第45話「任官の命」
その明け方、私は、丘の縁に、立った。
ナダの骨を埋めた、丘だ。海の方を、見た。残った左の目で。夜が、明けはじめていた。空の縁が、白んでいく。けれど、その白みのもっと向こう、海の向こうの空に、別の明るさが、あった。
赤い、明るさだ。
夜明けの白ではない。もっと、低く、濁った赤だ。空の縁が、熾火のように、鈍く、燃えている。風が、海を渡って、こちらへ、かすかに、焦げた匂いを、運んできた気がした。気のせいかもしれない。海は、広すぎる。けれど、その赤を見ていると、鼻の奥が、焦げ臭くなった。
戦火だ、と私は思った。本土の方角だ。麦が軍へ流れ、値が跳ね、人が飢える、その戦が、もう、始まっていた。遠くの空が、夜明けではない赤さで、滲んでいた。火が、上がっているのだ。村が、燃えているのか、町が、焼かれているのか。それは、分からなかった。ただ、遠くの空が、赤い。私の網も、私の数えも、私の回す手も、届かない遠さで、戦が、始まっていた。
私は、しばらく、その赤い空を、見ていた。
止められなかった。読めても、止められなかった。各地の数を繋いで、盤の絵を、紙の上に立ち上がらせても、その盤は、止まらなかった。遠くで、戦火が、上がっている。その火の下で、人が、剣で死に、飢えで死に、帳簿でも、死んでいく。私は、それを、丘の縁から、見ているだけだった。
樫の棒の握りの、灰の字を、てのひらで、確かめた。
◆ ◇
丘を下りると、館の門の前に、見慣れない男が、立っていた。
身なりが、整っていた。商人ではない。兵でもない。役所の使いだ。腰に、革の筒を提げている。書状を運ぶ筒だ。その男が、私を見て、たったひとつの腕と、片目を確かめるように見た。それから、革の筒から、一通の書状を取り出した。
封が、してあった。
赤い蝋に、印が、押してある。指で触れると、蝋の縁が、爪に、硬い。革の筒は、使いの男の体温で、まだ、すこし、温かかった。長い道を、この筒に入れて、運ばれてきた書状だ。領主の印だ。本土の、領主の。私は、それを、見た。ばらばらの数を、繋いで、盤の絵を読んだ私を、誰かが、見ていたらしかった。各地に網を張り、物を回し、数を集める、無名の隻腕の女商人を。私は、公の場で、固有名を立てたことがない。名は、樫の棒の握りの内側に、しまってある。けれど、名を立てなくても、その手の働きは、誰かに、読まれていた。
使いの男が、書状を、差し出した。
「商館の主に。任官の、命だ」
任官。
私は、その言葉を、聞いて、しばらく、動かなかった。書状を、たったひとつの手で、受け取る。革の筒の温さが、まだ、残っていた。封を、開けようとして、私は、すこし、手を止めた。
戦が、始まった。麦が、軍へ流れ、値が跳ね、人が飢える。盤は、止まらない。私は、それを、読んだ。けれど、止められなかった。商人では、止められなかった。
そこへ、任官の命が、届いた。
商人として、世界の外から、盤を読んでいた私を、誰かが、盤の上へ、呼んでいた。封を、開ければ、その先に、何が書いてあるか。私は、まだ、知らなかった。けれど、書状の重みが、たったひとつのてのひらの上で、これまでのどの銀よりも、重かった。
奪う手だった。回す手に、なった。そして、いまは、読む手だ。どれも、盤の外の、手だった。この一通は、その手を、盤の上へ、引き入れようとしている。
遠くで、戦火が、上がっていた。
私は、封のされた書状を、握ったまま、その遠い赤を、もう一度、見た。盤は、見えない。けれど、その盤の上へ、私は、呼ばれていた。読むだけだった私が、盤の上のひとつの駒として。





