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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第七編「旗は誰のものか」

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第4話「能面と、夜」


 その夜、私はひとりになった。


◆


 商館の、いちばん上の部屋。昼間、帳簿を見ていた、あの物見の間だ。

 窓の外は、丘の闇だった。

 遠く、東の空がわずかに赤い気がした。気のせいだ、と思う。砦は何十里も向こうにある。火が見えるはずもない。だが、赤く見えた。見えると思えば、見えてしまう。そういう夜だった。


 卓に、令状の写しを並べた。

 村の男たちの名。若い者の名。ミラの名。

 昼の間、私は一度も顔を動かさなかった。

 役所で、銀を見もされなかった時も。村の辻で、若い男のこぶしを見た時も。村役が、出す者の名を一人ずつ読み上げ、家の者が黙ってうなずいた時も。ある母親が、声を殺して泣き、それでも息子の名を取り消してくれとは言わなかった時も。私は能面のまま、数え、配り、いちばん毀れの少ない出し方を組んだ。

 誰も、私が怒っているとは思わなかったはずだ。商人のレンは、いつも通り冷静に最善を組んでいる、と。そう見えるように振る舞った。崩れれば、皆が崩れる。頭が揺れれば、村が揺れる。だから人前では、崩れない。


 部屋に誰もいなくなって。

 私は懐から、読めない帳面を取り出した。

 カラスの遺品だ。表紙の革は、手垢で色が変わっている。中の文字は読めない。何が書いてあるのか、長い年月、分からないままだ。

 読めないまま、私はずっとこれを握ってきた。穴の底で。盗賊の塒で。海の上で。困った時。迷った時。怒りが、行き場をなくした時。

 いま、それを握った。


 握って、私は初めて崩れた。


◆


 言葉には、ならなかった。

 声も上げなかった。上げる相手が、いなかったからだ。

 誰に、怒ればいい。

 役人でもない。村役でもない。高札でもない。その全部の後ろにいる、顔のない誰か。命令を降らせる誰か。私は、その顔を知らない。

 知らない相手には、怒りをぶつけられない。ぶつけられない怒りは、外へ出る道がなくて、内側で渦になる。ぐるぐると、同じ所を回る。

 海の向こうで掴みかけた、あの盤の影と同じだった。

 駒は断てる。剣で。

 だが、盤は断てない。盤には、顔がないからだ。

 私はひとつの拳を、卓に押しつけた。ひとつしかない拳を。三本の指と親指を、革の表紙に食い込ませた。


 怒りの渦の中で、いろいろなものが回った。

 穴の底で、私を捨てた手。背に烙印を押した、焼き鏝の熱。海の上で、私を追い立てた者たちの顔。みな、顔があった。顔のあるものは、いつか私の前に引きずり出せた。引きずり出して、断つことができた。それで片がついた。私はそうやって、六十年を生き延びてきた。

 だが、今度の相手には、顔がない。

 村の名を呼び、ミラの名を呼び、若い者の名を呼んで、戦場へ送り出す手。その手の持ち主が、見えない。たどっていけば、いつか誰かに行き着くはずだ。だが、その誰かは、あまりに遠く、あまりに高い。

 私の腕は、一本きりだ。剣の届く先には、限りがある。

 顔のない高さには、届かない。


 ——どこにいる。

 声にならない問いが、胸の中で響いた。

 ——お前は、どこにいる。

 答えは、なかった。闇も、灯も、何も答えなかった。

 代わりに、昔のカラスの言葉が、ふいに浮かんだ。顔のない相手と戦うな、灰。顔を、探せ。探して、見えるまでは、生きていろ。

 生きていろ、と。あの男は、いつもそう言った。


 どれくらい、そうしていたか覚えていない。

 気づくと、帳面の革が、私の指の形に湿っていた。

 涙だったのか、汗だったのか、自分でも分からない。ただ、指の跡が、革の上に濃く残っていた。

 それから、私は酒を呑んだ。

 強い酒ではない。村で造る、薄い麦の酒だ。木の椀に一杯。喉を、ぬるく落ちていった。それで渦が、少しだけ沈んだ。沈めるために呑んだ。酔うためではなかった。


◆◇


 窓の外が、白み始める頃。

 私は、決めていた。


 村の男たちは、戸ごとに一人。これは動かせない。

 だが、若い者は——ミラは、私が引き受ける。

 一戸につき、ひとり。私の戸からは、私が出ればいい。商館の主は私だ。私が名簿に立てば、ミラの名を後ろへ押し出せる。

 役所が、それで通すかは分からない。隻腕の年寄りの女が、剣を取れるのか、と笑うだろう。

 笑わせておけばいい。

 頭数が要るのは向こうだ。砦が落ち、騎士団が砕け、戦線は絶体絶命だと報せは言っていた。そんな時に、人を選り好みしている余裕は、軍にはない。隻腕だろうが、年寄りだろうが、頭数なら拾う。

 通る、と私は読んだ。


 なぜ、自分が行くのか。

 守るためだ、と答えるのは簡単だった。だが、それだけではなかった。

 私は十五年、人を配り、食わせ、守ってきた。八十人の頭領、と誰かが言ったことがある。私にはそれができる。誰を、どこに置けば、いちばん欠けが少ないか。それを数えられる。だから、自分を勘定に入れることも、できた。

 いちばん毀れていい駒は、私だ。

 ミラには、これからがある。村の男たちには、帰る家がある。

 私には——もう、十五年がある。じゅうぶんに、ある。

 六十年も生きれば、惜しむものは、そう多くない。惜しむ心を捨てたわけではない。秤に載せれば、私の十五年より、ミラの五十年の方が重い。それだけのことだ。


 読めない帳面を、私は懐に納めた。

 いや、納める、という言葉はちがう。納めれば、それは「向こうの帳面」になってしまう。これはちがう。これはただ、携えるものだ。どこへ行くにも。戦場にも。

 窓の外で、東の空の赤が、朝日に紛れて消えた。本物の朝が、来た。


 階下から、人の動く音が聞こえ始めた。ヒナが帳場を開ける音。若い者が、水を汲む音。村が、いつもの朝を始めていた。

 その音の中へ、私の決めたことを、これから置かねばならない。ヒナに。ガロに。ミラに。村役に。

 いちばん難しいのは、ミラだろう。無理をするな、と言った、あの娘だ。私が代わりに行くと知れば、怒るかもしれない。泣くかもしれない。どちらでもいい。生きてさえいれば、いつか怒りも涙も忘れる。私が、そうだったように。


 追われる側として、私は六十年を生きてきた。

 穴に捨てられ、奪われ、烙印を押され、海に追われた。世界はいつも、私を数える側だった。私は、数えられる側だった。

 今度は、私がその世界の数える側の——旗の、内側に入る。

 入って、何が見えるのか。

 私はまだ、知らなかった。

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