第9話「軍服」
軍服が渡されたのは、最初の前線へ発つ、前の朝だった。
◆
粗末な、麻と革の服だ。
受け取って、手のひらに広げてみた。麻は、ごわついていた。何度も水を通したような、固い手ざわり。革の留めは、すり切れかけている。誰かが前に着ていたものを、回しているのかもしれない。
士官のものは、兵卒のものより、少しだけましだった。胸に、隊の印。ありふれた、量産の服。何百、何千と、同じものが配られている。一人ひとりに合わせて、作られたものではない。体の方を、服に合わせる。それが、軍の服だ。背の高い者にも、低い者にも、同じ型が渡る。合わなければ、合わせる。文句は、聞かれない。
その一着が、私のものになった。
袖を通すと、肩のあたりが、少し余った。痩せた、年寄りの体には、大きすぎた。それでも、着られないことはなかった。
左の袖を、私は結んだ。
腕のない、左の袖だ。だらりと垂れていては、邪魔になる。どこかに引っかければ、命取りにもなる。だから肩の付け根のところで、袖を折り、短く結んだ。三本指の右手で、器用に。布の端を歯で押さえ、指で巻いて、留める。これも、六十年で慣れた所作だった。
袖を結ぶたびに、私はない腕のことを、思い出す。
思い出して、すぐに、忘れる。
ないものを、数えても、仕方がない。あるもので、やるしかない。三本の指で、できることだけを、増やしてきた。六十年、そうしてきた。
◆
着替えて、私はふと、水鏡を覗いた。
天幕の隅に、雨水の溜まった、木の桶があった。前夜の雨が、溜まったものだ。覗き込むと、暗い水面に、ぼんやりと人の影が映った。
揺れる水面に、隻腕の年のいった女が、軍服を着て映っていた。
風が水面を撫でると、その姿が、波立って崩れる。風がやむと、また、ゆっくりと像を結ぶ。崩れては、結ぶ。私の顔が、何度も、水の上で揺れた。
奇妙な眺めだった。
穴に捨てられた、赤子だった。生まれてすぐ、要らないものとして、暗い穴に放り込まれた。
背に烙印を押された、商品だった。番号で呼ばれ、銀で売られた。
盗賊として、奪う側にいた。生きるために、人から奪った。
商人として、回す側に回った。奪う手を、回す手に変えた。
そして、いま。
軍服を着た私が、そこにいる。
奪われる側だった者が。数えられる側だった者が。追われる側だった者が。
いま、その世界の旗の側に、立っている。
長く、見ていた。
水面の自分と、目が合った。左の目だけが、私を見返していた。右の目はない。半分の目で、半分の世界を見てきた。その半分の目に、軍服の自分が、映っている。
可笑しくは、なかった。腹立たしくも、なかった。
ただ、静かに、何かが定まった気がした。胸の底で、重い石がひとつ、すわるべき場所にすわった。そんな感じだった。
私はここに、立つことを選んだ。村を守るために。ミラを守るために。預かった十人を、生きて帰すために。
誰かに命じられたのではない。命令は、断れなかった。それは、たしかだ。だが、どう立つかは、私が決めた。命じられて立つのと、選んで立つのとでは、同じ場所でも足の置き方がちがう。地面への、根の張り方がちがう。
私は、選んで、ここに立つ。
◆
懐に、手をやった。
軍服の下、胸のあたりに、固い感触がある。読めない帳面が、そこにあった。軍服に着替えても、私はそれだけは、肌身から離さなかった。
指で、表紙の革を、そっと押さえた。長く持ち歩いて、角の取れた革だ。私の体温で、ぬくもっている。その温みが、肌に伝わってきた。
これから、向こうの帳面の側に、入る。軍の名簿。命令書。戦争の帳簿。世界の側が、人を数える、あの帳面の内側へ。私の名も、いまやその帳面に、載っている。レン、と。姓のない、一行として。番号を振られ、列に書き込まれた、ひとつの数として。
だが、この読めない帳面だけは、納めない。
これは、世界の数えに収まらない。読めないまま、私のものだ。これを握っている限り、私は数えられる側の心を、忘れずにいられる。番号を振られ、列に並ばされ、桁に畳まれる側の痛みを。旗の内側に立っても、旗に呑まれずにいられる。
そう、信じることにした。信じなければ、立てなかった。
◆◇
水鏡から、顔を上げた。
天幕の垂れ布を、片手でめくる。外の冷たい空気が、頬に触れた。
東の空が、明るくなっていた。夜の色が端から薄れて、藍が白へ、白が淡い金へと移っていく。地平のあたりが、いちばん明るい。その空の下に、前線はある。砦を落とし、騎士団を砕いた、あの「読めないもの」が、待つ場所だ。まだ、誰も、その正体を知らない。私も、知らない。
天幕の外で、ヨナスたちが、私を待っているはずだった。
腹を満たし、剣を研いだ、私の十人が。はじめは落胆の目で私を見た者も、いまは、私の合図を待っている。あの少年たちを、一人でも多く、あの空の下から連れて帰る。
それが、いま私が背負った、いちばん重い荷だった。村の麦より、商館の銀より、重い荷だった。目方のない荷だ。だが、どんな積み荷より、重かった。
行く、と私は思った。
六十年、追われてきた世界の、その内側へ。何が見えるのかを、確かめに。預かった者を、生きて帰すために。
左の袖を、もう一度、結び直した。きつく。ほどけないように。
そして私は、旗の側に、就きに、行く。





