を抉った。憎い男に、命を預けている。その男のおかげで、私の十人が、生きている。憎しみと、ありがたさが同じ胸の中でねじれ合った。こんな戦は、二度と御免だ、と私は思った。
◆
あの男の、戦いぶりは、見事だった。
認めたくは、なかった。だが、見事としか、言いようがなかった。剣の腕も、立つ。だが、それ以上に場を読む目がずば抜けていた。どこが崩れるか。どこを突けば、流れが、変わるか。それを、誰よりも、早く見切る。そして、いつも、いちばん得な場所にいる。
危うい場所には、決して長く留まらない。
流れが悪くなれば、すっと、引く。流れが良くなれば、すっと、出る。損な賭けは、決して、しない。あの男が、勝つ側にいつもいるというのは運ではなかった。勝つ側を、見抜く目が、あるのだ。そして、迷わずそちらへ回る。
一度、味方の一隊が、崩れかけた。
敵に囲まれて、孤立した。助けに行けば、こちらも危うい。見殺しにすれば、その一隊は全滅する。私が迷っている間に、あの男は、もう動いていた。だが、助けに、ではない。あの男は、その崩れかけた一隊を見限って別の勝てる方へ兵を回した。
冷たい、と思った。だが、正しくも、あった。
あの一隊を助けても、勝ち目は薄い。なら、勝てる方へ回る。損得で言えば、あの男の判断は、正しい。だが、その正しさは見殺しにされた一隊の命の上に立っていた。あの男は、その重さを、なんとも思っていないようだった。これが戦だ、とでも言いたげに。
私は、見抜いた。
あの男は、どの旗にも、属していない。
いまは、この旗の下に、いる。だが、それはこの旗が勝つ側だからだ。明日、別の旗が勝つ側になればあの男は迷わずそちらへ回るだろう。今日の味方を、明日平気で捨てる。そういう、男だ。
頼りには、なる。だが、決して背中は預けられない。
いま、背中を預けているのはただ、利が一致しているからだ。同じ敵を、前にしているから。それが、ずれた瞬間あの男は私を捨てる。戦友などでは、ない。たまたま、同じ方を向いた、他人だ。信じては、ならない相手だった。
◆
ブリギッテも、その一角に、いた。
あの誇り高い女騎士は、私の戦いぶりを初めて間近で見た。私が、十人を散らし低く動かし命令の隙間で一人でも多く生かそうと、もがくのを。剣の腕だけではない、その、人を生かす戦い方を。
戦が、ひと区切りついた時。
ブリギッテが、私のすぐ近くにいた。肩で、息を、していた。鎧が、返り血で、汚れていた。あの人は、私を、見た。これまでの、侮りの目では、なかった。
「……あなたの隊は、欠けが、少ない」
ブリギッテは、それだけ、言った。
「この、めちゃくちゃな戦の中で。どうやって」
私は、答えなかった。能面のまま、頭をわずかに下げた。
ブリギッテは、それ以上、何も言わなかった。だが、その目から侮りの色が消えていた。商人あがりの隻腕の女、と私を嗤った、あの色が。代わりに、何か、別のものがあった。認める、ということに、近いものが。
強さを問う相手とは、いつか、強さで答えられる。
あの人に、私は剣で答えたのではない。十人を、生かす戦い方で、答えた。それで、十分だったらしい。誇り高い女騎士は、剣の腕よりその方を重く見たのだ。
味方が、一人、増えた。
いや、味方と言うのは、まだ早い。だが、少なくとも、私を侮らない者が一人増えた。背後の、あの男とは、正反対だった。あの男は、頼りになるが、信じられない。ブリギッテは、まだよく分からないが、嘘のない人だった。誇りで、まっすぐに立っている人。
戦場で、私は、二人の人間を見比べていた。
どの旗にも属さず、勝つ側に回る男と。ひとつの誇りに、まっすぐ立つ女と。同じ戦場に、まるでちがう二人が、いた。たぶん、最後まで生き延びるのは、あの男の方だ。だが、背中を本当に預けられるのは、ブリギッテの方だった。世界は、いつも、そういうふうにできている。生き延びる者と、信じられる者とはめったに同じではない。
戦は、私からいちばん奪ってはならないものを奪った。
◆
敵が、また、退いた。
退いて、見せた。私には、それが罠だと、分かった。これまでの戦い方で、もう、読めていた。退くと見せて、追わせて、囲む。誘いだ。
「追うな」と、私は、十人に、叫んだ。「これは、誘いだ。追えば、囲まれる。留まれ」
私の十人は、留まった。
だが、ほかの隊は、追った。退いていく敵を、好機と見て勢いよく追った。勝ちを、拾えると、思ったのだろう。長い苦戦の、後だった。誰もが、勝ちに、飢えていた。
その追った隊の中に――命令が、あった。
私の隊にも、追撃に加われと。
またか、と私は思った。骨だけの命令が、私の見切りを、塞ぐ。罠だと、分かっているのに。だが、命令だ。逆らえば、十人ごと、罰せられる。
私は、迷った。一瞬。
命令に従えば、罠に入る。従わなければ、十人が罰せられる。どちらを選んでも、誰かが危うい。商いなら、損の少ない方を選べばいい。だが、これは、命の天秤だった。数えても、答えの出ない天秤だった。
私は、従うことを選んだ。
ただし、いちばん後ろにつけた。追撃のしんがりに。先頭で罠に飛び込むより、後ろにいれば囲みが閉じる前に十人を引き返させられるかもしれない。わずかな望みだった。命令には従う。だが、従い方は、私が決める。第二章で、退却の時にそうしたように。
だが、敵の罠は私のわずかな望みより速かった。
◆
そして、罠は、閉じた。
追った隊が、敵の中ほどまで、進んだその時。両脇の、見えていなかった窪みから敵の伏兵が湧いて出た。退いていた敵も、反転した。三方から、いっぺんに。読めていた通りの、囲みだった。
戦線が、崩れた。
あちこちで、悲鳴が上がった。
追撃に出た隊が、三方から射すくめられ、馬に踏み散らされていく。逃げ場のない囲みだった。罠だと、分かっていた囲みだった。だが、分かっていても、命令で入らされた。私は、しんがりから、必死に十人を引き返させようとした。下がれ、来た道を戻れ、と。
だが、その来た道も、もう敵に塞がれていた。
退き道のない兵は、追い詰められれば、ただ死ぬ。第二章で、私が判定した通りだった。判定していたのに、防げなかった。命令が、退き道を塞いだ。私の見切りは、いつも、命令に一歩遅れて潰される。
私は、必死に十人をまとめた。固まるな、散れ低く動け私の声を聞け。叫びながら、私は迫る敵を斬った。隻腕の体を、滑り込ませ三本指の右手で断つ。一人、また一人。こういう、目の前の一対一でなら私の手はまだ冴える。
だが、それは目の前の一人だけだ。
私の手が、届くのは私の剣の長さの内側だけだった。その外で、何が起きているかまでは、斬れない。戦場は、私の剣よりずっと、広かった。
ヨナスは、私の剣の長さの外にいた。
◆
名を、呼ばれた気が、した。
振り向いた時には、もう、遅かった。
ヨナスが、馬上の敵に討たれるのが見えた。少年の、細い体が地に崩れるのが。私は、駆けた。間に、いた敵を断ち断ち断って駆けた。ヨナスを討った敵を、馬から引きずり下ろし斬った。だが、それが、何になる。
私は、ヨナスを、抱き起こした。
まだ、息が、あった。だが、長くないことはひと目で分かった。十五年、人の生き死にを、見てきた目だ。分かりたくなくても、分かってしまう。
「隊長」と、ヨナスが、言った。かすれた、小さな声で。
「おれ……ちゃんと、留まりました、か。追わずに……」
「ああ」と、私は言った。「留まった。お前は、命令で、追わされただけだ。お前のせいでは、ない」
ヨナスは、安心したように少しだけ笑った。
「腹、減ったな」と、ヨナスは、言った。「帰ったら……腹いっぱい……」
その先は、なかった。
少年の体から、力が、抜けた。手の震えは、もう、止まっていた。今度こそ、永遠に。私の腕の中で、ヨナスはただの重みになった。
周りの音が、遠のいた。
まだ、戦は続いていた。矢が飛び、人が叫び、馬が嘶いていた。だが、その音が急に薄い膜の向こう側へ行ったように遠く聞こえた。私の腕の中の重みだけが、やけにはっきりと、確かだった。
ついさっきまで、この重みは、言葉を話していた。
腹が減った、と。帰ったら腹いっぱい、と。震えの止まった手で、剣を握っていた。しんがりに残りたいと言った。私が、だめだと止めた。止めたのに。前を固めろと言ったのに。前にいて、討たれた。後ろにいた方が、生きたのか。分からない。どちらにいても、死んだのかもしれない。その、分からないことが、いちばんこたえた。
◆
守れなかった。
あれだけ、生かそうとした。腹を満たし、剣を研がせしんがりから遠ざけた。崖から、遠ざけようと、した。だが、届かなかった。
万能の救済者では、ない。
私が、抱えて運べるのは荷台のそのぶんだけだ。荷台に、乗りきらなかった命は、こぼれていく。商人の頃から、知っていたことだ。知っていて、なおこうしてこたえる。
救えぬ者は、いる。
その、いちばん最初の一人が、ヨナスだった。よりによって、ヨナスだった。
私は、泣かなかった。泣けなかった、というのが、正しい。
◆
ヨナスを、抱えたまま私は戦場にいた。
戦は、まだ、終わっていなかった。崩れた戦線を、立て直さねば、ならなかった。残りの九人を、生かさねば、ならなかった。泣いている暇は、なかった。私は、ヨナスの体を安全な窪みへ移した。そっと。まるで、眠らせるように。
そして、また、剣を握った。
能面のまま。顔には、何も、出さずに。
残りの九人は、私の顔を、見ていた。隊長が、崩れれば隊が崩れる。私が、能面でいることが九人をつなぎとめていた。だから、崩れるわけには、いかなかった。胸の底が、どれだけ、焼けていても。
怒りでも、悲しみでも、なかった。
もっと、底の方の、何かだった。冷たく、重い、何か。それが、胸の底に沈んで私を能面のまま動かしていた。
九人は、誰も、ヨナスのことに触れなかった。
触れれば、自分も崩れると、知っていたからだ。みな、私の能面を真似ていた。顔に何も出さずに、ただ、命じられたことをこなした。怖さも、悲しみも、奥へ押し込めて。新参の少年だったヨナスが、わずか数日でこの九人にも仲間になっていたことがその沈黙で分かった。
私は、その沈黙を守った。
いま、誰かが泣き出せば、隊は崩れる。崩れれば、次の一人が死ぬ。だから、私は、誰にも泣くことを許さなかった。自分にも。泣くのは、後だ。生きて、この戦を抜けてから。一人になって、誰の目もない夜に。
フランツが、私のそばに来た。
あの、口数の多い、年かさの兵だ。今は、何も喋らなかった。ただ、私の隣に、黙って座った。しばらくして、ぽつりと言った。
「隊長。あんたは、泣かないんですか」
「泣くさ」と、私は答えた。「だが、いまでは、ない」
フランツは、それきり黙った。だが、その夜、フランツも泣かなかった。私の能面が、九人に移っていた。崩れずに、いる。それが、いまの、私たちの戦い方だった。悲しみを後回しにして、まず生き延びる。生き延びてから、悲しむ。順番をまちがえれば、悲しむ前に、死ぬ。
◆
武勇は、人を、救わない。
戦いながら、私はそれを思い知っていた。
私の剣は、よく、斬れる。目の前の敵なら、一対一ならまだ誰にも、負けない。手合わせで、古参を、黙らせたように。だが、その強さはヨナスを救えなかった。
戦場は、剣の長さで、できていない。
数。命令。地形。罠。そういうものが、人を、殺す。私の剣が、どれだけ冴えても、骨だけの命令がヨナスを罠へ追い込んだ。私は、その命令を、止められなかった。一兵卒より、少しましな下級士官にすぎないからだ。
手合わせの強さと、戦場とは、ちがう。
第十八話で、私は自分にそう言い聞かせた。混同するな、と。混同した者から、死ぬ、と。だが、頭で分かっていることと、目の前でヨナスを失うこととはまるでちがった。分かっていて、なお、救えなかった。それが、いちばん、こたえた。
いくら強くても、一人では戦争を動かせない。
動かせないものの中で、人は、死ぬ。私の、すぐ目の前で。私の剣の、すぐ外で。
強くなって、何になる。
私は、剣の腕では、誰にも負けない。長く生きるために、強くなった。奪われないために。守るために。だが、その強さはいちばん守りたかった一人を救えなかった。
カラスを、思った。
あのカラスも、医術の腕では、誰にも負けなかった。人を、何人も生かした。だが、自分の身ひとつは、守れなかった。あの男に、刺された。腕があっても、救えないものはある。守れない命はある。私は、それをカラスの死で一度学んだはずだった。
なのに、また、同じことを思い知らされた。
今度は、ヨナスの死で。学びは、いつも、誰かの死の上に立っている。その重さに、私は能面のまま耐えていた。
◆
夕暮れに、ようやく戦が退いた。
勝った、とも、負けたとも、言えない終わり方だった。敵も、退いた。こちらも、退いた。ただ、両軍におびただしい数の死体だけが残った。
私は、残りの九人を、数えた。
九人。欠けたのは、ヨナス、一人。
ほかの隊に比べれば、欠けは、少なかった。ブリギッテが、認めたほど。だが、その「少ない」の中にヨナスがいた。数の上では、九分の、欠け。だが、私にとってはひとつの世界だった。腹を減らした少年の、震える手のひとつの命だった。
数えの目は、こういう時、残酷だった。
ヨナスを、ただのひとつの欠けとして勘定に入れてしまう。入れたくないのに。入れなければ、九人を、生かせない。私は、能面のままヨナスを勘定に入れた。そして、すぐに頭の奥へしまった。あとで、一人になってからもう一度取り出すために。





