第17話「退却」
その命令が来たのは、あと一押しで勝てるというまさにその時だった。
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戦況は、こちらに、傾いていた。
数日の、押し合いの末敵の草の海の民の一隊がじりじりと、退き始めていた。
地の利は、こちらに、あった。糧秣も、まだ、保っていた。兵の気も、上がっていた。あと一押しすれば、この戦線はこちら側のものになるところだった。
私の数えの目にも、それは、見えていた。
兵の疲れ。敵の崩れ。残りの矢の数。退いていく敵の、足の運び。すべてが、あと一歩で勝てると、告げていた。こういう時の数えは、めったに、外れない。
兵たちの顔にも、久しぶりに生気が戻っていた。
勝てる。生きて、帰れる。そういう顔だった。ヨナスも、剣を握り直して前を見ていた。あの少年の目から、あの震えはもう消えていた。私は、それを横目で見て少し安堵した。
その時、伝令が土埃を上げて駆け込んできた。
命令だった。
全軍、退却。
戦線を、引け、と。
◆
兵たちが、ざわついた。
「なぜだ。勝ってるんだぞ」
「あと、少しじゃねえか」
「冗談だろう。ここで、退くのか」
誰もが、わけが、分からなかった。
勝ちかけている場で、退け、という。私の隊だけでは、なかった。隣の隊も、その隣も、同じ命令を受けてざわついていた。前へ出かけた足を、宙で止められた者たちの戸惑い。せっかく上がった気が、行き場を失ってざわめきに変わっていく。
なぜ、と、誰もが思った。
だが、理由は、降りてこなかった。
伝令は、命令だけを置いてまた、別の隊へ駆けていった。理由は、伝令も、知らなかった。命令は、いくつもの手を通っていちばん上から降りてくる。降りてくる間に、理由は削ぎ落とされ私たちの場所に届く頃にはもう骨だけになっている。
退け。
その、骨だけの言葉だけが戦場に響いていた。
私は、空を、見た。
勝ちかけた、戦線。退いていく、敵の背中。あと、一歩。その一歩を、骨だけの命令が、奪っていく。
なぜ、と私も、思った。
もしかすると、あの帳簿の奥の手と、関わりがあるのかもしれない。
戦が、まだ終わってほしくない誰かがいるのかもしれない。勝ってしまっては、困る、誰かが。勝ちかけた戦線を、わざと、退かせて戦を長引かせたい手が。戦が続く分だけ、儲かる手が。
根拠は、なかった。ただ、あの寒い予感がまた、背筋を撫でた。脇腹の、古い傷までかすかに疼いた気がした。
◆
だが、私には退く以外の道はなかった。
軍人だからだ。
命令は、上から、降りてくる。理由は、説明されない。問うことは、許されない。ただ、従う。それが、軍の、決まりだった。逆らえば、私だけでなく私の十人まで罰せられる。ヨナスまで。だから、私は従うしか、なかった。
私は、隊を、振り返った。
「退くぞ」と、私は言った。
声は、低かった。能面のまま、私は、言った。
「勝ちかけているのは、分かっている。だが、命令だ。退き際は、私が、決める。一人も、欠けさせるな。来た道を、整えながら、退く。慌てるな。慌てた退きが、いちばん、死ぬ」
兵たちは、不服そうな顔を、した。だが、従った。
退却は、勝ち戦よりも、難しい。
背を向けて退く時、人はいちばん死にやすい。前を向いて戦うより、ずっと。だから、私は隊を二手に分けた。半分が退く間、半分が踏みとどまって敵の目を引く。引いた半分が、次に退く。そうやって、交互に少しずつ下がる。荷を運んだ頃、野盗に追われて何度も、やった退き方だった。
ヨナスが、しんがりに、残りたがった。
「おれが、最後に、残ります」
「だめだ」と、私は言った。
「しんがりは、いちばん、死ぬ。お前には、まだ、早い。前を、固めろ」
ヨナスは、不服そうだったが、従った。しんがりは、私が、引き受けた。隻腕でも、三本指でも、退き際の見極めだけは誰にも負けない。いつ、足を止めいつ駆けるか。その呼吸を、私は六十年で体に覚えこませていた。
敵は、少しだけ、追ってきた。退く味方を、仕留めようと。だが、こちらが整然と、交互に下がるのを見て深追いはしなかった。無理に追えば、踏みとどまった半分に横を突かれる。敵も、それを、知っていた。草の海の民は、引き際を心得た、戦の玄人だった。
私の隊は、一人も、欠けずに退き切った。
勝てる場を、捨てさせられた。それでも、せめて誰も、死なせなかった。それだけが、骨だけの命令の中で私にできたことだった。
退きながら、私は、思った。
退くこと、それ自体は、いい。退き際を知るのは、生きる術だ。逃げ道のある兵は、また、戻ってこられる。問題は、退くことではない。理由を、知らされずに、退くことだ。骨だけの命令で、生き死にの場を勝手に動かされることだ。
なぜ、という問いを私は呑み込んだ。
呑み込んだ問いは、消えなかった。胸の底に、小さな固い石のように残った。ひとつ、また、ひとつ。こうして、呑み込んだ問いの石が私の胸の底に溜まっていく。
いつか、この問いの答えのある場所まで行ってやると、私は思った。
誰が、この戦を、動かしているのか。誰が、骨だけの命令をいちばん上で出しているのか。誰が、得を、しているのか。
だが、それは今ではない。
今は、ただ、骨だけの命令に従う時だった。隊を、欠けさせずヨナスを生きて連れて退く時だった。問いは、胸の底に、しまっておく時だった。
私は、来た道へ足を向けた。
預かった十人を、連れて。胸の底に、固い問いの石をひとつまた、抱えて。
そして私は、わけも知らされぬまま、命令に、従いに、行く。





