第42話「青いまま刈られた麦」
海を渡って、私は灰の村へ帰った。
青の都を出て、ピヴレ・ロッホの海をもう一度越えた。
行きの海は、豊かさへ向かう海だった。
帰りの海は、何も持ち帰れなかった者の海だった。
盤に、負けた。
掴めなかった盤に。
その負けを、私は潮に揺られながらずっと抱えていた。
船倉の暗がりで、ヒナが数えの木札を撫でているのが見えた。
私はたったひとつの手で、樫の棒の握りの灰の字を確かめた。
あると知っている重さが、すこしだけ重かった。
港に着いて、北街道を上って、丘へ向かう。
いつもの道だ。
けれど、何かが違って見えた。
私は奪われた者として、この道を歩いてきた。
次に、奪う者として。
それから、回す者として。
そして今、負けた者として、同じ道を戻ってくる。
道は、変わらない。
変わったのは、私の方だった。
道の途中、麦畑が刈り取られていた。
まだ、刈り入れの時季には早かった。
なのに、畑が空になっている。
穂は、青いまま刈られていた。
誰かが急いで刈り取っていったのだ。
残った株が、低く地から突き出ている。
私は足を止めて、その空の畑を見た。
青いうちに刈った麦は、まともな粉にはならない。
それでも、刈った。
買い手が、いるからだ。
値が、跳ねているからだ。
海の向こうの飢えが、もうこの道の畑にまで影を落としていた。
私が海を渡っているあいだに。
丘の天辺に、廃砦が見えた。
昔の砦が崩れたまま残っている。
けれど、もう、塒ではなかった。
崩れた壁の隙間に、新しい板が嵌めてある。
欠けた塔の根方に、低い屋根が足されている。
坩堝の煙がひと筋空へ昇っていた。
ガロの火だ。
二十年、絶やさなかった火が、いまは商館の火になって燃えている。
盗賊の塒が商人の館に変わっていた。
私が海の向こうで負けているあいだも、ここの火は消えていなかった。
石の村に、帰ってきた。
◆ ◇
門の前に、ガロが立っていた。
私の足音をいちばん先に聞きつける男だ。
耳が、いいわけではない。
ただ、待っていたのだ。
鍛冶の手を止めて、火の世話を誰かに任せて、丘の縁で海の方を見ていたらしい。
背の丸い岩のような体が、夕日を背にして立っている。
年を取って、もう若い頃の腕ではない。
けれど、その立ち姿は、二十年前と変わらなかった。
「来たか」
ガロは、それだけ言った。
挨拶というほどのものでもない。
私を見もしない。
火の方をすこし気にしている。
火を消さないことを、いまもこの男はいちばんに考えている。
「ただいま」
私は、答えた。
短く。
負けた、とは言わなかった。
言わなくても、ガロには分かったらしい。
私の歩き方を見て、何を持ち帰り、何を持ち帰れなかったかを読んだ。
鉄の良し悪しを見抜く目で、人の負けも見抜く男だった。
ガロは、何も訊かなかった。
ただ、館の中へ顎をしゃくった。
中で待っている者がいる、という合図だった。
私は、門をくぐった。
崩れた石組みの内側が商館に変わっていた。
かつて武具をしまった地下の室は、いまは品物の倉になっている。
見張りの石積みを崩した塔の下は、銀を鋳潰す火床になっていた。
あの日、ガロが言った通りだ。
坩堝も、鞴も、整っていた。
役所の刻みのある銀は、もうここで何度も無名の塊に変わったのだろう。
名のある銀が、名のない銀に。
奪った冷たさが、回す重さに。
ここで、すべてが始まったのだと、いまなら書ける。
◆ ◇
館の奥の一室に、卓があった。
その卓の上に、紙の束が積んであった。
私は、足を止めた。
残った左の目で、その束を見た。
何冊もの帳面。
巻いた羊皮紙。
木札の束。
封のされた書状。
麻紐で括られた、写しの山。
卓の上に、それがいくつも積み上がっていた。
一冊や、二冊ではなかった。
卓の半分が紙で埋まっていた。
ヒナが私の隣で、低く言った。
「散った七つから、届いたものだ」
散った七つ。
サイ、リン、トビ。
先に丘を下りた三人。
それから、ガロ、ナダ、ネネ、ヒナ。
核に残った四人。
八人がそれぞれの結節点に立って、二十年、銀と物を回してきた。
その七つの結節点から、便りが届いていた。
私が海の向こうで負けているあいだに。
「サイから、東の宿場の麦の値が」
ヒナが束をひとつずつ、指でなぞっていった。
「リンから、西の市の薬草と布の動きが。トビから、各地の噂と、人の動きが。ガロの網から、関所筋を通る荷の量が。ナダから、港に入る船と、その積荷が。みんな、数を寄越してきた」
私はその束を見ていた。
散ったのは、人だった。
けれど、散った先で、それぞれが数を集めていた。
麦の値。
荷の量。
船の積荷。
人の動き。
ばらばらの数だ。
東の宿場の麦と、西の市の布は、何の関係もないように見える。
けれど、それは、ヒナの数えの中でひとつの帳面に書き写されていた。
八人が散ったのは、いっぺんに失う散り方ではなかった。
散っても、数えてさえいれば、つながりは消えない。
ナダが、そう言った。
その通りになっていた。
散った七つは、ばらばらの数をひとつの卓の上へ運び込んでいた。
束の中に、ひとつ、別の手で書かれた紙があった。
几帳面な、細い字ではない。
私のたどたどしい字だ。
三本の指と親指で握った筆で、書いた字。
青の都の路地で、私が数えはじめた数だった。
名前。
年齢。
人数。
麦はあるのに、値で死んだ者たちの。
誰の帳面にも載らない、数えから外された者たちの、数。
あれを、私は海を渡る荷の底に入れて、持ち帰っていた。
捨てられなかった。
死んだ者の数を捨てるのは、もう一度、その者を数えから外すことだ。
だから、持ち帰った。
各地の数の束の上に、私はその死者の紙を重ねた。
名簿は、いちばん上になった。
私はたったひとつの手を、その束に伸ばした。
いちばん上の帳面を引き寄せる。
麻紐を三本の指と親指で、ほどく。
中を、開く。
几帳面な、細い字。
ヒナの字だ。
麦の値の列が、日付ごとに横へ並んでいた。
青の都で、私が読もうとして、崖のように切れた、あの数の列と。
同じ顔を、していた。
ここに、何かがある、と私は思った。
負けた盤を、私は掴めなかった。
けれど、その盤が、駒を動かした跡なら、数に、残る。
各地に散った七つが、それぞれの結節点から、数を寄越している。
その数を、全部、並べれば。
海の向こうで、私はそう思った。
その数が、いま、この卓の上に積み上がっていた。
まだ、読めなかった。
束は、あまりに多かった。
ひと晩で読めるものではなかった。
けれど、ここに盤の跡があるはずだった。
私は最初の一冊を、卓の上に開いたまま、しばらく見ていた。
読めない束を、前にして。
読める日が、来るかどうかも、分からないまま。
窓の外で、ガロの火が燃えていた。





