第13話「命令だから」
なぜ、と問うてはいけない。それが、軍だった。
◆
ある日、私はどうしても腑に落ちない命令を受けた。
勝てる、小競り合いだった。
地の利は、こちらにあった。敵の、草の海の民の小隊は浅い川の向こうでじりじりと、押されていた。あと少し、ほんの少し押せば、退かせることができた。私の数えの目には、その先がはっきりと、見えていた。敵の疲れ。崩れの兆し。残りの矢の数。すべてが、あと一歩で勝てる、と告げていた。
ところが、降りてきた命令は退けだった。
勝ちかけている場で、退け、と。
なぜ、と私は思った。だが、問わなかった。問えないことは、もう、分かっていた。私は、命令の通りに隊を退かせた。ヨナスたちを、一人も欠けさせずに、退かせた。
退きながら、私は退くこと自体は悪く思わなかった。退き際を知るのは、生きる術だ。逃げ道のある兵は、また、戻ってこられる。負けても、次がある。
分からなかったのは、理由だった。
勝てる場を、なぜ、捨てたのか。その先に、何が、あったのか。命令には、理由が、なかった。いや、理由は、あったのだろう。ただ、それは私の知る場所までは降りてこなかった。
◆
後で、別の隊の者から、聞いた。
私たちが退いた場所は、もっと大きな動きの、ほんの端だったらしい。私たちの、小さな勝ちはその大きな動きの邪魔になるところだった。だから、退かされた。
では、その大きな動きが、何のためだったのか。
それも、誰も、知らなかった。
命令は、いくつもの手を通っていちばん上からいちばん下へと、降りてくる。降りてくる間に、理由は少しずつ削ぎ落とされていく。私のような末端に届く頃には、理由はもう残っていない。残っているのは、命令という、骨だけだった。
退け。進め。守れ。捨てろ。
骨だけの言葉が、上から、降ってくる。
そして、その骨だけの言葉で人が死ぬ。
退いた後、隣の隊の話が、伝わってきた。
あの隊は、退却の命令を受けてついためらったらしい。あと少しで勝てる、という気持ちが足を止めた。退くのが、ほんの半拍遅れた。その半拍の間に、退いていく味方の隙を敵が突いた。隣の隊は、何人かを、失った。
勝ちかけていたのに、退いてしかも、死んだ。
退いていく味方、というのは、私の隊のことでもあった。私の隊が、命令どおり、誰より早く退いたぶんだけ、隣の隊の脇が、空いた。敵は、その空いた脇を、突いた。
私が決めたことではない、と、私は自分に言った。退けと命じたのは、上だ。私は、疑いながら、従っただけだ。
その言葉は、ひどく軽かった。軽いから、口の中で、何度でも言えた。何度言っても、隣の隊の欠けは、埋まらなかった。
命令に従うのが、遅れたから、ではない。命令そのものが、勝てる場を、捨てさせたからだ。だが、軍は、そうは見なかった。退くのが遅れた、あの隊の落ち度だ、と。命令は、いつも、正しい。死んだのは、従い方が、まずかった者だ。そういうことに、なっていた。
ヨナスが、それを聞いて青い顔をしていた。
「……隊長が、すぐ退かせてくれて、よかった」
ヨナスは、小さく、言った。
私は、答えなかった。よかった、とは、思えなかった。私の隊は、欠けなかった。だが、隣の隊は、欠けた。同じ、骨だけの命令の下で。生き死にが、半拍のためらいで決まった。その半拍を責めることが、私には、できなかった。勝てる、と思った気持ちはまちがっていなかったからだ。まちがっていたのは、命令の方だった。
私は、その夜ひとり火のそばで考えた。
商人は、利益で動く。だから、商人は、読める。何が得かを、数えれば相手の次の手が見えてくる。利益は、嘘をつかない。得な方へ、人は流れる。それが、世界の、確かな理だった。
では、軍を動かしているのは、何だ。
利益では、ない。さっきの退却で、はっきりした。勝てる場を、捨てたのだから得で動いているのではない。むしろ、損で、動いている。
軍を動かしているのは、命令だった。
命令が、利益の代わりにすべての理由になっている。なぜ、と問わずにただ、従う。従うことが、軍人の、役目だった。考えることではなく、従うことが。
そして、私はひとつ判定した。
◆
利益で動く者は、損が見えれば、止まる。
損をしてまで、進む者は、いない。だから、利益で動く世界にはどこかに歯止めがある。みなが損を嫌うこと、それ自体が世界の歯止めになっている。どこまでも、際限なくということにはならない。
だが、命令で動く者は、止まらない。
損でも、進む。死んでも、進む。命令が、進めと、言えば。命令には、損という歯止めが、効かない。誰かが、上から「止まれ」と命じない限り軍はどこまでも、進んでいく。たとえ、その先が、崖でも。崖と分かっていても、進む。
世界は、金で回る。それは、商人になって、学んだことだ。
そして、いまもうひとつ学んだ。
世界は、命令で、死ぬ。
歯止めのない命令が、人をいくらでも、前へ走らせる。走らされた者が、崖の下で、死ぬ。それでも、命令は、止まらない。命じた者は、崖の下を、見もしない。数だけを、見ている。減った数をまた足せばいいと、思っている。
寒い、学びだった。
だが、知らずにいるよりはよかった。知れば、せめて自分の十人のぶんだけは崖から遠ざけられる。崖の手前で、足を、止めさせられる。
私は、カラスの読めない帳面を軍服の上からそっと、押さえた。
数えられない世界の理を、私はまた、ひとつ数えてしまった。数えてしまったものは、もう、忘れられない。
だが、と私は思った。
忘れられない、ということは抱えていくということだ。
商人だった頃、私は利益という確かな物差しを持っていた。その物差しで、世界は、測れた。測れるものは、こわくなかった。だが、命令には物差しがない。なぜ、が、ない。なぜのないものは、測れない。測れないものを、私はこれから抱えて進まなければならなかった。
火が、小さく、爆ぜた。
私は、薪を、足さなかった。すぐ近くで、ヨナスたちの寝息が、聞こえていた。その寝息の数だけ、私が崖から遠ざけねばならない命があった。命令は、止まらない。なら、せめて私が止まる場所を見つけるしかない。
それが、軍に来て私が最初に決めたことだった。





