第8話「逃げ道」
訓練と行軍の日々が続いた。
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朝に発って、日が傾くまで歩く。そんな日が、来る日も来る日も続いた。
足が、乾いた土を噛む。前を行く者の背を見て、また一歩を出す。隊列は、長い蛇のように街道を這っていった。何百という足が、いちどに土を踏むと、砂埃が低く立ちのぼる。風の向きが変わるたび、その埃が顔まで上ってきて、口の中がいつもざらついていた。
私は列のうしろの方を、十人とともに歩いた。新参の隊は、たいてい後ろに回される。前の隊が立てる埃を、まるごと浴びる場所だ。それでも、文句は言わなかった。後ろには、後ろの利がある。全体が見える。誰が遅れ、誰が脚を引きずっているか。隊の疲れが、背中の並びに出る。それを読むのが、私の仕事だった。
私は隊を率いる時、まず地形を見る癖があった。
どこに高いところがあるか。どこに水があるか。そして、どこへ退けるか。
歩きながら、目だけは、いつも左右の地形を撫でていた。右手の尾根の高さ。左手の谷の深さ。水場の位置。日が落ちたあと、どこを通れば気づかれずに動けるか。考えるともなく、頭がそれを測っていた。
これは、カラスの癖だ。
あの男は、飛び込む前に、いつも逃げ道を確かめた。地形を読み、退き際を決めてから、はじめて動いた。慎重すぎる、と笑う者もいた。だが、その慎重さで、あの男は長く生き延びた。穴に落ちる、その日までは。
私もそれに倣った。倣って、六十年、生きてきた。
だから行軍の途中も、私はつい、退き道を探していた。
この谷なら、東の斜面から退ける。あの村なら、北の小径が抜け道になる。向こうの森は、入れば迷うが、地の者なら抜けられるだろう。預かった十人を、いざという時、どこへ逃がすか。頭の中で、私はいつも、退路の地図を組み立てていた。
荷を運んでいた頃と、同じ目だ。野盗に襲われた時、どこへ荷を逃がし、どこで人を逃がすか。生き延びる者は、いつも、逃げ道を先に見ている。襲ってくる方を見るのは、その次でいい。先に出口を押さえた者だけが、落ち着いて、入口を見られる。
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だが、ある時、気づいた。
軍は、逃げ道を設計しない。
行軍の隊列を見ても、布陣の図を見ても、退路という考えがどこにもなかった。
前へ、前へと、道は引かれている。旗の進む先。攻める順。陣を置く場所。それは、こと細かに決められていた。だが、退く道だけが、どこにも引かれていない。まるで、退くことを、初めから勘定に入れていないかのようだった。
はじめは、私の見落としかと思った。図のどこかに、退路の印があるのではないか。私が、読めていないだけではないか。だが、何度見ても、なかった。無いものは、いくら探しても出てこない。
私は、上官のひとりに、聞いてみた。退路は、どこに取るのか、と。
上官は、怪訝な顔をした。私が、何か、見当ちがいのことを言ったような顔だった。眉を寄せ、しばらく私の顔を見てから、吐き捨てるように言った。
「退路だと。何を言っている。我々は、進むのだ」
それで、話は終わりだった。取りつく島も、なかった。
上官は、もう私の方を見ていなかった。退路などという言葉を口にすること自体が、軍では恥なのだと、その背中が言っていた。
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商いでは、退き際がいちばん大事だった。
損切りの線を、先に決める。ここまで下がったら、手を引く。その線を引けない商人は、いつか必ず潰れる。欲が、目を曇らせるからだ。手放す時を、欲が先延ばしにする。逃げ道のない取引には、はじめから手を出さない。それが、十五年の鉄則だった。
盗賊の頃も、同じだ。襲う前に、逃げる道を決めた。逃げ道のない襲撃は、しなかった。退けない場所で戦えば、勝っても負けても、ただ消耗するだけだ。
だが、軍はちがった。
退路を考えることが、臆病とされた。進むことだけが、正しいとされた。
退き道を探す私を、古参はまた嗤った。商人あがりは、すぐ逃げることを考える、と。腰抜けだ、戦を知らぬ、と。すれちがいざまに、わざと聞こえる声で言う。私の十人に聞かせるためだ。隊長が腰抜けなら、隊もそう見える。そう仕向けている。
ちがう、と私は思った。
逃げ道を確かめておくのは、逃げるためではない。生きて、もう一度戦うためだ。
逃げ道のない兵は、追い詰められれば、ただ死ぬ。逃げ道のある兵は、退いて、立て直し、また戻ってこられる。一度の負けで、終わらない。負けても、次がある。次があるなら、人はもう一度剣を握れる。
それが、分からないのか。
いや、と私は思い直した。分からないのではない。
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ある夜、私はようやく、腑に落ちた。
火が、小さくなっていた。皆は、もう眠っていた。ヨナスの寝息が、すぐ近くで聞こえた。私はひとり、消えかけた火を見ながら、ずっと退路のことを考えていた。
そして、気づいた。
軍にとって、兵は、退いて立て直す駒ではないのだ。前へ走らせ、使い切る駒なのだ。だから、逃げ道は要らない。要らないように、初めから設計されている。
その時、私は背筋が寒くなった。火のそばにいるのに、寒かった。
預かった十人の顔が、闇の中に浮かんだ。ヨナスの、震える手が浮かんだ。腹を満たしてやった、あの少年たちの、眠る顔が。
この十人を、私がどれだけ守ろうとしても。
軍そのものが、彼らに、逃げ道を用意していない。
ならば、私が引くしかない。軍が引かないなら、私が自分の手で、退き道を引く。たとえ、それが命令に背くことになっても。
——そんな日が、来るのだろうか。
来る、と、いまなら書ける。来た。何度も、来た。だが、あの行軍の頃の私は、まだそれを予感どまりに感じていただけだ。
海の向こうで、私は学んだことがある。
駒ではなく、盤を見ろ、と。飢饉を回していたのは、ひとりの悪人ではなかった。商館と、神官と、その奥の影が組み上げた、ひとつの仕組みだった。盤そのものだった。
ここでも、同じだった。
逃げ道のない布陣は、ひとりの将の冷たさではない。軍という、盤そのものの形だった。兵を使い切るように、初めから組まれた盤。その上で、私は、十人の駒を預かっている。
駒を守るには、盤を読むしかない。
まだ、断つことはできない。読むことしか、できない。それでも、読む。読んで、せめて、一人でも多く、生きて帰す。
それが、いまの私にできる、せいいっぱいだった。
火が、ひとつ、爆ぜた。私は、薪を足さなかった。明日も、歩く。眠れるうちに、眠っておくべきだった。だが、その夜はなかなか寝つけなかった。





