幕間〈選ばれた手〉
西の村は、灰になる
その朝、わたしは、生まれたばかりの子を、数えていた。
西境の村。畑と、羊と、低い屋根が、寄り合うだけの村だ。名のある者は、いない。けれど、人は、生まれる。死ぬ。また、生まれる。わたしは産婆だ。村の子を、もう三十年、取り上げてきた。何人取り上げたかは、覚えていない。数えるのが、わたしの仕事だった。生まれた子の指を数え、息を数え、母の血の止まるのを数える。
その朝に取り上げた子は、女の子だった。指は十本、揃っていた。息も、強かった。母親が、泣きながら笑った。わたしも、笑った。
外で、犬が、吠えはじめた。
◆
最初は、馬の音だと思った。
商人が来たのかもしれない。春の終わりには、塩や鍋を積んだ荷馬が、街道を上ってくる。わたしは、血のついた手を桶で洗いながら、戸口へ出た。
地平が、揺れていた。
土煙だった。畑の向こう、草の海の彼方から、それは来た。一頭や二頭では、ない。地面そのものが、こちらへ押し寄せてくるような、黒い帯。その帯の上に、無数の、点。馬上の、人影。
逃げろ、と、誰かが叫んだ。
遅かった。
馬は、速い。村の足では、追いつかれる。畑を突っ切って逃げた者から、順に、倒れていった。背に、矢が立った。逃げる者の背中ほど、的になるものはない。弓は、当てるためでなく、追い立てるために、放たれていた。倒れた者を、馬蹄が越えていく。止まりもせずに。
わたしは、産屋へ戻った。母と、生まれたばかりの子のところへ。それしか、できなかった。
◆
馬の国の者たちは、村を、囲んだ。
慌てては、いなかった。怒っても、いなかった。笑っても、いなかった。野良仕事のように、淡々と、それをやった。それが、いちばん、恐ろしかった。
戸を蹴破る。中の者を、引きずり出す。逆らう男は、その場で、斬る。鍬を握った若者がいた。一度、振り上げた。振り下ろす前に、首から、上が、なかった。母親が、走り寄った。母親も、倒れた。
血が、土に吸われていく。村の土は、よく乾いていた。だから、よく、吸った。
わたしは、村の長の家の壁から、それを見ていた。引きずり出され、ほかの女たちと、一列に座らされていた。動くな、と、言葉でなく、槍の先が、教えてきた。
子供たちが、別の列に、分けられていた。泣いている子も、泣くことを忘れた子も、いた。その列が、どこへ行くのかは、わからなかった。わからない、ということが、もう、答えのようなものだった。わたしは、目を、つむった。つむっても、音は、聞こえた。だから、また、開けた。せめて、見ていようと思った。数えるのが、わたしの仕事だ。誰も、数えないのなら、わたしが、数える。
平原の真ん中に、何かが、積み上げられていった。低い、塔のようなもの。近くで見たわけでは、ない。赫い色をしていた、とだけ、言える。それが何で出来ているのかを、わたしは、考えないことにした。考えれば、声が、出てしまう。声を出せば、わたしも、あの土に吸われる。
◆
日が、傾いた。
村は、もう、村では、なかった。屋根という屋根から、煙が上がっていた。羊が、囲いの中で、焼かれていた。逃げ場のない囲いの中で。井戸には、何かが、落とされていた。もう、誰も、その水は飲めない。
生き残った者は、選り分けられた。
馬の国の者の中に、村の言葉を、片言で話す者がいた。そいつが、わたしたちの前を、歩いた。値を、踏むように。鍛冶のできる者。革をなめせる者。傷を、縫える者。そういう手を持つ者だけが、引き出され、縄で、繋がれていった。次の戦の、道具として。
わたしの番が、来た。
産婆だ、傷も縫う、と、わたしは言った。声が、震えていないことに、自分で、驚いた。震える声は、いらない。震えれば、いらない手だと、思われる。いらない手が、どうなるかは、もう、見て知っていた。
縄が、わたしの手首に、巻かれた。
わたしは、生きる側に、選ばれた。
若い女たちは、別の方へ、連れていかれた。
縄も、繋がれなかった。乱暴にも、されなかった。馬の国の者たちは、その女たちを、傷つけないように、運んだ。傷物は、値が下がる。それだけのことだと、わたしは、悟った。命でなく、別の値で、量られた女たちだった。
その中に、朝の、あの母がいた。
夜明けに、わたしが取り上げたばかりの子の、母だ。指の十本そろった、息の強い女の子を、産んだばかりの。まだ乳の張った胸を抱えて、その母は、引かれていった。半日前、わたしと一緒に、泣いて、笑った女が。
馬の国の者が、その腕を、つかんだ。母は、子を、と言った。生まれたばかりの子が、と。馬の国の者は、聞かなかった。言葉が通じないのでは、ない。聞く気が、ないのだ。聞く必要が、ないからだ。生かすも、殺すも、抱く子に乳をやらせるかどうかさえ、いまは、つかんだ手の、気分ひとつ。母の値は、もう、その手の中に、移っていた。
母の目が、わたしを、見た。
わたしは、動けなかった。縄を打たれた手では、ない。縄など、なくても、動けなかった。動けば、わたしも、値を失う。値を失った手が、どこへ行くかを、わたしは、もう、見て知っていた。わたしは、生きる側に選ばれた手だ。その手は、朝、子を取り上げた。その同じ手で、いま、その子の母が引かれていくのを、ただ、見ていた。
母が、天幕の布の、向こうへ、消えた。
その夜のことを、わたしは、書かない。
書けることが、ない。天幕の方から、聞こえてきたものを、わたしは、ただ、数えていた。数えるしか、できることが、なかった。耳を塞いでも、塞いだ指の間から、入ってきた。だから、数えた。一つ、二つと。いつまでも、終わらなかった。終わってほしいと願うことが、終わったあとに何が残るかを願うことだと気づいて、わたしは、願うのを、やめた。
朝が、来た。
女たちが、戻された。生きていた。歩いていた。けれど、その目は、もう、こちらを見ていなかった。どこも、見ていなかった。わたしは、産婆だ。生まれてくる目は、いくつも見てきた。生まれてきたものが、消えた目を、初めて、見た。
一人の腕に、傷があった。わたしは、それを、縫った。糸を通し、肌を寄せ、結んだ。いつもの手だった。けれど、その傷は、いつまでも、塞がらない種類のものだと、縫いながら、わかっていた。わたしに縫えるのは、肌だけだ。
あの夜のあいだ、わたしは、生まれたばかりの子を、ふところに入れて、温めていた。母を待つわずかな乳を、別の母の乳で、つないだ。泣くたびに、口を、そっと塞いだ。声を立てさせては、ならなかった。声を立てる子は、荷の邪魔だと、捨てられる。わたしは、産婆だ。生まれた子を、死なせない。いまのわたしに、できることは、もう、それだけだった。
朝、戻された母に、わたしは、その子を、返した。
母は、子を受け取った。受け取って、胸に当てる。けれど、その顔は、朝、子を産んだ時の顔では、もう、なかった。笑わなかった。泣きも、しなかった。ただ、子を抱いて、どこも見ていない目で、乳を含ませた。子は、生きていた。母も、生きていた。生きているということが、もう、喜びにはならない顔が、そこに、あった。
◆
わたしたちは、東へ、歩かされた。
縄に繋がれた者と、目の消えた者と、子供の、いない列。みな、東へ。馬上の者の弓が、後ろから、わたしたちを、追い立てた。
どこへ行くのかは、やがて、わかった。
地平の向こうに、岩山を背負った、一つの砦が、見えてきた。王国の旗が、まだ、立っていた。守る兵が、まだ、いるのだ。
わたしは、悟った。
わたしたちは、あの砦を、攻めさせられる。手に、武器は、ない。けれど、馬の国の者は、わたしたちを、前に出すだろう。あの砦の兵に、わたしたちを、撃たせるために。撃てば、同胞を殺したと、兵の心が、折れる。撃たねば、わたしたちが、堀を埋める。どちらに転んでも、馬の国の者は、損をしない。
わたしたちは、もう、人では、なかった。旗だった。馬の国の者が、持つ必要のない、捨てるための、旗。
誰が、こんなことを、思いついたのか。
あの淡々とした手つきに、怒りは、なかった。憎しみも、なかった。村を焼くことに、女を運ぶことに、子を分けることに、何の、心も、動いていなかった。心のない者が、これをやったのでは、ない。心を、要らないものにした、何かが、これをやった。一人の悪人なら、斬れば、済む。けれど、これは、斬る相手が、どこにもいなかった。
わたしは、歩きながら、数えていた。
村から、何人が、生き残ったか。何人が、東へ歩いているか。何人が、目を、消したか。数えるのが、わたしの仕事だ。誰も、数えないのなら、わたしが、数える。せめて、数だけは、なかったことに、させない。
砦が、近づいてくる。
あそこにも、人がいる。守ろうとしている、人が。あの人たちも、じきに、知るだろう。正しくやって、なお、これだ、ということを。
草の海を渡る風が、灰の匂いを、東へ、運んでいった。わたしたちと、同じ方へ。





