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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第七編「旗は誰のものか」

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第14話「噂の名」

 

 その名を、私は噂で先に聞いた。


 ◆


 兵というのは、よく、喋る。

 行軍の合間。火を囲む夜。手の空いた、昼下がり。兵たちは、いつも、何かを喋っていた。故郷のこと。飯のこと。死んだ仲間のこと。家に残してきた、女房や子のこと。そして、噂のこと。

 軍は、噂で動いている、と言ってもよかった。

 命令は、理由を言わない。だから、足りない理由を兵たちは噂で埋める。あの将軍は、臆病だ。あの隊は、崩れたらしい。次は、どこへ進むそうだ。そんな噂が、火から火へ隊から隊へと、夜の風のように移っていく。半分は、嘘だ。だが、その半分の嘘の中にときどき本当が混じっている。だから、私は噂を聞き流さなかった。商いでも、噂は、銭になった。

 その噂の中に、ひとつの名がたびたび上った。

 ファルディン、という名だった。


 別働隊を率いる、上級士官だ、という。

 海の向こうの、プリズマという国の、古い貴族の家の出らしい。腕が立つ。読みが、鋭い。どんなに崩れかけた戦況でも、その男が出てくると、なぜかこちら側が勝ちを拾う。

 兵たちは、その名を半ば頼もしげに半ば気味悪げに口にした。

「あの人がいる戦は、負けねえよ」

「だが、どうも、食えねえ男だってな」

「勝つ側に、いっつもいる。まるで、どっちが勝つか、初めから、知ってるみてえに」

 別の兵が、声を、ひそめた。

「おれは、一度、遠くから、あの人を、見たことがある」

「どんな、男だった」

「さあ。顔は、よく覚えてねえ。ただ、笑ってた。戦のさなかに、楽しそうに、笑ってたんだ。あれは、戦が好きな顔じゃねえ。勝つのが好きな顔だ。勝てる方に、賭けて、当てて、笑ってる。そういう、顔だった」

 兵たちは、少し、黙った。

 頼もしいはずの名が、なぜか薄ら寒さも連れてくる。負けない男は、ありがたい。だが、なぜ負けないのかが分からない男はこわい。みなが死ぬ戦場で、一人だけ勝ちを当て続ける。それは、運では、ない。何か、別の、からくりがある。兵たちは、それを口にはしなかった。ただ、火の爆ぜる音だけがしばらく続いた。

 私は、火のそばでその噂を聞くともなく聞いていた。


 ◆


 その時、ふと、脇腹が疼いた。

 古い傷だった。ずっと昔に、毒の矢を、受けた跡。普段は、忘れている。だが、ときどき思い出したように疼く。たいていは、天気が、崩れる前だった。雨が近いと、古い傷は、痛む。体が、空より先に雨を知る。

 今日も、雨が近いのだろう、と私は思った。

 ファルディン、という名は私には何の覚えも、なかった。海の向こうの、貴族の名など私の生きてきた場所とは何の関わりもない。穴の中にも、奴隷の市にも、盗賊にも、商人にも、そんな名の相手はいなかった。

 なのに、なぜか、その名を聞いた時脇腹が疼いた。

 偶然だろう、と私は思った。

 年を取ると、体は、勝手なことをする。痛むべき時でもないのに、痛む。古い傷ほど、そうだ。深く刻まれた傷ほど、忘れた頃にひとりでに痛みを思い出す。体は、頭よりも、長く覚えている。


 私の体には、古い傷が、いくつもある。

 背の烙印。失くした左の腕。潰れた右の目。三本になった、右手の指。そして、脇腹の、毒の矢の跡。どれも、六十年のどこかでもらったものだ。生きてきた年月の、目盛りのようなものだった。

 その中でも、脇腹の毒矢の跡は、深い方だった。

 ずいぶん昔、まだ若かった頃に、もらった傷だ。毒のせいで、危うく、死にかけた。あの時の、体の芯まで冷えていくあの感じだけはいまも、忘れていない。だから、ときどきこうしてひとりでに疼く。深い傷ほど、忘れた頃に痛みを思い出すものだ。

 今日も、ただ、それだけのことだろうと私は思った。


 私は、脇腹を三本の指で軽くさすった。

 そして、その疼きをすぐに忘れた。

 ないものを数えても仕方がないように、来てもいない痛みをいつまでも気にしても、仕方がない。今は、雨が降る前に隊の備えを確かめる方が先だった。濡れて困る荷は、ないか。火を、どう守るか。数えることが、私をいつも、現実に引き戻した。


 ◆


 顔は、見なかった。

 ファルディンという男が、どんな顔を、しているのか。私は、知らなかった。別働隊は、私の隊とは、遠かった。噂だけが、火から火へ私のところまで流れてくる。男の姿は、噂の向こうに、霞んでいた。

 いつか、会うこともあるのだろうかと、ぼんやり思った。

 勝つ側に、いつもいる男。どっちが勝つか、初めから、知っているような男。

 そういう男は、商いの卓にも、いた。場の流れを、誰よりも、先に読む者。読んで、いつも得な側にすっと回る者。そういう者は、頼りに、なる。だが、決して背中は預けられない。流れが変われば、いちばん先にこちらを捨てる側だからだ。どの旗にも、本当には、属さない。属するのは、勝つ旗にだけだ。

 ファルディンも、そういう男かもしれない、と私は思った。

 根拠は、なかった。ただ、噂の匂いがそう告げていた。

 私は、それきりその名を頭の隅に置いた。覚えておく分には、銭はかからない。

 脇腹の疼きも、いつのまにか、消えていた。やはり、雨はその夜降らなかった。降らなかったが、私はなんとなく寝つきが悪かった。

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