第12話「混じりに行く」
子供の指が動いた。
本当に、わずかだった。
見間違いかと思うほど、糸の先が揺れるくらいの動き。
それでも、俺は見逃さなかった。
見逃すはずがない。
一晩中、その体だけを見続けていたのだから。
俺は壁から体を離した。
静かに近づき、膝をつく。
呼吸を確認する。
脈を確認する。
どちらも続いている。
続いているどころじゃない。
昨日より強い。
確実に、強くなっていた。
俺は眉をひそめた。
やはり異常だ。
異常な回復力。
異常な生命力。
異常な執着。
――まるで、死ぬことを拒絶しているみたいだった。
その時だった。
子供の唇が動く。
かすかに、本当にかすかに。
音にならない音が漏れた。
俺は耳を寄せる。
聞こえない。
もう一度、唇が震える。
何かを言おうとしている。
言葉なのか、それとも呻きなのか、わからない。
だが、生きている人間の反応だった。
死人は言葉を探さない。
生者だけが、言葉を探す。
俺はその事実に少しだけ安堵した。
安堵した自分に気づいて、少し驚いた。
安堵――そんな感情を、俺はまだ持っていたらしい。
子供の額へ手を当てる。
熱がある。
予想通りだった。
感染と戦っている。
体が戦場になっているから熱が出る。
医学的には正しい、正しい反応だ。
だが、熱のわりに状態が良すぎる。
脈も、呼吸も、強すぎる。
――まるで、何か別の力が後ろから押しているみたいだった。
◆
俺は立ち上がり、棚へ向かう。
蜂蜜を追加する。
水を用意する。
布を洗う。
やることは山ほどあった。
だが、その全部をやりながら、頭の半分は別のことを考えていた。
なぜ生きている。
どうして死なない。
この世界には、俺の知らない何かがあるのか。
魔法、加護、祝福。
そんな単語が浮かぶ。
前世なら笑っていた。
科学的じゃない、証明できない、馬鹿げている、そう切り捨てていただろう。
だが、ここは異世界だ。
俺自身が証明だ。
刺されて死んだ男が、別の世界で生きている。
そんな現象を経験しておいて、魔法だけ否定するのは滑稽だった。
俺は苦笑した。
考えても答えは出ない。
――だから、目の前の仕事へ戻る。
それが医者のやり方だった。
◆
昼になる頃、子供は再び動いた。
今度は指だけじゃない。
肩、首、瞼。
体のあちこちが反応する。
無くなったはずの眼孔さえ、ずきりと疼いたように見えた。
そして、残った片目がゆっくり開いた。
金色だった。
獣みたいな色、強い光を宿した色。
その目が、真っ直ぐ俺を見る。
数秒、見つめ合った。
言葉はない。
俺は話せないし、子供も話せない。
たぶん、言葉が通じない。
それでも、視線だけは通じた気がした。
警戒、恐怖、敵意、そういうものじゃない。
もっと原始的なもの――確認だ。
生きているか。
お前は何者だ。
そう問う目だった。
俺は肩をすくめた。
「さあな」
日本語で答える。
もちろん、通じない。
子供は瞬きをした。
それから、また目を閉じる。
意識が落ちたらしい。
俺は小さく息を吐いた。
生きている。
本当に、生きている。
ここまで来れば、たぶん助かる。
保証はないが、希望はある。
希望――その言葉を思い出したのも久しぶりだった。
◆
夕方、俺は黒い板を取り出した。
白い石を握る。
そして書く。
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一本の縦線。
二年前から残っている、最後の名前の残骸。
ある。
ない。
ジューラが教えた線。
俺はその線を見た。
そして、その隣に、もう一本引いた。
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二本、並んだ線。
ひとつは俺。
もうひとつは、あの子供だ。
俺はしばらく眺めた。
名前は書けない。
まだ知らないからだ。
知らないが、線なら引ける。
生きている証として、そこにある証として、引ける。
俺は二本の線を見た。
見ながら思う。
二年前、俺は人間をやめかけた。
盗賊になった。
死体を漁った。
名前を失った。
それでも、完全には落ちなかったらしい。
もし完全に落ちていたなら、この子を見捨てていた。
街道の脇で、そのまま。
――だから、まだ残っている。
何かが、俺の中に。
医者なのか、人間性なのか、それとも、もっと別の何かか。
わからない。
わからないが、残っている。
残っているから、俺はいまここにいる。
◆
夜になった。
火が揺れる。
子供は眠っている。
俺は板を消した。
二本の線が消える。
消えたが、なくなったわけじゃない。
ある。
まだ、ある。
俺は板を袋へ戻した。
それから、眠る前に、もう一度だけ子供を見た。
灰色の髪。
細い肩。
欠けた腕。
失われた目。
それでも生きる。
その姿は、どこか昔の自分に似ていた。
だからかもしれない。
俺はその夜、二年ぶりに、少しだけ穏やかに眠れた。
(そして、知らなかった)
(この子が、俺の名前をもう一度掘り起こすことになるなんて)
カラスと、灰。
二つの人生が、ここで初めて、混じりに行く。




