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灰のレン  作者: K3


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第3話 後編「医者の魂」(四)


 次は、縫合だった。


 縫合の針を取ろうとした手が、止まる。


 ふと、自分の手を見たからだ。


 その指は、震えていない。


 震えていない指で、俺はこれまでの自分の動作を振り返った。


 ——左手で、傷を開いた。


 ——右手で、黒曜石を握った。


 ——切った。


 ——鉗子に似たもので、組織をつまんだ。


 ——切除した。


 ——破片の有無を確かめた。


 ——両手で、毒を絞り出した。


 ——布で、吸わせた。


 ——布を、交換した。


 ——ワインを、注いだ。


 ——酢を、塗った。


 ——蜂蜜を、詰めた。


 十二。


 十二の動作を、俺はひとりでやっていた。


 ——これは、本来、ひとりでできる仕事ではない。


 前世の手術室を、思い出す。


 そこには、執刀医のほかに四人いた。


 ——第一助手。第二助手。麻酔科医。器械出しの看護師。


 四人が、それぞれ動作を分担する。


 分担して、初めて執刀医はメスを握れる。


 いま、俺はその五人分を、ひとりでやっていた。


 やれていた。


 やれていることに、いま初めて気づいた。






 五人がかりの、外科を。


 俺は、ひとりで、やっていた。






 夢中だったからだ。


 ——なぜ、できるのか。


 問いを、俺は自分に向けた。


 その問いに、すぐには答えられない。


 答えられないが、頭の奥で別の記憶が動いた。


 動いた記憶は、二年前の林の中。


 林の中で、俺は五人の盗賊の首をひねって折った。


 折った時、感触はなかった。


 俺の身体が、常人を超えていたからだ。


 動いた記憶は、もうひとつ。


 目覚めた最初の午後、俺は馬の蹄の跡を見た。


 見た跡から、頭が勝手に分析を出す。


 ——軽装の馬車。一頭立て。通った時間は、半日以内。


 分析は、俺の意志ではない。


 身体が、超えている。


 頭が、超えている。


 超えているふたつが、いま俺の手の中で合わさる。


 その二つが、五人分の外科をひとりにさせていた。


 ——こちらに来てから、感覚も鋭くなっているのかもしれない。


 自分に、答えた。


 答えは、確信ではなく推測。


 推測だが、ほかに説明がつかない。


 受け取り方は、感謝でも怖れでもない。


 事実として、受け取った。


  ◆


 受け取って、しばらく傷の上の清潔な布を見ていた。


 見ながら、俺はふと笑いそうになった。


 自分のいまの姿が、なにかの漫画の登場人物に似ている。


 ——黒い刃で、子供をひとりで救う、無免許の男。


 子供の頃に、俺はその漫画を読んでいた。


 頁の中で、無免許の男はいつもひとりで不可能を可能にする。


 その男に、俺は憧れた。


 憧れて、医者を志す。


 医学部に入って、留年を八年繰り返した。


 八年の果てに、資格を取った。


 取ったが、執刀台の真ん中には、一度も立てなかった。


 立てたのは、いつも誰かの横。


 そこで、俺は手を動かしてきた。


 動かしてきたが、最後の責任を、俺は一度も負わなかった。


 最後の手術で、執刀医が逃げた。


 逃げた執刀医の代わりに、家族へ説明できる医者は、俺しかいない。


 だから俺は、家族の前に立った。


 立って、土下座をした。


 逆らえたのに、逆らわなかった。


 土下座の夜、俺は刺されて死んだ。


 ——前世で、俺はその男になれなかった。


 なれなかった男に、俺はいま、ひとりだけ知っている世界でなっていた。






 前世で、俺はその男に、なれなかった。


 いま、俺は、その男に、なっていた。






 ——皮肉なことだ。


 三度目の皮肉だった。


 一度目は、前世で。


 二度目は、異世界で商人を見捨てた林の中で。


 三度目は、いまここで、ひとりで外科をしている山小屋の中で。


 皮肉に、俺は息を吐いた。


 長く吐いて、俺はほんの一秒だけ笑った。


 笑った口元を、誰も見ていない。


 子が、眠っていたからだ。


 その隣で、俺はひとりで笑った。


 笑える自分が、まだいる。


 それが、二年でいちばんありがたいことだった。


 ——よし。


 口の中で、つぶやいた。


 それから、俺は針に手を伸ばした。


 手の震えは、もうない。


 その手で、針を取る。


 針に、亜麻の糸を通した。


  ◆


 通してから、子の皮膚の縁を左手で寄せた。


 その縁に、針を入れる。


 針が、皮膚を通る。


 通って、反対側の縁に出た。


 出てから、糸を引いた。


 糸が、皮膚を合わせる。


 合わせてから、結んだ。


 結び目は、ふたつ。


 前世の外科の、基本。


 その基本を、俺は二年忘れていなかった。


 縫合を、五針入れた。


 入れてから、糸をナイフの刃でこすって切った。


 剪刀が、なかったからだ。


 なかったが、できた。


 縫い終えた傷の上に、清潔な布を置いた。


 その上から、軽く押さえる。


 押さえながら、額の汗をぬぐった。


 ぬぐったその時、初めて自分が汗をかいていたことに気づいた。


 二年汗をかかなかった俺が、汗をかいている。


 かいた汗を、俺は恥じない。


 その汗が、医者の汗だからだ。


 子は、まだ眠っていた。


 その呼吸は、まだ浅い。


 浅いが、止まっていない。


  ◆◇


 夜が、明けた。


 朝になっても、子はまだ眠っていた。


 その脇腹に、俺が縫った傷。


 傷の周りは、まだ赤い。


 赤いが、毒は抜けた。


 抜けたのが、信じられない。


 俺が抜いたからでは、ない。


 この子の体が、毒を押し戻していた。


 押し戻す力を、俺は医者として知らない。


 知らない力で、この子は生きていた。


 医学では、説明が、つかない。


 この子の、体が、毒を、押し戻して、いた。






 俺が、抜いたのではない。


 この子の体が、毒を、押し戻していた。






 子の顔を、俺は見た。


 顔は、八歳ほど。


 八歳の子供が、ここまで来ていた。


 ——どうやって、来たんだ。


 問いを、声に出した。


 その声は、現地の言葉。


 答えるものは、いない。


 眠った子のまぶたが、わずかに震えた。


 まぶたの下で、目が、開きかけていた。


 その目の奥で、子は何かを見ていた。


 ——この子は、どんな人生を、歩いてきたんだろう。


 左の腕も。右の目も。右手の指も。背中の烙印も。脇腹の毒も。


 全部が、この小さな体に刻まれていた。


 その年月を、俺は知らない。


 知らないが、軽くはない。


 ——この子は、何を夢に見ているのか。


 問いを、もう一度声に出した。


 その声に、子は答えない。


 明けかけた光が、山小屋の隙間から入ってきた。


 その光が、子の顔に当たる。


 光の下で、子の灰色の髪がわずかに揺れた。


 見ながら、棚から黒い板を出した。


 その上で、白い石を握る。


 その石で、書こうとした。


 ——タカハシ。


 書けなかった。


 書けなかったが、止まらない。


 書けないその名前が、いま俺の手を動かしていたからだ。


 動かす手で、別の文字を書いた。


 |


 縦線だった。


 書いた縦線を、俺は消さなかった。


 その縦線が、俺とこの子の脈だったからだ。


 ——ある。


 ジューラの声を、もう一度聞いた。


 その声に、俺は答えた。


 ——ある。


 俺もこの子も、まだある。






 縦線が、あれば、ある。


 俺も、この子も、まだ、ある。






 ある、ことが、いま俺の足を止めていた。


 止まった足の向こうで、町がまだ待っている。


 その町を、俺はもう急がない。


 見守るその朝、俺は黒い板の縦線を消さずに置いた。


 その隣で、子はまだ眠っている。


 子のまぶたの奥で、何かがまた震えた。


 それを、俺は知らない。


 知らないが、見守った。


 混じりに、行く。


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