第41話「駒じゃない。盤だ」
駒を、いくつ、辿っても。
その先に、また、駒が、あった。
倉の主。
金融の家。
認証の家。
黒い衣。
みんな、駒だった。
誰かがその駒を、列に並べていた。
麦をここに置き、銀をそこに置き、信用をあそこに置く。
人をここで飢えさせ、そこで生かす。
駒をひとつずつ置いていく手が、ある。
けれど、その手は、どの駒の中にもいなかった。
私は、ようやく、分かった。
断つべきは、駒では、なかった。
倉の主を断っても、別の倉の主が立つ。
金融の家を断っても、別の家が銀を回す。
黒い衣を断っても――それさえできはしないが――別の影が出入りする。
駒は、いくらでも替えがきく。
一つ断てば、一つ立つ。
私が商談で倉の主に勝っても、盤が動かなかったように。
駒を弾いても、盤は動かない。
私が、断ちたいのは。
駒では、なかった。
駒を並べている、その列だった。
麦を、ここに、銀を、そこに、人を、あそこに、と置いていく、その掟。
誰が生き、誰が飢え、誰が市から消えるかを、置いていく、その仕組みだった。
駒じゃない。
盤だ。
断つべきは、目の前の駒ではなかった。
この列を、この掟を、置いている盤そのものだった。
盤の上で、駒はいくらでも替えがきく。
けれど、盤がある限り、駒は、また並ぶ。
麦は、また、握られる。
人は、また、飢える。
私が駒をいくつ弾いても、盤が、そこにある限り、飢えは終わらない。
穴の底で、私はそれを半分、知っていた。
穴を握っていたのは、看守ではなかった。
看守は、駒だった。
看守の上に、向こうの帳面があった。
番号を書き込み、誰を生かし、誰を岩にするかを決める帳面。
あの帳面が、盤だった。
看守を一人倒しても、帳面がある限り、別の看守が立った。
私は穴の底で、それを半分、感じていた。
けれど、底からは、盤の全体は見えなかった。
いま、商いの国の上流を辿って。
私はその盤の輪郭に、初めて手を伸ばした。
◆ ◇
けれど、手は、届かなかった。
盤が、ある、とは分かった。
駒の列の向こうに、それを置いている手が、ある、とは。
けれど、その盤が何なのか、私には掴めなかった。
黒い衣の向こうに、何があるのか。
誰がこの盤を置いているのか。
商館同盟なのか、それとも、もっと別の何かなのか。
辿れる糸は、黒い衣で切れていた。
崖のように。
その崖の向こうは、夜だった。
私は盤のふちに、たったひとつの手を伸ばした。
けれど、なぞる端から、それは夜に溶けていった。
ここに、ある、と分かるのに、形が掴めない。
冷たい水の面を、すくおうとするようだった。
手のひらに、すこし残るのに、すくい上げた途端、指の間からこぼれていく。
掴めないものに、刃を向けてはならない。
それも、カラスから手で覚えたことだった。
見えない敵に踏み込めば、囲まれて、崩れる。
断ちたい、と思った。
麦を握り、人を飢えさせ、信用で人を消し、戦を回す、この盤を。
けれど、見えないものは、断てない。
人を判じることなら、私にもできた。
値段を決めただけだ、と言った男を、私は心の中で、判じていた。
誰も殺していない、と言った手の汚れていなさを。
けれど、判じることと、断つことは、違う。
人なら、判じられた。
盤は、判じることさえできなかった。
判じるには、まず、その正体が見えなければならない。
盤は、見えない。
ただ、そこに盤がある、と知る。
それが、私にできるぎりぎりだった。
負けた、と私は思った。
値段を決めただけだ、の壁に、負けたとき、私は、何に負けたのか、分からなかった。
いま、分かった。
私は人に、負けたのではなかった。
盤に、負けたのだ。
掴めないものは、断てない。
それが、この敗北の本当の形だった。
◆ ◇
その報せが届いたのは、その夜だった。
宿に、ナダが待っていた。
古い船乗りの顔が、いつもより固かった。
港で聞いてきた、という。
海の向こうの本土の報せを。
「戦だ」
ナダは、低く、言った。
「本土で、戦が、始まる。麦が、軍へ、流れる。値が、跳ねる」
私はそれを聞いて、しばらく動かなかった。
戦。
麦が、軍へ、流れ、値が、跳ねる。
飢えは、終わらないどころか、これから、もっとひどくなる。
戦は、麦を、食う。
人より先に、軍が麦を食う。
値が跳ねれば、買えない者は、もっと買えなくなる。
路地の飢えが、海を渡って、本土まで広がる。
戦を誰が始めるのか。
私は、ふと、そう思った。
麦を握り、値を決め、人を飢えさせる、この盤。
その盤が、戦さえ回しているのではないか。
麦の値で人を飢えさせるように、戦で人を死なせる。
同じ盤が、同じように駒を並べて。
けれど、それも、掴めなかった。
盤の正体が掴めない以上、それも確かめようがなかった。
分かるのは、一つだけだった。
飢えは、終わらない。
盤が、ある限り。
そして、戦がその盤の上で始まろうとしていた。
私は樫の棒の握りの灰の字を、てのひらで確かめた。
剣の届かない国のいちばん奥に、盤があった。
掴めない盤が。
ただ、そこに、ある、と知っただけだ。
負けは、変わらなかった。
けれど、負けたまま引き下がるのは、もう決めていなかった。
盤が、見えないなら。
まず、盤を読まなければならなかった。
穴の底で、向こうの帳面を、私は読めなかった。
番号を書き込み、人を岩にした帳面を。
八百三十二番と書かれた帳面を。
けれど、いまの私は、商いの国の帳簿を読めた。
麦の値も、銀の流れも、読めた。
盤の正体は、掴めない。
けれど、盤が駒を並べた跡なら、数に残る。
麦の値に、銀の流れに、戦に流れる物の量に。
各地に散った七つが、それぞれの結節点から、数を寄越している。
その数を、全部、並べれば。
いつか、盤の輪郭が見えるかもしれなかった。
いまは、見えない。
掴めない。
断てない。
けれど、数は、嘘をつかない。
盤が駒を動かせば、数が動く。
その数を各地から集めて、並べて、読む。
剣では、読めない。
数なら、いつか、読める。
それが、剣を持たない私のただひとつの戦い方だった。
私は盤を、読みに行く。
負けた盤を。
掴めなかった盤を。
麦を握り、人を飢えさせ、信用で人を消し、いま、戦さえ回そうとしている、その盤を。
いますぐには、見えない。
けれど、各地の数を繋いでいけば、いつか、その輪郭が紙の上に立ち上がる。
その盤を、読みに、行く。





