第43話「誰が得をしたか」
ナダが私を呼んだ。
帰った翌朝のことだ。
館の奥のいちばん日の当たる部屋に、ナダは寝ていた。
寝台というほどのものではない。
藁を厚く敷いた、低い床だ。
古い船乗りは、その上に薄い布をかけて、横になっていた。
背は、いっそう曲がっていた。
海を見ていた頃の鋭さを残していた目が、いまは半分閉じている。
私が海を渡っているあいだに、ナダは衰えていた。
ネネが枕元に座っていた。
傷の治りの早い体を持つ女だ。
けれど、その女の手当てでも、ナダの衰えは止められなかった。
これは、傷ではないからだ。
傷なら、治る体がある。
けれど、年は、傷ではない。
ゆっくりと満ちて、引いていく潮のようなものだ。
ナダの潮は、もう引きはじめていた。
「来たか」
ナダがしわがれた声で言う。
ガロと、同じ言葉だ。
けれど、声には、もう張りがない。
値の話になると、海を見ていた頃の張りが戻る声だった。
その張りが、いまは聞こえない。
「ただいま」
私は床の脇に膝をついた。
たったひとつの手を、ナダの節くれだった手の上に置く。
海の綱を何十年も握ってきた手だ。
乾いて、固くて、温かい。
まだ、生きている手の温かさだった。
掌に、いくつも綱の胼胝が残っている。
海の上で、この手が幾度、綱を手繰り、舵を握ったのだろう。
その手が、いまは薄い布の上に、静かに投げ出されていた。
窓から、朝の光が細く差して、その胼胝の一つずつを照らしていた。
「負けたな」
ナダが、言った。
問いではなかった。
「負けた」
私は、答えた。
ナダには、隠さなかった。
掴めなかった盤のことを、合法の壁のことを、各地から届いた数の束のことを。
低い声で、すこしずつ話した。
ナダは、目を半分閉じたまま、聞いていた。
話し終えると、ナダは、すこし笑ったように見えた。
「お前は、若い頃、水を、数えた」
ナダが、言った。
「水場の水が、どこから来て、どこへ消えるか。誰が、上で、堰き止めてるか。それを、底で覚えた、と言ったな」
「ああ」
「同じだ。麦も、銀も、戦も。上で、堰き止めてる手が、ある。お前は、それを、数で辿ろうとしてる。間違っちゃ、いねえ」
ナダの声は、低かった。
けれど、その低さの中に、二十年、私が写し取ってきた、あの値の地図が、まだ生きていた。
「ただ、お前ひとりじゃ、辿れねえ。数が、多すぎる。海も、広すぎる」
ナダは、すこし息を継いだ。
喋るのが、もう苦しいらしい。
それでも、続けた。
「数を、辿るときはな。麦を、見るんじゃ、ねえ。麦が、消えた先を、見ろ。船を、見るんじゃ、ねえ。船が、どこから来て、誰の懐を、太らせたかを、見ろ。物は、嘘を、つく。だが、誰が得をしたかは、嘘を、つかねえ」
誰が得をしたか。
私はその言葉を胸に留めた。
ナダの最後の値の知恵だった。
物を辿るのではない。
得をした者を辿る。
海を見ていた頃、この男は、そうやって港の値を読んできたのだろう。
どの船が高く売れたか、ではない。
誰がその船で、いちばん儲けたか。
それを読む目が、この古い船乗りのいちばんの財だった。
◆ ◇
ナダは、枕元の木札に手を伸ばした。
数えの木札だ。
ヒナがいつも腰に提げている、あの札と同じものだ。
けれど、これは、もっと古かった。
元の札だ。
ナダが船乗りだった頃から刻み続けてきた、いちばん古い数えの札。
人数の段と、その下の年の段。
私の歳も、八人の散った先も、すべてこの札の系統から数えられてきた。
ナダは、その古い札をてのひらに載せた。
「ヒナ」
ナダが、呼んだ。
ネネの後ろに控えていたヒナが進み出て、床の脇に膝をついた。
もう、見上げる子供ではない。
背は私を追い越し、声も低くなった。
十二の年に拾った痩せた子が、いまは私の片腕だ。
腰には、ナダから受け継いだ新しい数えの木札を提げている。
「お前は、もう、数えてる」
ナダが、言った。
「人数を、年を、麦の値を。俺が教えたことは、お前の中に、ぜんぶ、ある。だが、まだ、半分だ」
「半分」
ヒナが、繰り返した。
「数えるのは、覚えた。だが、数えた数を、繋ぐのは、まだだ。麦の値と、船の積荷と、戦に流れる物の量を。ばらばらの数を、ひとつの紙の上に、並べて、読む。それが、数えの、もう半分だ」
ナダは、古い札をヒナの方へ差し出した。
「これを、お前に、渡す」
ヒナは、その札を受け取らなかった。
すぐには。
床の脇で、膝をついたまま、その古い札を見ていた。
受け取れば、ナダが自分のものをすべて手放したことになる。
ヒナは、それを分かっていた。
「俺は、もう、海を見ねえ」
ナダが、言った。
静かな声だった。
「目を閉じても、もう、港の値が、見えねえ。地図が、消えちまった。お前の中には、まだ、ある。なら、これは、お前のものだ。俺が持ってても、もう、刻めねえ」
ヒナは両の手を伸ばした。
古い数えの札を受け取る。
指の腹で、刻みの溝をなぞる。
ナダが何十年もかけて刻んだ、いちばん古い溝だ。
新しい札と、古い札。
二枚を、ヒナはてのひらで並べた。
同じ系統の数えだった。
古い溝から、新しい溝へ、数えはつながっていた。
数えが、ヒナの手に渡った。
完全に。
ナダは、もう何も握っていなかった。
船乗りの手は、空になっていた。
けれど、その空の手は、安らかに見えた。
手放すべきものを、手放した手だ。
私の樫の棒の握りに、灰の字がしまわれているように。
ナダの数えは、ヒナの札の中にしまわれた。
消えたのではない。
渡ったのだ。
「これで、いい」
そう言って、ナダは、目を閉じた。
◆ ◇
その日の夕方、ナダは、眠るように、息を引き取った。
苦しむ声は、なかった。
叫ぶ声も、なかった。
日の当たる部屋で、薄い布をかけて、横になったまま、潮が引くように、静かに、いなくなる。
ネネが、枕元で、その息の止まるのを見届けた。
私は、床の脇で、たったひとつの手を、ナダの手の上に置いていた。
乾いて、固い手が、すこしずつ、温かさを手放していく。
穴の底で、私は、いっぺんに失うことを覚えた者だ。
十二人が、ひと冬で、岩になった。
飢えと寒さで、抗うこともできずに。
あれが、私の知っている人の終わり方だ。
もぎ取られる終わり方。
けれど、ナダの終わり方は、違った。
もぎ取られたのではない。
数えを、ヒナに渡して、空の手になって、潮が引くように、静かに、いなくなった。
これは、岩になる、ではなかった。
私はナダの手を、しばらく握っていた。
冷えていく手を。
けれど、その冷たさは、穴の底で覚えた岩の冷たさとは違っていた。
これは、満ちて、引いた潮の冷たさだった。
引いた潮は、消えたのではない。
ヒナの札の上に、上がっていた。
古い溝から、新しい溝へ。
ナダの数えは、まだ生きていた。
窓の外で、ガロの火が燃えていた。
火を消さないことを覚えたのは、穴の底だった。
その火が、いまナダを送る火になっていた。
ガロは、火を絶やさない。
ナダは、数えを渡しきった。
守るものと、渡すものが、同じ館の中にあった。
ナダは、もう、いない。
けれど、ナダの数えは、ヒナの手の中で、つながったままあった。





