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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第七編「旗は誰のものか」

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第18話「手合わせ」

 

 初陣が、近かった。


 ◆


 前線へ着いて、数日が過ぎた。

 空気が、変わっていた。これまでの行軍の、けだるい疲れとはちがう。張りつめた、固い空気だった。誰もが、口数を減らした。すぐ先に、敵がいる。草の海の民が。砦を落とし、騎士団を砕いた、あの読めない敵が。

 私の十人も、固くなっていた。

 ヨナスの手が、また、震え始めていた。せっかく止まっていた震えが、初陣を前にして、戻ってきた。私は、それを見ても、責めなかった。震えるのが、当たり前だ。震えない者の方が、よほど危うい。震えを知らない者は、いざという時、何をしでかすか分からない。

「腹は、減っていないか」と、私はヨナスに聞いた。

 ヨナスは、力なく笑った。

「こんな時に、よく、飯のことが言えますね」

「こんな時だからだ」と、私は言った。「腹の減った兵から、先に死ぬ。怖い時こそ、食え。食って、寝ろ。それが、いちばんの備えだ」


 ヨナスだけでは、なかった。

 九人とも、それぞれの怖がり方を、していた。年かさのフランツは、やたらと口数が多くなった。喋っていないと、怖さに呑まれるのだろう。逆に、寡黙なルッツは、いっそう黙り込んだ。岩のように固まって、一点を見つめていた。若いミヒャエルは、何度も厠へ立った。怖いと、腹がゆるむ。それも、戦の前の、体のよくある反応だった。

 私は、その一人ずつを、見て回った。

 顔と名を覚えているから、それぞれの怖がり方も、見える。フランツには、無理に黙れとは言わなかった。ルッツには、肩に手を置いた。ミヒャエルには、水を飲みすぎるな、とだけ言った。怖がるのを止めることは、できない。だが、怖がったまま生きて動く道なら、示せる。

 その夜、私は、自分の備えも確かめた。

 研いだ剣の、刃の通り。革帯の、緩み。左の袖の、結び目。何度も確かめた。それから、天幕を抜け出して明日の戦場になるであろうあたりの地形を目でなぞった。月明かりの中で。どこに低い谷があるか。どこに岩陰があるか。どこへ退けるか。

 退き道を、先に見ておく。

 カラスの癖だった。飛び込む前に、いつも逃げ道を確かめる。その慎重さで、あの男は長く生き延びた。私も、それに倣ってきた。明日、その退き道が命令に塞がれるとも知らずに私は月明かりの地形を目に焼きつけた。


 ◆


 その日の昼、古参のひとりが、私に絡んできた。

 こそこそ虐めの、実行役のひとりだった。表立っては来ない連中が、初陣を前にしてめずらしく表に出てきた。死ぬかもしれない戦の前で、気が、立っていたのだろう。

「なあ、隊長どの」

 その男は、わざと、皆に聞こえる声で言った。

「初陣の前に、ひとつ、手合わせ願えませんかね。あんたの腕を、見ておきたい。隻腕で、おれたちの隊長が務まるのか。命を、預ける身としては、気になりまして」

 周りの兵が、にやにやと、こちらを見た。

 古参の狙いは、分かっていた。手合わせにかこつけて、私を皆の前で打ち負かす。隻腕の年寄りなど、ひと突きだ、と。そうやって、私の隊長としての顔を、潰す。初陣の前に。

 断れば、逃げたと言われる。受ければ、負けるところを見せられる。向こうは、そう踏んでいた。

 私は、能面のまま木剣を手に取った。

 受けて、勝てばいい。それだけのことだ。


 ◆


 手合わせは、すぐ、終わった。

 古参は、勢いよく、打ち込んできた。上段から、まっすぐに。力のこもった、悪くない一撃だった。だが、遅かった。振りかぶった時に、もう来る場所が見えていた。

 私は、半歩、踏み込んだ。

 相手の剣が、振り下ろされるより、わずかに早く。隻腕の体を、内側へ滑り込ませる。三本指の右手で握った木剣が、相手の手首を、下から弾いた。乾いた音がして、古参の木剣が、宙を舞った。次の瞬間、私の切っ先は男の喉の前で止まっていた。

 ひと呼吸の、出来事だった。

 古参は、何が起きたか、分からない顔で立ち尽くしていた。喉の前の木剣を、呆然と、見ていた。周りの兵の、にやにや笑いが、消えていた。

 私は、木剣を、引いた。

「気は、済んだか」と、私は言った。それだけだった。勝ち誇りも、しなかった。

 古参は、顔を真っ赤にして何も言えずに引き下がった。それきり、その男は、私に絡んでこなくなった。強さを見せれば、こういう手合いは、黙る。六十年、そうしてきた。


 見ていた兵たちの、目も、変わった。

 隻腕の婆さんが隊長か、という目から。この人は、本当にできる人かもしれないという目へ。私の九人は、いっそう、背筋を伸ばした。自分たちの隊長が、古参をひと息で黙らせたことが誇らしかったらしい。怖さの中に、わずかな頼もしさが混じった。

 それは、悪いことでは、なかった。

 兵は、隊長を信じられねば、戦えない。信じられる相手のためなら、人はもう一歩踏ん張れる。手合わせのひと太刀は、私の腕を見せただけでなく九人の心の支えにも、なった。それが、私の狙いの半分でも、あった。


 ◆


 だが、私は、浮かれなかった。

 これは、個人の場だ。一対一の、手合わせの場だ。剣の腕が、そのまま、ものを言う場。こういう場でなら、私はまだ誰にも負けない。隻腕でも、三本指でも。

 しかし、戦場は、ちがう。

 戦場では、剣の腕は、ほんの一部でしかない。数。地形。命令。補給。そういうものが、剣よりずっと大きくものを言う。一人がどれだけ強くても、戦そのものは、動かせない。手合わせで古参を黙らせたからといって、戦場で私が無双できるわけではない。

 それを、混同してはいけない。

 混同した者から、死ぬ。自分は強い、と思い込んだ者から。

 明日、私はその戦場へ出る。十人を連れて。手合わせの強さなど、何の足しにもならない場所へ。私は、木剣を置いて本身の剣をもう一度研ぎ直した。三本の指で、丁寧に。明日のために。生きて帰るために。


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