第4話「能面と、夜」
その夜、私はひとりになった。
◆
商館の、いちばん上の部屋。昼間、帳簿を見ていた、あの物見の間だ。
窓の外は、丘の闇だった。
遠く、東の空がわずかに赤い気がした。気のせいだ、と思う。砦は何十里も向こうにある。火が見えるはずもない。だが、赤く見えた。見えると思えば、見えてしまう。そういう夜だった。
卓に、令状の写しを並べた。
村の男たちの名。若い者の名。ミラの名。
昼の間、私は一度も顔を動かさなかった。
役所で、銀を見もされなかった時も。村の辻で、若い男のこぶしを見た時も。村役が、出す者の名を一人ずつ読み上げ、家の者が黙ってうなずいた時も。ある母親が、声を殺して泣き、それでも息子の名を取り消してくれとは言わなかった時も。私は能面のまま、数え、配り、いちばん毀れの少ない出し方を組んだ。
誰も、私が怒っているとは思わなかったはずだ。商人のレンは、いつも通り冷静に最善を組んでいる、と。そう見えるように振る舞った。崩れれば、皆が崩れる。頭が揺れれば、村が揺れる。だから人前では、崩れない。
部屋に誰もいなくなって。
私は懐から、読めない帳面を取り出した。
カラスの遺品だ。表紙の革は、手垢で色が変わっている。中の文字は読めない。何が書いてあるのか、長い年月、分からないままだ。
読めないまま、私はずっとこれを握ってきた。穴の底で。盗賊の塒で。海の上で。困った時。迷った時。怒りが、行き場をなくした時。
いま、それを握った。
握って、私は初めて崩れた。
◆
言葉には、ならなかった。
声も上げなかった。上げる相手が、いなかったからだ。
誰に、怒ればいい。
役人でもない。村役でもない。高札でもない。その全部の後ろにいる、顔のない誰か。命令を降らせる誰か。私は、その顔を知らない。
知らない相手には、怒りをぶつけられない。ぶつけられない怒りは、外へ出る道がなくて、内側で渦になる。ぐるぐると、同じ所を回る。
海の向こうで掴みかけた、あの盤の影と同じだった。
駒は断てる。剣で。
だが、盤は断てない。盤には、顔がないからだ。
私はひとつの拳を、卓に押しつけた。ひとつしかない拳を。三本の指と親指を、革の表紙に食い込ませた。
怒りの渦の中で、いろいろなものが回った。
穴の底で、私を捨てた手。背に烙印を押した、焼き鏝の熱。海の上で、私を追い立てた者たちの顔。みな、顔があった。顔のあるものは、いつか私の前に引きずり出せた。引きずり出して、断つことができた。それで片がついた。私はそうやって、六十年を生き延びてきた。
だが、今度の相手には、顔がない。
村の名を呼び、ミラの名を呼び、若い者の名を呼んで、戦場へ送り出す手。その手の持ち主が、見えない。たどっていけば、いつか誰かに行き着くはずだ。だが、その誰かは、あまりに遠く、あまりに高い。
私の腕は、一本きりだ。剣の届く先には、限りがある。
顔のない高さには、届かない。
——どこにいる。
声にならない問いが、胸の中で響いた。
——お前は、どこにいる。
答えは、なかった。闇も、灯も、何も答えなかった。
代わりに、昔のカラスの言葉が、ふいに浮かんだ。顔のない相手と戦うな、灰。顔を、探せ。探して、見えるまでは、生きていろ。
生きていろ、と。あの男は、いつもそう言った。
どれくらい、そうしていたか覚えていない。
気づくと、帳面の革が、私の指の形に湿っていた。
涙だったのか、汗だったのか、自分でも分からない。ただ、指の跡が、革の上に濃く残っていた。
それから、私は酒を呑んだ。
強い酒ではない。村で造る、薄い麦の酒だ。木の椀に一杯。喉を、ぬるく落ちていった。それで渦が、少しだけ沈んだ。沈めるために呑んだ。酔うためではなかった。
◆◇
窓の外が、白み始める頃。
私は、決めていた。
村の男たちは、戸ごとに一人。これは動かせない。
だが、若い者は——ミラは、私が引き受ける。
一戸につき、ひとり。私の戸からは、私が出ればいい。商館の主は私だ。私が名簿に立てば、ミラの名を後ろへ押し出せる。
役所が、それで通すかは分からない。隻腕の年寄りの女が、剣を取れるのか、と笑うだろう。
笑わせておけばいい。
頭数が要るのは向こうだ。砦が落ち、騎士団が砕け、戦線は絶体絶命だと報せは言っていた。そんな時に、人を選り好みしている余裕は、軍にはない。隻腕だろうが、年寄りだろうが、頭数なら拾う。
通る、と私は読んだ。
なぜ、自分が行くのか。
守るためだ、と答えるのは簡単だった。だが、それだけではなかった。
私は十五年、人を配り、食わせ、守ってきた。八十人の頭領、と誰かが言ったことがある。私にはそれができる。誰を、どこに置けば、いちばん欠けが少ないか。それを数えられる。だから、自分を勘定に入れることも、できた。
いちばん毀れていい駒は、私だ。
ミラには、これからがある。村の男たちには、帰る家がある。
私には——もう、十五年がある。じゅうぶんに、ある。
六十年も生きれば、惜しむものは、そう多くない。惜しむ心を捨てたわけではない。秤に載せれば、私の十五年より、ミラの五十年の方が重い。それだけのことだ。
読めない帳面を、私は懐に納めた。
いや、納める、という言葉はちがう。納めれば、それは「向こうの帳面」になってしまう。これはちがう。これはただ、携えるものだ。どこへ行くにも。戦場にも。
窓の外で、東の空の赤が、朝日に紛れて消えた。本物の朝が、来た。
階下から、人の動く音が聞こえ始めた。ヒナが帳場を開ける音。若い者が、水を汲む音。村が、いつもの朝を始めていた。
その音の中へ、私の決めたことを、これから置かねばならない。ヒナに。ガロに。ミラに。村役に。
いちばん難しいのは、ミラだろう。無理をするな、と言った、あの娘だ。私が代わりに行くと知れば、怒るかもしれない。泣くかもしれない。どちらでもいい。生きてさえいれば、いつか怒りも涙も忘れる。私が、そうだったように。
追われる側として、私は六十年を生きてきた。
穴に捨てられ、奪われ、烙印を押され、海に追われた。世界はいつも、私を数える側だった。私は、数えられる側だった。
今度は、私がその世界の数える側の——旗の、内側に入る。
入って、何が見えるのか。
私はまだ、知らなかった。





