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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第42話「青いまま刈られた麦」


 海を渡って、私は灰の村へ帰った。


 青の都を出て、ピヴレ・ロッホの海をもう一度越えた。


 行きの海は、豊かさへ向かう海だった。


 帰りの海は、何も持ち帰れなかった者の海だった。


 盤に、負けた。


 掴めなかった盤に。


 その負けを、私は潮に揺られながらずっと抱えていた。


 船倉の暗がりで、ヒナが数えの木札を撫でているのが見えた。


 私はたったひとつの手で、樫の棒の握りの灰の字を確かめた。


 あると知っている重さが、すこしだけ重かった。


 港に着いて、北街道を上って、丘へ向かう。


 いつもの道だ。


 けれど、何かが違って見えた。


 私は奪われた者として、この道を歩いてきた。


 次に、奪う者として。


 それから、回す者として。


 そして今、負けた者として、同じ道を戻ってくる。


 道は、変わらない。


 変わったのは、私の方だった。


 道の途中、麦畑が刈り取られていた。


 まだ、刈り入れの時季には早かった。


 なのに、畑が空になっている。


 穂は、青いまま刈られていた。


 誰かが急いで刈り取っていったのだ。


 残った株が、低く地から突き出ている。


 私は足を止めて、その空の畑を見た。


 青いうちに刈った麦は、まともな粉にはならない。


 それでも、刈った。


 買い手が、いるからだ。


 値が、跳ねているからだ。


 海の向こうの飢えが、もうこの道の畑にまで影を落としていた。


 私が海を渡っているあいだに。


 丘の天辺に、廃砦が見えた。


 昔の砦が崩れたまま残っている。


 けれど、もう、塒ではなかった。


 崩れた壁の隙間に、新しい板が嵌めてある。


 欠けた塔の根方に、低い屋根が足されている。


 坩堝の煙がひと筋空へ昇っていた。


 ガロの火だ。


 二十年、絶やさなかった火が、いまは商館の火になって燃えている。


 盗賊の塒が商人の館に変わっていた。


 私が海の向こうで負けているあいだも、ここの火は消えていなかった。


 石の村に、帰ってきた。


 ◆  ◇


 門の前に、ガロが立っていた。


 私の足音をいちばん先に聞きつける男だ。


 耳が、いいわけではない。


 ただ、待っていたのだ。


 鍛冶の手を止めて、火の世話を誰かに任せて、丘の縁で海の方を見ていたらしい。


 背の丸い岩のような体が、夕日を背にして立っている。


 年を取って、もう若い頃の腕ではない。


 けれど、その立ち姿は、二十年前と変わらなかった。


「来たか」


 ガロは、それだけ言った。


 挨拶というほどのものでもない。


 私を見もしない。


 火の方をすこし気にしている。


 火を消さないことを、いまもこの男はいちばんに考えている。


「ただいま」


 私は、答えた。


 短く。


 負けた、とは言わなかった。


 言わなくても、ガロには分かったらしい。


 私の歩き方を見て、何を持ち帰り、何を持ち帰れなかったかを読んだ。


 鉄の良し悪しを見抜く目で、人の負けも見抜く男だった。


 ガロは、何も訊かなかった。


 ただ、館の中へ顎をしゃくった。


 中で待っている者がいる、という合図だった。


 私は、門をくぐった。


 崩れた石組みの内側が商館に変わっていた。


 かつて武具をしまった地下の室は、いまは品物の倉になっている。


 見張りの石積みを崩した塔の下は、銀を鋳潰す火床になっていた。


 あの日、ガロが言った通りだ。


 坩堝も、鞴も、整っていた。


 役所の刻みのある銀は、もうここで何度も無名の塊に変わったのだろう。


 名のある銀が、名のない銀に。


 奪った冷たさが、回す重さに。


 ここで、すべてが始まったのだと、いまなら書ける。


 ◆  ◇


 館の奥の一室に、卓があった。


 その卓の上に、紙の束が積んであった。


 私は、足を止めた。


 残った左の目で、その束を見た。


 何冊もの帳面。


 巻いた羊皮紙。


 木札の束。


 封のされた書状。


 麻紐で括られた、写しの山。


 卓の上に、それがいくつも積み上がっていた。


 一冊や、二冊ではなかった。


 卓の半分が紙で埋まっていた。


 ヒナが私の隣で、低く言った。


「散った七つから、届いたものだ」


 散った七つ。


 サイ、リン、トビ。


 先に丘を下りた三人。


 それから、ガロ、ナダ、ネネ、ヒナ。


 核に残った四人。


 八人がそれぞれの結節点に立って、二十年、銀と物を回してきた。


 その七つの結節点から、便りが届いていた。


 私が海の向こうで負けているあいだに。


「サイから、東の宿場の麦の値が」


 ヒナが束をひとつずつ、指でなぞっていった。


「リンから、西の市の薬草と布の動きが。トビから、各地の噂と、人の動きが。ガロの網から、関所筋を通る荷の量が。ナダから、港に入る船と、その積荷が。みんな、数を寄越してきた」


 私はその束を見ていた。


 散ったのは、人だった。


 けれど、散った先で、それぞれが数を集めていた。


 麦の値。


 荷の量。


 船の積荷。


 人の動き。


 ばらばらの数だ。


 東の宿場の麦と、西の市の布は、何の関係もないように見える。


 けれど、それは、ヒナの数えの中でひとつの帳面に書き写されていた。


 八人が散ったのは、いっぺんに失う散り方ではなかった。


 散っても、数えてさえいれば、つながりは消えない。


 ナダが、そう言った。


 その通りになっていた。


 散った七つは、ばらばらの数をひとつの卓の上へ運び込んでいた。


 束の中に、ひとつ、別の手で書かれた紙があった。


 几帳面な、細い字ではない。


 私のたどたどしい字だ。


 三本の指と親指で握った筆で、書いた字。


 青の都の路地で、私が数えはじめた数だった。


 名前。


 年齢。


 人数。


 麦はあるのに、値で死んだ者たちの。


 誰の帳面にも載らない、数えから外された者たちの、数。


 あれを、私は海を渡る荷の底に入れて、持ち帰っていた。


 捨てられなかった。


 死んだ者の数を捨てるのは、もう一度、その者を数えから外すことだ。


 だから、持ち帰った。


 各地の数の束の上に、私はその死者の紙を重ねた。


 名簿は、いちばん上になった。


 私はたったひとつの手を、その束に伸ばした。


 いちばん上の帳面を引き寄せる。


 麻紐を三本の指と親指で、ほどく。


 中を、開く。


 几帳面な、細い字。


 ヒナの字だ。


 麦の値の列が、日付ごとに横へ並んでいた。


 青の都で、私が読もうとして、崖のように切れた、あの数の列と。


 同じ顔を、していた。


 ここに、何かがある、と私は思った。


 負けた盤を、私は掴めなかった。


 けれど、その盤が、駒を動かした跡なら、数に、残る。


 各地に散った七つが、それぞれの結節点から、数を寄越している。


 その数を、全部、並べれば。


 海の向こうで、私はそう思った。


 その数が、いま、この卓の上に積み上がっていた。


 まだ、読めなかった。


 束は、あまりに多かった。


 ひと晩で読めるものではなかった。


 けれど、ここに盤の跡があるはずだった。


 私は最初の一冊を、卓の上に開いたまま、しばらく見ていた。


 読めない束を、前にして。


 読める日が、来るかどうかも、分からないまま。


 窓の外で、ガロの火が燃えていた。

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