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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第43話「誰が得をしたか」


 ナダが私を呼んだ。


 帰った翌朝のことだ。


 館の奥のいちばん日の当たる部屋に、ナダは寝ていた。


 寝台というほどのものではない。


 藁を厚く敷いた、低い床だ。


 古い船乗りは、その上に薄い布をかけて、横になっていた。


 背は、いっそう曲がっていた。


 海を見ていた頃の鋭さを残していた目が、いまは半分閉じている。


 私が海を渡っているあいだに、ナダは衰えていた。


 ネネが枕元に座っていた。


 傷の治りの早い体を持つ女だ。


 けれど、その女の手当てでも、ナダの衰えは止められなかった。


 これは、傷ではないからだ。


 傷なら、治る体がある。


 けれど、年は、傷ではない。


 ゆっくりと満ちて、引いていく潮のようなものだ。


 ナダの潮は、もう引きはじめていた。


「来たか」


 ナダがしわがれた声で言う。


 ガロと、同じ言葉だ。


 けれど、声には、もう張りがない。


 値の話になると、海を見ていた頃の張りが戻る声だった。


 その張りが、いまは聞こえない。


「ただいま」


 私は床の脇に膝をついた。


 たったひとつの手を、ナダの節くれだった手の上に置く。


 海の綱を何十年も握ってきた手だ。


 乾いて、固くて、温かい。


 まだ、生きている手の温かさだった。


 掌に、いくつも綱の胼胝が残っている。


 海の上で、この手が幾度、綱を手繰り、舵を握ったのだろう。


 その手が、いまは薄い布の上に、静かに投げ出されていた。


 窓から、朝の光が細く差して、その胼胝の一つずつを照らしていた。


「負けたな」


 ナダが、言った。


 問いではなかった。


「負けた」


 私は、答えた。


 ナダには、隠さなかった。


 掴めなかった盤のことを、合法の壁のことを、各地から届いた数の束のことを。


 低い声で、すこしずつ話した。


 ナダは、目を半分閉じたまま、聞いていた。


 話し終えると、ナダは、すこし笑ったように見えた。


「お前は、若い頃、水を、数えた」


 ナダが、言った。


「水場の水が、どこから来て、どこへ消えるか。誰が、上で、堰き止めてるか。それを、底で覚えた、と言ったな」


「ああ」


「同じだ。麦も、銀も、戦も。上で、堰き止めてる手が、ある。お前は、それを、数で辿ろうとしてる。間違っちゃ、いねえ」


 ナダの声は、低かった。


 けれど、その低さの中に、二十年、私が写し取ってきた、あの値の地図が、まだ生きていた。


「ただ、お前ひとりじゃ、辿れねえ。数が、多すぎる。海も、広すぎる」


 ナダは、すこし息を継いだ。


 喋るのが、もう苦しいらしい。


 それでも、続けた。


「数を、辿るときはな。麦を、見るんじゃ、ねえ。麦が、消えた先を、見ろ。船を、見るんじゃ、ねえ。船が、どこから来て、誰の懐を、太らせたかを、見ろ。物は、嘘を、つく。だが、誰が得をしたかは、嘘を、つかねえ」


 誰が得をしたか。


 私はその言葉を胸に留めた。


 ナダの最後の値の知恵だった。


 物を辿るのではない。


 得をした者を辿る。


 海を見ていた頃、この男は、そうやって港の値を読んできたのだろう。


 どの船が高く売れたか、ではない。


 誰がその船で、いちばん儲けたか。


 それを読む目が、この古い船乗りのいちばんの財だった。


 ◆  ◇


 ナダは、枕元の木札に手を伸ばした。


 数えの木札だ。


 ヒナがいつも腰に提げている、あの札と同じものだ。


 けれど、これは、もっと古かった。


 元の札だ。


 ナダが船乗りだった頃から刻み続けてきた、いちばん古い数えの札。


 人数の段と、その下の年の段。


 私の歳も、八人の散った先も、すべてこの札の系統から数えられてきた。


 ナダは、その古い札をてのひらに載せた。


「ヒナ」


 ナダが、呼んだ。


 ネネの後ろに控えていたヒナが進み出て、床の脇に膝をついた。


 もう、見上げる子供ではない。


 背は私を追い越し、声も低くなった。


 十二の年に拾った痩せた子が、いまは私の片腕だ。


 腰には、ナダから受け継いだ新しい数えの木札を提げている。


「お前は、もう、数えてる」


 ナダが、言った。


「人数を、年を、麦の値を。俺が教えたことは、お前の中に、ぜんぶ、ある。だが、まだ、半分だ」


「半分」


 ヒナが、繰り返した。


「数えるのは、覚えた。だが、数えた数を、繋ぐのは、まだだ。麦の値と、船の積荷と、戦に流れる物の量を。ばらばらの数を、ひとつの紙の上に、並べて、読む。それが、数えの、もう半分だ」


 ナダは、古い札をヒナの方へ差し出した。


「これを、お前に、渡す」


 ヒナは、その札を受け取らなかった。


 すぐには。


 床の脇で、膝をついたまま、その古い札を見ていた。


 受け取れば、ナダが自分のものをすべて手放したことになる。


 ヒナは、それを分かっていた。


「俺は、もう、海を見ねえ」


 ナダが、言った。


 静かな声だった。


「目を閉じても、もう、港の値が、見えねえ。地図が、消えちまった。お前の中には、まだ、ある。なら、これは、お前のものだ。俺が持ってても、もう、刻めねえ」


 ヒナは両の手を伸ばした。


 古い数えの札を受け取る。


 指の腹で、刻みの溝をなぞる。


 ナダが何十年もかけて刻んだ、いちばん古い溝だ。


 新しい札と、古い札。


 二枚を、ヒナはてのひらで並べた。


 同じ系統の数えだった。


 古い溝から、新しい溝へ、数えはつながっていた。


 数えが、ヒナの手に渡った。


 完全に。


 ナダは、もう何も握っていなかった。


 船乗りの手は、空になっていた。


 けれど、その空の手は、安らかに見えた。


 手放すべきものを、手放した手だ。


 私の樫の棒の握りに、灰の字がしまわれているように。


 ナダの数えは、ヒナの札の中にしまわれた。


 消えたのではない。


 渡ったのだ。


「これで、いい」


 そう言って、ナダは、目を閉じた。


 ◆  ◇


 その日の夕方、ナダは、眠るように、息を引き取った。


 苦しむ声は、なかった。


 叫ぶ声も、なかった。


 日の当たる部屋で、薄い布をかけて、横になったまま、潮が引くように、静かに、いなくなる。


 ネネが、枕元で、その息の止まるのを見届けた。


 私は、床の脇で、たったひとつの手を、ナダの手の上に置いていた。


 乾いて、固い手が、すこしずつ、温かさを手放していく。


 穴の底で、私は、いっぺんに失うことを覚えた者だ。


 十二人が、ひと冬で、岩になった。


 飢えと寒さで、抗うこともできずに。


 あれが、私の知っている人の終わり方だ。


 もぎ取られる終わり方。


 けれど、ナダの終わり方は、違った。


 もぎ取られたのではない。


 数えを、ヒナに渡して、空の手になって、潮が引くように、静かに、いなくなった。


 これは、岩になる、ではなかった。


 私はナダの手を、しばらく握っていた。


 冷えていく手を。


 けれど、その冷たさは、穴の底で覚えた岩の冷たさとは違っていた。


 これは、満ちて、引いた潮の冷たさだった。


 引いた潮は、消えたのではない。


 ヒナの札の上に、上がっていた。


 古い溝から、新しい溝へ。


 ナダの数えは、まだ生きていた。


 窓の外で、ガロの火が燃えていた。


 火を消さないことを覚えたのは、穴の底だった。


 その火が、いまナダを送る火になっていた。


 ガロは、火を絶やさない。


 ナダは、数えを渡しきった。


 守るものと、渡すものが、同じ館の中にあった。


 ナダは、もう、いない。


 けれど、ナダの数えは、ヒナの手の中で、つながったままあった。

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