第5話「徴募所」
村を出る朝、ミラは商館の門の前に立っていた。
うっすらと、霧が出ていた。丘の下の畑が、白くかすんで見える。その霧の中に、村の者が何人か、見送りに出ていた。みな、黙っていた。誰が誰の代わりに立ったか、村の者は、みな知っている。だから、礼を言う者も、詫びる者もいなかった。ただ、黙って、頭を下げた。
私は、商館の差配を、ヒナとガロに託していた。
「帳簿は、お前が見ろ」と、ヒナに言った。「迷ったら、数えろ。数が、いつも、いちばん正直だ」
ヒナは、唇を噛んで、うなずいた。何か言いかけて、やめた。この娘も、人前では崩れない術を、覚えたらしい。
ガロには、何も言わなかった。言う必要が、なかった。あの男は、私がいない間に何をすべきか、もう分かっている。網を、絶やすな。耳を、開けておけ。それだけだ。ガロは無言で、こぶしを軽く胸に当てた。盗賊の頃の、古い合図だった。
ミラだけが、門の、いちばん前にいた。
私が代わりに行くと、もう知っていた。あの娘は、数える目を持っている。名簿の組み替えを見れば、誰が誰の代わりに立ったか、すぐに分かる。
怒っては、いなかった。泣いても、いなかった。
それが、いちばんこたえた。怒鳴ってくれれば、まだよかった。泣きついてくれれば、抱きしめて、宥めることもできた。だがこの娘は、そのどちらもしなかった。私が、そういうことを嫌うと、知っているからだ。
「行かないで、とは言わない」
ミラは言った。声が低かった。
「あんたが、そういう人だって知ってるから」
それから、ひとつだけ、と続けた。
「死なないで。帰ってきて。あたしに、無理をするなって、もう一度言わせて」
私はうなずいた。約束は、しなかった。できない約束は、しない。それも、この娘に教えたことだ。
ミラは、それで分かったらしい。一歩下がって、頭を下げた。商人が商談を終える時の、あの礼だった。私が教えた礼を、いま、別れに使っている。
私は背を向けて、歩き出した。
一度も振り返らなかった。振り返れば、能面が崩れる。崩れた顔を、あの娘に見せるわけにはいかなかった。霧がすぐに、後ろの村を隠してくれた。
◆
徴募所は、隣の町の広場にあった。
半日、歩いた。街道には、私と同じ方へ向かう男たちが、ぽつぽつといた。みな、うつむいて歩いていた。荷を背負い、家の者の作った握り飯を、大事そうに抱えて。誰も、口をきかなかった。
町に近づくと、その流れが、太くなった。いくつもの村の道が、町へ向かって、合わさっていく。人が、川のように、徴募所へ吸い込まれていく。
広場に着いて、私は少し、足を止めた。
人が、あふれていた。広場に、街道に、その先まで。男たちが、長い列をなしていた。若い者も、年のいった者も。鍬しか握ったことのなさそうな手も、混じっていた。みな、押し出されてきた者たちだ。村ごとに、戸ごとに、一人ずつ。
戦線が、それだけ人を欲しがっている。
報せは、絶体絶命だと言っていた。砦が落ち、騎士団が砕けた。その穴を、こうして頭数で埋めようとしている。質ではなく、数で。
数で人を集める時、選り好みは、できない。
それが、私には好都合だった。隻腕の年寄りでも、頭数のひとつには、なれる。
◆
受付の机に、書役が座っていた。疲れた顔の、中年の男だ。
列は、なかなか進まなかった。一人ずつ、名を聞き、村を聞き、名簿に書き、番号札を渡す。それを、朝から、ずっと繰り返している。男の手は、墨で、真っ黒だった。
私の番が来た。
私が前に立つと、男は顔を上げて、手を止めた。
隻腕。三本指の右手。年のいった女。男の目が、そう値踏みするのが分かった。隣に立っていた若い兵が、肘でつついて、何か囁いた。たぶん、ろくな言葉ではない。
「……名は」
男は、それでも聞いた。聞くしかなかったのだ。後ろには、まだ長い列が続いている。一人ずつ追い返している暇は、ない。
「レン」と、私は言った。
「それだけか」
「それだけだ」
姓は、名乗らなかった。名乗る姓を、私は持たない。六十年、固有の名を立てずに生きてきた。村でも、商いでも、ただ「レン」だった。それでよかった。名は、生えるものだ。立てるものではない。背に焼かれた烙印のほかに、私を世界に縛りつける名は、ひとつもない。
男は少し迷ってから、名簿に書いた。レン、と。姓の欄は、空けたままで。
◆
近くにいた者たちが、笑った。はっきりと、声に出して。
「おい、見ろよ。婆さんが来やがった」
「片腕の婆さんだ。剣も持てねえだろう」
「頭数集めも、ここまで来たか。明日は犬でも徴られるぞ」
若い男たちだった。徴られて、不安なのだ。不安な時、人は自分より弱そうな者を見つけて、笑う。笑えば、少しだけ、自分が強くなった気がする。私はそれを知っていた。だから、腹も立たなかった。
六十の女が、いまさら軍隊か。
笑うのも、無理はない。私自身、おかしいと思う。隻腕の、三本指の、年寄りの女が、剣を持って戦場へ行く。冗談のような話だ。
だが、冗談で済むなら、笑わせておけばいい。
私は能面のまま、書役から木の番号札を受け取った。手のひらに載る、小さな木札だ。焼き印で、番号が記してある。向こうの帳面が、私に振った番号。名のない番号だ。
その重みに、私はふと、背中の烙印を思い出した。
かつて、私の体には、数字が刻まれていた。商品としての番号。奴隷の印だ。あれを消すために、私はどれだけのものを、捨ててきたか。名を捨て、過去を捨て、追っ手から逃げ続けた。
その私が、いま自分の手で、新しい番号を受け取っている。
奇妙なものだ。
逃げ続けた番号の側へ、私は自分の足で、歩いて入っていく。
◆
列を抜けて、私は振り分けられた場所へ向かった。
笑い声は、まだ背中についてきた。
好きに笑え、と思った。お前たちが、いつまで笑っていられるか。戦場は、笑いをすぐに奪う。笑える今のうちに、笑っておけ。
それは、皮肉ではなかった。むしろ、祈りに近かった。
この若い者たちが、一人でも多く、笑ったまま家に帰れるように。
そう祈る癖が、私にはある。十五年、人を配り、食わせ、守ってきた癖だ。預かった者の、生きて帰る顔を、先に思う癖。荷台に乗せた子の数を、毎晩、寝る前に数えた癖。
だが、ここで私が預かるのは、村の者ではない。軍の、頭数だ。
その癖が、ここでどう働くのか。
私はまだ、知らなかった。ただ、足だけは、止まらなかった。





