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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第44話「剣で死ぬ。飢えで死ぬ。帳簿でも死ぬ。」


 ナダを丘に埋めて、何日かが、過ぎた。


 骨を、丘に納めた。カラスの骨を埋めた、あの丘の近くだ。穴に縦線、丘に骨。そして、丘に、もうひとつ。古い船乗りの骨が、本土の土の中で、海を見ていた頃の地図を抱えて眠っている。手放すべきものを、私は、また、ひとつ、手放した。


 そこへ、戦の報せが、本格に、届きはじめた。


 海の向こうで、ナダが、最初に聞いてきた報せだ。本土で、戦が始まる、と。あれは、まだ、噂だった。けれど、丘に帰ってみると、それは、もう、噂ではなかった。


 トビの便りが、いちばん早く、届いた。


 各地の噂を集める男だ。その便りに、戦の支度のことが、書いてあった。どこそこの領主が、兵を集めている。どこそこの関所が、閉じられた。麦が、買い占められている。鉄が、武具に変わっている。街道を、兵の列が、通りはじめた。便りの字は、トビの走り書きだった。急いで、書いたのが、分かる字だった。


 戦が、どこから始まるのかは、書いていなかった。


 誰と、誰が、なぜ戦うのか。トビの便りにも、それは、なかった。領主たちが、兵を集めている。けれど、その兵を、誰が、どこへ向けるのかは、まだ、見えない。旗が、まだ、立っていない。けれど、麦は、もう、軍へ流れ、鉄は、もう、刃に変わっている。旗が立つより先に、戦の支度だけが、始まっていた。支度が、戦を呼んでいた。


 ガロの網も、報せを、寄越した。関所筋を通る荷の量が、変わった、という。麦が、市から、軍へ、流れはじめた。塩も、鉄も。荷の行き先が、ひとつ、ふたつと、軍の方へ傾いていく。ガロが各地に作った、諜報の網の結び目のひとつひとつが、同じことを寄越してきた。荷が、軍へ、流れている、と。


 戦が、始まる。


  ◆  ◇


 私は、卓の上の、数の束を、もう一度、開いた。


 麦の値が、跳ねていた。各地で、いっせいに。東の宿場でも、西の市でも。海の向こうの青の都でも。麦の値が、軍の方へ流れる物の量に押されて、ひと月で、倍になり、また倍になっていた。ヒナの数えが、それを、几帳面に書き写していた。日付ごとに、横へ。値が、坂を駆け上がっていく。


 値が、跳ねれば、買えない者が、出る。私は、それを、青の都で、見た。麦はあるのに、人が死ぬ。戦は、人より先に、軍が、麦を、食う。青の都の路地で見た、あの餓死体が。これから、各地で、増える。海を渡って、本土まで、広がる。


 止められないか、と私は思った。


 私は、商人だ。物を回す手を持っている。各地に、散った七つの網がある。値の安い土地から買って、高い土地へ運び、すこしでも、飢えを薄められないか。私は、卓の上で、その算段をはじめた。たったひとつの手で、数の束を繰り、どこに麦が余り、どこで麦が足りないかを辿った。


 まず、ひと荷を、回してみた。


 西の市の町に、まだ、麦が余っていた。リンの寄越した数で、それが分かった。そこから、麦を、買えなくなった東の村へ、ひと荷、回す。トビの足を使い、ガロの網の関所を抜けて、運ぶ。値は、安く据える。儲けは、出ない。出さなくていい。飢えを、ひと村ぶんだけ、薄められれば、それでよかった。


 けれど、その荷は、村に、届かなかった。


 途中の関所で、軍が、止めた。麦は軍が買う、と。値は、軍が決める。荷を運んでいたトビの仲間は、麦を取り上げられ、軍の値の銀を握らされて、帰ってきた。盗まれたのではない。買われたのだ。法の通りに。値段を、決められて。私が、村へ届けようとした麦は、村の手前で、軍の口へ消えた。


 無理だ、と私は思った。


 戦は、麦を、根こそぎ、食う。私の網が、ひと荷の麦を、飢えた土地へ回しているあいだに、軍は、百荷の麦を買い占めていく。私の手は、ひとつだ。網は、細い。戦という大きな手の前では、私の回す手は、川に落とした、一握りの砂のようなものだった。


 砂を、いくら撒いても、川は、止まらない。それを、私は、ひと荷の麦を奪われて、手で知った。青の都で、合法の壁に、口を閉じたとき。あのときは、まだ、言葉の負けだった。今度は、手の負けだ。物を回す、その手が、戦の前では、何も回せなかった。


  ◆  ◇


 その夜、私は、卓の前で、長く、動かなかった。ヒナが、灯火を、近くへ寄せた。ネネが、湯を、運んできた。けれど、私は、数の束を、見たまま、動かなかった。


 値段を決めただけだ、と、あの男は言った。麦を握り、値を決め、買えない者が死ぬ。それでも、その手は、法のどこにも、触れていない。青の都で、私は、その壁の前で、口を閉じた。盤に、負けた。


 戦も、同じだった。戦が始まれば、麦の値が、跳ねる。値が跳ねれば、麦を握る者の銀が、増える。誰かが、死ぬあいだに、誰かが、儲ける。麦の値で人を飢えさせたのと、同じ手が、戦という、もっと大きな盤の上で、回りはじめていた。同じ、駒の並べ方だ。


 怒りは、もう、湧かなかった。いちばん深く怒ると、私の顔は、能面のように、何もなくなる。穴の底で、岩になっていく仲間を見ても、泣けなくなった、あの顔だ。戦の支度の数を読みながら、怒りは、また、顔の奥のもっと底に、沈んでいた。


 私は、その盤を、止めたかった。けれど、止められなかった。剣なら、振れた。盗賊なら、奪えた。けれど、戦の前では、商いさえ、できなかった。商人では、世界を、回せても、戦を、止めることは、できなかった。


 私は、たったひとつの手で、樫の棒の握りの灰の字を確かめた。あると知っている重さが、すこしだけ、重かった。けれど、その重さは、何の力にもならなかった。樫の棒は、戦を止められない。


 灯火が、揺れていた。卓の上の数の束が、その揺れる火に照らされていた。各地から届いた、ばらばらの数。麦の値。荷の量。船の積荷。その数のいちばん上で、誰かが、戦を回そうとしていた。私は、その誰かを、まだ、掴めなかった。掴めないものは、止められない。


 止められない。それは、もう、分かっていた。けれど、止められないからといって、見ないでいることは、できなかった。何に負けたのか。誰が、この盤を回しているのか。せめて、それを、読んでおきたかった。


  ◆  ◇


 私は、卓の上の、数の束を、すべて、広げた。


 散った七つから届いた、ばらばらの数を。サイの寄越した、東の宿場の麦の値。リンの寄越した、西の市の布と薬草の動き。トビの噂。ガロの網の荷の量。ナダが最後まで集めていた、港の船と、その積荷。そして、私が、海の向こうで写し取った、青の都の帳簿の写し。卓の半分を、紙が、埋めた。


 ヒナと二人で、それを、並べていった。


 何日も、かかった。たったひとつの手で、紙の端を銀の杯で押さえ、ヒナが、墨を磨り、数を、横へ、書き出していく。ばらばらの数を、ひとつの紙の上に、並べる。麦の値と、船の積荷と、戦に流れる物の量を。ナダが、半分だ、と言った、数えのもう半分。数えた数を、繋ぐ、という仕事を。私は、ヒナと二人で、はじめた。


 並べていくと、数が、繋がりはじめた。


  ◆  ◇


 最初に繋がったのは、麦の値と、餓死者の数だった。


 青の都で、私は、餓死者の数を、数えはじめていた。名前。年齢。人数。麦はあるのに、値で死んだ者たちの数を。あれは、向こうの帳面の、いちばん下の段だった。誰の帳面にも載らない、数えから外された者たちの、数。


 その数が、麦の値の列と、ぴたりと、重なった。


 麦の値が、跳ねた月に、餓死者が、増えていた。値が、坂を駆け上がるたびに、その坂の下で、人が、岩になっていた。値の列の裏に、死人の列が、走っていた。青の都だけではなかった。東の宿場でも、西の市でも、海を渡った各地でも。麦の値が跳ねた土地で、同じように、人が、死んでいた。サイの数と、リンの数と、青の都の数が。同じ顔をしていた。


 次に繋がったのは、麦の流れと、銀の流れだった。


 麦が、市から、軍へ流れる。その荷の量を、ガロの網が、寄越していた。ナダの港の数えが、その麦を運ぶ船を数えていた。麦が、軍へ流れれば、麦を握る者の銀が、増える。その増えた銀が、どこへ流れるか。青の都の帳簿の写しに、それが、書いてあった。麦の値で増えた銀が、形を変えて、金融の家へ、上っていく。利息になり、保険になり、証文になって。


 そして、その証文が、戦の支度を、支えていた。


 兵を集めるには、銀がいる。武具を作るには、銀がいる。その銀を、誰が、貸しているのか。麦の値で増えた銀が、証文に変わって、戦の支度に、貸し付けられていた。戦が、麦の値を、跳ねさせる。跳ねた値が、銀を、増やす。増えた銀が、戦を、支える。輪に、なっていた。戦が、銀を生み、銀が、戦を回す。その輪の中で、人が、飢えで、死んでいた。


 全部が、繋がった。


  ◆  ◇


 私は、繋がった数を、卓の上に、広げて、見ていた。


 ばらばらだった数が、いまは、ひとつの大きな絵に、なっていた。麦の値。死人の数。荷の量。船の積荷。証文。戦の支度。それが、一本の太い流れに、なって、繋がっていた。剣で死んだ者の数も、その流れの中に、あった。飢えで死んだ者の数も。そして、帳簿に載った、契約書の数も。


 剣で死ぬ。


 飢えで死ぬ。


 帳簿でも、死ぬ。


 三つの死が、同じ流れの中に、あった。剣で殺された者と、飢えで殺された者と、帳簿で殺された者。死に方は、違う。けれど、その死を、数えていくと、同じ流れのいちばん上に、行き着いた。麦を握り、値を決め、戦を回す、その流れのいちばん上に。


 誰が、得をしたか。


 私は、繋がった数を、上へ、辿った。死人が増えるたびに、誰の銀が、増えたか。値が跳ねるたびに、誰の証文が、太ったか。戦が支度されるたびに、誰の手に、銀が、流れ込んだか。数は、嘘を、つかない。形は化けても、目方は、繋がっている。私は、その目方を、上へ、上へと、辿った。


 辿った先で、数の流れは、また、崖のように、切れていた。


 青の都で見た、あの崖だ。書いてある数の向こうに、書いていない流れが、ある。その崖の向こうは、夜だった。けれど、今度は、前より、すこし、見えた。崖の手前まで、数が、繋がっていた。誰が、得をしたか。その問いの答えは、崖の向こうに、あった。けれど、崖の手前の数が、その向こうの輪郭を、すこしだけ、照らしていた。


  ◆  ◇


 あの夜のことを、いまなら、書ける。


 私は、卓の前で、繋がった数を、見ていた。九十七年、経って、いまでも、あの数の絵を、私は、思い出せる。剣で死ぬ。飢えで死ぬ。帳簿でも死ぬ。三つの死が、一本の流れに繋がった、あの夜のことを。


 あれは、私が、初めて、盤の絵を、紙の上に、見た夜だった。


 穴の底で、私は、盤を、半分、知っていた。向こうの帳面。番号を書き込み、人を岩にする帳面。あれが、盤だった。けれど、底からは、盤の全体は、見えなかった。いま、各地から届いた数を、繋いで、私は、ようやく、盤の絵を、紙の上に、立ち上がらせた。掴めなかった盤の輪郭を。


 遠くで、カラスの声が、した気がした。


 言葉のない男だ。あの男は、読めない帳面を懐に抱えたまま、誰にも自分を読ませずに、死んだ。あの男は、口で何も教えなかった。けれど、あの二年で、私は、手で覚えた。去る時は、来た時より静かに。読めない帳面は、捨てるな。数を、数えろ。その声が、いま、卓の上の数の絵の向こうで、した気がした。


 懐に、まだ、薄い帳面が、あった。


 カラスの遺品だ。読めない帳面。私は、たったひとつの手で、それに触れた。胸の内側で、それは、ずっと、温い。読めもしないのに、捨てられない。各地の帳簿は、繋がった。麦の値も、死人の数も、銀の流れも、読めた。けれど、この薄い帳面だけは、いまも、読めなかった。繋がった数の絵を、前にしても、この帳面の文字だけは、開いても、読めない。


 私は、それを、閉じて、また、懐に、しまった。


  ◆  ◇


 分かった、と私は思った。


 盤は、ある。麦を握り、値を決め、人を飢えさせ、戦を回す、その盤は、ある。各地の数を繋いで、私は、その輪郭を、紙の上に、立ち上がらせた。誰が、得をしたか。剣で死に、飢えで死に、帳簿で死んだ者たちの、その死で、誰の銀が、増えたか。私は、その問いを、立てた。立てて、崖の手前まで、辿った。





 分かった。





 だが、まだ、届かない。





 崖の向こうは、夜だった。


 負けた盤を、私は、読んだ。


 けれど、読んだだけだった。止められない。断てない。その手に、届かない。剣の届かない国のいちばん奥に、盤のいちばん上の手が、あった。私は、その手を、紙の上で、すこし、照らした。それが、私の辿り着いた、いちばん奥だった。分かった。だが、まだ、届かない。

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