序幕 砦は、落ちる
「隊長。東の物見より、報せにございます」
伝令が、幕の裾をはねて入ってきた。だが私は、卓の地図から目を上げない。アーデルハイト・フォン・ヴァイデンベルク。王国軍の隊長として、この東境の砦を預かる者だ。報せの一つひとつに首を動かしていては、砦は守れない。
定石は、裏切らない。
二十年、剣と兵書に身を浸して掴んだのは、それだけだ。地形を読み、水と兵糧を数え、兵の心を量る。やるべきことを、順に、抜かりなくやる。派手な策はいらない。奇手は、博打だ。博打は、いつか必ず外れる。だが定石は、外れない。積み上げた者を、裏切らない。
私は、地図の上に指を置いた。
東境の砦。背に切り立った岩山を負い、前に一本の街道。攻める側は、街道からしか寄れない。寄れば、両脇の崖から矢を浴びる。門は二重。井戸は岩盤の下まで届き、夏でも涸れない。蔵には、半年ぶんの麦と塩。
この砦は、落ちない。私が落とさせない。そう、自分に言い聞かせてきたのではない。数えて、確かめて、知っている。
「申せ」
私は、ようやく顔を上げた。
伝令の頬が、白い。
「草の海の向こうから——軍が、来ます。先に落ちた西の村々の方角から、土煙が、地平いっぱいに」
◆
草の海の民。
外つ国の名は、誰も正しく知らない。馬と弓の国、とだけ伝わる。半月前、その軍が国境を越えた。西の砦が、三日で落ちた。落ちるはずのない砦が、だ。報せは、それきり途絶えた。
私は、定石を打った。
門を閉ざし、閂を二重にかけた。井戸を検め、毒を入れられぬよう兵を立てた。兵糧を数え、配る順を決めた。崖の上に伏兵を置き、街道の死角を埋めた。負傷した時の退路を、岩山の裏に一本、密かに開けておいた。
兵に、声をかけて回った。怯えるな。この砦は、地形が守ってくれる。お前たちは、やるべきことをやればいい。それで、勝てる。
兵の目に、光が戻った。私は、それを確かめてから、城壁へ上った。
寄せ手が、見えた。
遠くに、黒い帯。地平を埋めて、こちらへ伸びてくる。旗が、林のように立っている。大軍だ。だが、それでいい。大軍ほど、この砦の前では足が止まる。街道は細い。崖は高い。数の多さは、ここでは武器にならない。
私は、息を整えた。来るなら、来い。
◆
帯が、近づいてきた。
近づくにつれ、私の腹の底が、冷えていった。
旗を立てているのは、兵では、なかった。
布をまとっただけの、痩せた人影。手も足も縛られてはいない。だが、その背に立つ者がいる。馬上の、弓を持った者が。
先頭の一群が、街道のなかばで止まった。私は、目をこらした。女がいる。子供がいる。老人がいる。みな、こちらを見上げていた。怯えた目で。すがるような目で。
西の村の、民だ。先に落ちた村から、狩り集められてきた者たちだった。
寒気が、背を這い上がった。
敵は、攻めてこない。
民を、前に出してきた。
◆
その日から、奇妙な攻めが始まった。
敵は、城壁に取りつかない。代わりに、民を働かせた。
砦の前には、深い空堀がある。寄せ手を阻む、最初の壁だ。その堀を、民が埋め始めた。土を詰めた袋を背負い、よろめきながら運んでくる。一人が、いくつ運ぶか。決められているらしい。運ぶ量が足りぬ者がいると——馬上の者の弓が、鳴った。
倒れた者は、起こされない。そのまま、堀の底へ落とされる。
埋まらぬ土の足りない分を、その身で埋めるように。
私の隣で、若い兵が、弓を構えた。手が、震えていた。
「隊長。撃ち、ますか」
私は、答えられなかった。
堀を埋めているのは、敵では、ない。私たちが守るべき、民だ。撃てば、同胞を殺す。撃たねば、堀が埋まり、砦が裸になる。
馬上の者は、それを知っている。だから、民を盾にした。私の正しさを、私の手で殺させるために。
「撃つな」
私は、言った。声が、掠れた。
「……まだ、撃つな」
言いながら、私は、自分が何を言っているのか分からなくなった。撃たぬことが、正しいのか。撃つことが、正しいのか。定石には、ない。兵書の、どこにも、なかった。
堀は、一日で、半分埋まった。
夜のうちに、残りが埋まった。何で埋まったのかは、朝になって分かった。私は、それ以上、堀を見なかった。
私は、なお、定石を打った。
堀が埋まる前に、討って出ることにした。民を脅す馬上の者だけを、夜陰に紛れて、崖の死角から突く。民には、手を出さない。脅す者を散らせば、攻めは止まる。理に、適っている。
精鋭を選び、月のない夜を待って、裏の間道から出した。
半刻で、半数が戻ってきた。
待ち伏せられていた。間道の出口に、すでに弓が並んでいた。こちらが夜襲をかけることも、どの道を使うことも、向こうは知っていた。
私は、伏兵を増やした。崖の上の伏兵が、突かれた。
退路を、確かめに行かせた。岩山の裏の、あの一本道に、すでに敵がいた。
水を断たれぬよう、井戸を厚く守らせた。敵は、井戸を狙わなかった。狙う必要が、なかったからだ。
私は、城壁に立って、考え続けた。
なぜ、全部、読まれている。私の打つ手の、一つ残らずを。
奇手なら、外れる。だが私は、奇手を打っていない。定石だけを打っている。誰が見ても、これしかない、という手を。
——そうか。
背筋が、凍った。
誰が見ても、これしかない手。だから、向こうは、待っていられる。私が「正しい手」を打つと、分かっているから。
定石は、裏切らない。その通りだった。だから、向こうは、裏切られない。私の正しさが、そっくりそのまま、向こうの読みになっていた。
倒すべき相手が、どこにもいなかった。
あの馬上の者を、何人斬っても、攻めは止まらない。これは、一人の将が動かしている軍では、ない。一つの、冷たい仕掛けだ。人が死ぬことすら、その仕掛けの、歯車の一つに過ぎない。
私は初めて、勝てない、と思った。
◆
最後の朝が、来た。
埋まった堀の上を、民が、押し出されてきた。後ろから、武器で。城壁へ向かって、走らされていた。
梯子が、立てかけられた。登ってくるのも、民だった。泣きながら、登ってくる。登らねば、後ろから射られる。登れば、こちらが射る。
「隊長」
兵が、私を見た。みな、私を見ていた。命じてくれ、と、その目が言っていた。命じてくれ。撃て、と。撃つな、と。どちらでもいい。決めてくれ、と。
私は、剣を抜いた。
「——構え」
声が、出た。自分の声とは、思えなかった。
兵が、射た。
城壁の下で、悲鳴が上がった。子供の、声だった。
次の瞬間、私の兵の何人かが、弓を取り落とした。膝をついた者がいた。吐いた者がいた。同胞を射た手で、もう、次の矢を番えられない。
その隙を、敵の本隊が、突いてきた。
民の壁の、後ろに隠れていた、本物の兵が。崩れた一点へ、なだれ込んできた。
砦は、外から落ちたのでは、なかった。
内側から、崩れた。守る者の、心の方から。
◆
私は、最後まで、戦った。
崩れた兵を立て直そうとした。立たなかった。退路へ走らせようとした。退路は、塞がれていた。剣を振った。何人、断ったかは、覚えていない。左の肩に、衝撃が来た。膝が、石畳を打った。
囲まれた。槍の穂先が、私の喉の前で、止まった。
殺される、と思った。
殺されなかった。
縄が、私の腕を縛った。引き立てられて、城門を出た。
外に、私の砦の兵が、座らされていた。生きている者は、選り分けられていた。鍛冶を打てる者。傷を縫える者。石を組める者。そういう者だけが、一方へ集められ、縄で繋がれていく。次の戦のための、道具として。
それ以外の者が、どうなるのかは——私は、見なかった。見ないようにした。
ただ、遠くの平原で、何かが積み上げられていくのが目の端に映った。赫い色をした、低い塔のようなものが。私は、そちらへ、目を向けなかった。向けてしまえば、もう、立っていられない気がした。
◆
私の前に、一人の男が、馬を寄せた。
外つ国の、位の高い者らしかった。私の顔を、しげしげと見た。値を、踏むように。それから、何ごとかを、傍らの者に告げた。
縄が、緩められた。乱暴には、扱われなかった。私だけが、他の捕虜とは、別の方へ連れていかれた。
布をかけられ、馬に乗せられた。誰も、私を傷つけなかった。丁寧、とすら言えるほどに。
その丁寧さの意味を、私は、悟った。
殺されないのは、許されたからでは、ない。私が、女で、貴族で、見られて値のつく顔をしているから。それだけのことだ。命でなく、別の値で、量られた。斬られた兵たちより、私が惜しまれたのでは、ない。私は、別の檻に入れられる。それだけだ。
生かされる方が惨いということが、この世には、ある。
私は、それを、いま知った。
縛られた手を、私は、握りしめた。
定石は、裏切らない。そう信じて、二十年、生きてきた。砦を守るために要ることを、私は一つ残らず正しくやった。地形を読み、水を数え、兵を立て、退路を引いた。間違いは、なかった。
なのに、砦は落ちた。兵は死んだ。民は、道具にされた。私は、別の檻へ運ばれていく。
正しくやって、なお、これだ。
ならば、何が、足りなかったのか。
あの仕掛けに、どうやったら、勝てたのか。
答えは、出なかった。考えても、考えても、出口が見えなかった。
馬が、揺れる。砦が、後ろへ、遠ざかっていく。
私は、誰にともなく、問うた。
——どうやったら、こんなものに、勝てるのだ。
答える者は、いなかった。
草の海を渡る風が、私の頬を、冷たく撫でていった。





