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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第七編「旗は誰のものか」

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第2話「高札」


 高札は、三日後の朝に、灰の村の辻にも立った。


 白い木の板に、黒い墨。墨はまだ新しくて、朝の湿りで、わずかに滲んでいた。

 辻には、村の者が集まっていた。十人、二十人。じきに、もっと増えた。みな、板を見上げて黙っている。

 字を読める者は、村にほとんどいない。だから村役が板の前に立って、声に出して読んでいた。背の丸い、年老いた男だった。その声が、途中で何度かつかえた。読みたくない一行に、来るたびに。


 徴兵令。

 十六から五十までの、男。

 それから、剣を取れる者は、女も。

 一戸につき、ひとり。

 応じぬ家は、村ごと咎を負う。


 読み終わると、辻は静かになった。

 誰かの赤ん坊が泣いた。母親が急いで、あやした。それきり、また静かになった。

 若い男がひとり、こぶしを握っていた。その横で、老いた母らしき女が、その腕に手を添えていた。何も言わない。言っても変わらないと、知っている手だった。

 別の女は、ただ板を見上げて、口を半分開けたまま動かなかった。出す子が、その家にいるのだろう。

 私は、人垣の後ろからそれを見ていた。


 向こうの帳面だ、と私は思った。

 高札も、令状も、名簿も、刻印も。世界の側が、人を数えて桁に収めるための紙だ。私が懐で握る、読めない帳面とは別のものだ。

 あちらの帳面は、読める。誰にでも読める。読めるだけに、逃げ場がない。


◆


 灰の村は、もとは廃砦だった。

 北街道の東の丘に、戦が遠ざかってから誰も使わなくなった砦があった。崩れかけた石壁と、雨の溜まった空堀。狐が巣にしていた。夜には、その鳴き声だけが丘に響いた。

 私はそれを、商館に変えた。

 盗賊だった頃に貯めた銀を、鋳潰した。役所の刻みの入った銀は、そのままでは使えない。素性が知れる。だから溶かして、名を消して、信用に変えた。崩れた壁を積み直し、空堀の水を抜き、蔵を建てた。最初の冬は、屋根の半分しかなかった。皆で身を寄せて、雪をやり過ごした。寒さで、年寄りをひとり、失った。その墓も、いまは丘の裏にある。

 散った七つが、各地の結節点に立った。港に、宿場に、関所の筋に。一本ずつの糸が、十五年かけて面になった。

 その面の真ん中に、この丘がある。

 逃げ場のなかった者たちが、いまはここで暮らしている。


 道中で拾った子らも、いた。

 捨てられた子。親をいくさや飢えで失った子。私はそういう子を見つけると、キャラバンに連れて歩いた。

 万能の救い手のつもりは、なかった。荷台に乗るだけの数しか、救えなかった。乗せられずに置いていった子の顔も、覚えている。一人ひとり、覚えている。それでも乗せられる子は、乗せた。それだけのことだった。

 その子らの背丈が、いつの間にか伸びていた。声が低くなり、手が大きくなり、私を見下ろすようになった。


 ミラも、そうだった。

 麦どころで、家族をひとり残らず失って、焼けた畑の前に座り込んでいた娘だ。煤で、顔が真っ黒だった。私が拾った時は、私の腰までしかなかった。痩せて、目だけが大きかった。

 その娘が、いまは私の肩を越している。荷を担ぎ、馬を御し、年下の子らの面倒を見る。去年の飢饉の年には、配給の列を、自分で仕切っていた。少ない粥を、誰にどれだけ配るか。泣く子を、後ろへ回さず、いちばん弱った子から。数える目を、いつの間にか、ミラも持っていた。村の若い者の、まとめ役になっていた。


 その朝も、ミラは商館の前にいた。若い者たちに、荷馬への積み方を教えていた。私を見つけると、手を止めてこちらへ来た。

 「レン。高札のこと、聞いた」

 ミラの声は、落ち着いていた。怖がってはいなかった。

 「あたしの名、載ってるんでしょう」

 知っているのか、と私は思った。隠すつもりでいたが、この娘はもう、隠される歳ではなかった。

 「……まだ、決まっていない」

 私はそう言った。嘘ではない。決めるのは私だと、まだ決めていなかったからだ。

 ミラは、少し笑った。私が何か企んでいる時に見せる、見透かしたような笑いだった。

 「無理は、しないで」

 それだけ言って、ミラは若い者たちのところへ戻っていった。

 無理をするな、と。焼けた畑で拾った娘に、そう言われる歳に、私もなった。その背中は、まっすぐだった。あの背中を、戦場へやるのか。やらせない、と私は思った。


◆


 令状の写しを、ヒナが卓に並べた。

 商館の一階の帳場だった。朝の光が、細い窓から斜めに差していた。

 紙には名が書いてあった。村の男たちの名。それから、剣を取れる若い者の名。

 私は上から順に、指でなぞった。三本の指で。誰が、どの家の、何番目の子か。頭の中の名簿と、突き合わせていく。この家は、男手が一人きりだ。この家は、二人いる。この若者は、まだ十六になったばかりのはずだ。

 その指が、一つの名で止まった。

 ミラの名が、あった。


◆


 私はその名を、しばらく見ていた。

 顔の筋を、一本も動かさなかったと思う。


 怒りというものは、ある一線を越えると、熱ではなくなる。

 むしろ冷たくなる。静かになる。手が震えない。声も上がらない。頭の芯だけが、嫌に冴える。

 こういう時こそ、いちばん危ない、とカラスなら言っただろう。前世から持ち越した、あの男の自制が、私にも移っている。

 私はその冷たさを、長い年月で覚えた。穴の底で覚え、盗賊の塒で覚え、商談の卓で覚えた。相手の前で崩れれば、足元を見られる。だから人前では、崩れない。崩れる時は、ひとりになってからだ。それも覚えた。


 「レン」

 ヒナが、私の顔を覗き込んだ。

 何か言いたげだった。だが、言わなかった。私の顔を見て、言葉を呑んだのだと思う。

 私は、紙から目を上げずに言った。

 「……配れ」

 声は、いつも通りだったはずだ。

 「写しを、もう一度。誰の名が載っているか、全部数える。漏れと二重がないか、確かめろ」

 怒っている時ほど、私は数える。

 数えることだけが、私の手を止めずにいさせてくれる。手が止まれば、別のものが動き出す。それを夜まで、抑えておかねばならなかった。

 ヒナは頷いて、紙を集めた。集める手が、少し乱暴だった。この娘も怒っているのだ、と分かった。


 ガロが、いつの間にか戸口に立っていた。

 諜報の網を束ねる男だ。痩せて、背が高い。寡黙で、めったに口をきかない。気配を消すのが、誰よりうまい。だから、いつ入ってきたのか、私にも分からなかった。

 その男が、ひとことだけ言った。

 「断れば、村が消える」

 知っている、と私は思った。

 高札の最後の一行が、それを言っていた。応じぬ家は、村ごと咎を負う。

 断るという道は、初めから塞いであった。

 向こうの帳面は、いつもこうだ。逃げ道を先に消してから、こちらへ差し出される。選ばせるふりをして、選択肢はもう、ない。

 私は紙を、卓に置いた。

 窓の光が、ミラの名の上を、ゆっくり移っていった。


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