第3話「商いの掟」
それでも、私は商人だった。
商人には、商人のやり方がある。私はまず、それを試すことにした。
◆
徴兵は、役所が仕切っていた。
北街道の関所筋に、王国の出先がある。石造りの、低い建物だ。窓には鉄の格子。入口には、槍を持った番兵が二人。私が近づくと、上から下まで舐めるように見た。隻腕で年を取った女が、何の用だ、という目だった。私は慣れていた。その目には、もう六十年、慣れていた。
中は薄暗かった。書き物机が並び、役人が紙に何かを書きつけていた。羽根筆の擦れる音だけが、低く響いていた。墨と、黴の匂いがした。順番を待つ村人が、壁ぎわに何人か、座り込んでいた。みな、うつむいていた。
私は、いちばん奥の机の役人に用件を告げた。
村の若い者の名を、名簿から外せないか。代わりの人手を出す。銀も出す。
言いながら、私は卓の上に布包みを置いた。中身は銀だ。十五年の商いで、こういう時の出し方は覚えている。多すぎず、少なすぎず。相手の格にちょうど合う重さ。布の結び目の解き方ひとつで、相手の喉が鳴ることも知っていた。指で、結び目をほんの少しだけ緩めた。銀の縁が、灯を受けて光った。
役人は、銀を見もしなかった。
筆を置いて、私の顔を一度だけ見た。それから言った。
「これは、商いじゃない」
声に、抑揚がなかった。
「命令だ」
たった、それだけだった。
私はもう一度、別の言い方を試した。村の麦の納めを増やす。街道の荷を、軍へ優先で回す。役所の名は出さず、ただ相手が実を取れる形を、いくつか並べた。商談なら、こうして相手の逃げ道を作ってやるのが、私のやり方だった。
役人は、もう私を見なかった。
「聞こえなかったか」と、紙に目を落としたまま言った。
「一戸につき、ひとり。それだけだ」
◆
私はしばらく、その場に立っていた。
商いなら、私は負けない。値を読み、相手の欲を読み、落としどころを作る。双方に得があるから、卓に着ける。値を上げ、下げ、折り合う。それが商いだ。
だが、命令には得も損もなかった。
上から降りてくる。理由は付いてこない。
その役人ですら、なぜその数の人手が要るのか、知らなかった。私にはそれが分かった。男の目が、銀を映しても何も動かなかったからだ。欲しくないのではない。欲しくても、どうにもできないのだ。名簿の数を一人でも減らせば、今度はその役人自身の名が、別の名簿に載る。埋めねば、自分が埋められる。
だから男は筆を取り、また書き始めた。
私という人間が、初めからそこにいなかったかのように。
待つ間、私は壁ぎわの村人たちを見ていた。
ひとりの男が、役人の前で何かを訴えていた。畑が、女房が、子が、と切れ切れに。役人は顔も上げず、男の名の横に印をひとつ書いた。それで終わりだった。男はしばらく口を開けたまま立っていたが、やがて肩を落として出ていった。
次の女は、何も言わなかった。差し出された紙に、震える手で印をつけた。字が読めないのだろう。何に印をつけたのかも、分からないまま。それで、その者の何かが決まったらしかった。誰も、説明しなかった。
数だ、と私は思った。
ここでは、人が数として扱われていた。名があり、畑があり、子があり、泣く相手のいる人間が、ひとつの印に、ひとつの桁に畳まれていく。商いでも、私は人を数える。だが商いの数えは、人を生かすための数えだ。ここの数えはちがった。人を戦場へ送り出すための数えだった。同じ数えでも、向きが逆だった。
私は、布包みを懐に戻した。
帰り際、番兵がまた私を見た。今度は、追い払うような目だった。
◆◇
海の向こうで、私は一度、壁に負けたことがある。
飢饉を回していた商人たちの、合法の壁に。値段を決めただけだ、と相手は言った。
あの時、私は相手の理を憎んだ。だが、理解はできた。利を求める手だったからだ。利なら、私にも読める。どこで儲け、どこで損を切るか。相手の欲の形が見えた。見えれば、いつか崩せるかもしれない。そう思えた。
だが、この壁はちがった。
この壁の向こうには、利がなかった。命令だけがあった。
誰の得にもならない数の人手を、誰も止められずに戦場へ送る。そういう仕組みが、世界にはあった。欲なら読める。だが、欲のない命令は読めない。読めないものは、崩せない。
商いの掟では、戦は止まらない。
十五年かけて覚えた回す手は、ここでは指一本、動かせなかった。
海の向こうの壁は、利の壁だった。この壁は、命令の壁だ。どちらも、私の手の届かない高さにあった。ただ、利の壁にはまだ、登る取っ掛かりが見えた。命令の壁は、つるりとして、爪も立たなかった。
◆
帰り道は、長く感じた。
丘へ続く街道を、私はゆっくり歩いた。考えながら。道の脇では、麦が、青く伸び始めていた。この麦を刈る頃には、出された者の何人が、村に戻っているだろう。そんなことを、つい数えてしまう。
止められないなら、減らす。減らせないなら、配り替える。それが私の手だ。役所では負けたが、村の中なら、まだできることがある。
村の男たちは、戸ごとに一人。この数は動かせない。だが、どの家から誰を出すかは、村の中で決められる。家族の数。畑を打つ手。残る者の暮らし。それを全部数えて、いちばん毀れの少ない出し方を組める。私にはそれができる。十五年、ずっとそれをやってきた。
若い者は——と、そこで足が止まった。
ミラの名を、外す道はなかった。
剣を取れる者は、女も、と高札は言っていた。ミラは剣を取れる。
私が、教えたからだ。
あれは、まだミラが私の腰までしかなかった頃だ。野盗の多い街道を、荷を抱えて越えた夜だった。火を焚けない野営で、ミラは震えていた。怖いのではない、と言い張る目で、震えていた。
私はミラの右手に、短い刃の握り方を教えた。指の置き方。腰の落とし方。突くより、退くことを先に。守るための、最小限。隻腕の私が、片手で教えられる、ぎりぎりのところまで。あの娘は、筋がよかった。一度見せれば、すぐに覚えた。覚えが早いことを、私はあの夜、少しだけ誇らしく思った。
教えなければ、と一瞬思って、すぐにその思いを踏んだ。
教えなければ、ミラは別の所で、別のやり方で死んでいた。荷を奪われ、置いていかれて。剣を持たぬまま。
私が与えたものが、いま、ミラを戦場へ押し出している。
与えなければ、もっと早く失っていた。与えたから、いま、失いかけている。
どちらにしても、欠ける。誰を、どう守っても、どこかが必ず欠ける。
荷台に乗るだけの数しか、救えない。
それが、十五年で私が覚えた、いちばん重い掟だった。





