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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第40話「末端の列」


 信用を握る家を、私は辿った。


 誰が青印を与え、剥がすのか。


 市の商人たちに、それとなく訊いて回った。


 けれど、誰もはっきりとは言わなかった。


 青印商人ギルドが与える、と言う者もいる。


 けれど、そのギルドの上に、誰がいるかは、語れば、自分の印が危ない、という顔をして、みんなその家の名の前で、口を閉じた。


 ようやく、ひとつの家に辿り着いた。


 ドレーヴェ。


 認証の家だ。


 三つの商家のうちのひとつ。


 物流のオルセラ、金融のメルカディン、そして、認証のドレーヴェ。


 青の都に来て、その三つの家の名を聞いていた。


 けれど、認証の家のことだけは、いちばん影が薄かった。


 物流は、倉を持ち、麦を握る。


 金融は、銀を回し、利を生む。


 けれど、認証の家は、何をしているのか、よく見えなかった。


 いま、それが、見えた。


 認証の家は、印を握っていた。


 誰の品が本物か。


 誰の銀が信じられるか。


 誰が市に立つにふさわしいか。


 それを認める家だ。


 物も、銀も、握らない。


 ただ、誰を信じ、誰を信じないかを決める。


 その家が、信用のいちばん上に座っていた。


 当主は、女だった。


 テオドラ・ドレーヴェ。


 市の商人たちは、その名を、声をひそめて口にした。


 粗野な物流の当主や、冷たい金融の当主とは、違う、と。


 あの家の当主は、上品で、礼儀正しく、決して声を荒らげない、と。


 けれど、そう語る商人たちの顔には、ひとつ共通したものがあった。


 畏れだ。


 物流の当主を語るときの対抗心でもない。


 金融の当主を語るときの嫌悪でもない。


 ただ、畏れ。


 あの家には、近づくな、という声にならない警告が、その名の周りに漂っていた。


 礼儀のいちばん奥に、腐った匂いがする、と言った商人がいた。


 酔った口で、すぐに口をつぐんだ。


 礼節の裏に、何かがある。


 私には、まだそれが何か、掴めなかった。


 けれど、ステリオスが恐れた家、市の誰もが名の前で口を閉じる家、その家がいちばん上に座っていた。


 ◆  ◇


 ドレーヴェの家を、私は遠くから見た。


 商館同盟のほかの家とは、建物が違った。


 倉も、市の喧騒も、近くになかった。


 都のいちばん静かな一画に、白い石の館が建っていた。


 窓は、深く奥まっていて、中が見えなかった。


 門の前に、人の出入りはすくない。


 けれど、出入りする者は、みな身なりが整っていた。


 商人ではない者も、いた。


 聖職めいた長い衣を着た者が、門をくぐっていくのを、私は遠くから見た。


 その衣の中に、ひとつ黒いものが混じっていた。


 黒い、衣だ。


 ほかの衣は、白かったり、灰色だったりした。


 けれど、その一人だけ、黒かった。


 深い、夜のような黒。


 装飾も、なかった。


 ただ、黒い、長い衣。


 顔は、頭巾の影に隠れていて、見えなかった。


 歩き方も、静かだった。


 足音が、しなかった。


 ほかの者が、石畳を踏む音をさせて歩く中で、その黒い衣だけは、影が滑っていくように、門をくぐっていった。


 遠くから、見ただけだ。


 顔も、見えなかった。


 何者かも、分からなかった。


 聖職者なのか、商人なのか、それとも、別の何かなのか。


 私には、判じられなかった。


 けれど、その黒い衣が、ドレーヴェの館の門をくぐっていった、その一瞬。


 私の頭の奥の番人が、目を覚ました。


 ぞくり、とした。


 脇腹の傷でも、ない。


 古い刃の記憶でも、ない。


 もっと、奥の、もっと、底の方が、冷えた。


 穴の底で、死肉食らいが闇の中から近づいてくる気配を感じたときの、あの冷え方に似ていた。


 見えない。


 けれど、いる。


 そして、それは私のいちばん深いところを知っている。


 そんな気配だった。


 その黒い衣が、ドレーヴェの館に出入りしていた。


 信用を握る家の、奥に。


 ◆  ◇


 私はその館を何日か、遠くから見ていた。


 近づきは、しなかった。


 近づけば、見られ、潰される。


 だから、私は市の喧騒から、その静かな一画を、ただ目で舐めた。


 盗賊の頃、襲う前に、敵の塒を遠くから読んだように。


 誰が出入りし、誰が出入りしないか。


 荷は、入るか。


 銀は、動くか。


 ドレーヴェの館には、麦も、銀も、ほとんど入らなかった。


 入るのは、人と、紙だけだった。


 整った身なりの商人たち。


 そして、長い衣の者たち。


 彼らは館へ入り、しばらくして、出てきた。


 手ぶらで、入り、手ぶらで、出ていく。


 ただ、何かを持ち込み、何かを持ち出していた。


 目に見えない、何かを。


 信用だ、と私は思った。


 あの館で、やり取りされているのは、物でも、銀でもなかった。


 誰を信じるかという約束だった。


 誰の印を認め、誰の印を剥がすか。


 その見えない取り決めだ。


 それを、彼らは手ぶらで運んでいた。


 物より、軽い。


 けれど、物より、ずっと、重い。


 麦の値を、銀の流れを、人の生き死にを、その見えない約束が握っていた。


 そして、その約束の奥に。


 黒い衣が、いた。


 何度か、私はそれを見た。


 たいてい、日の暮れ方、ほかの者が引けたあとに、黒い衣だけが館へ入っていく。


 商人たちは、その前を通るとき、すこし身を引いた。


 畏れるように。


 あるいは、見ないように。


 ある日の夕方、商館同盟の使いらしい男が館から出てくるのを、私は遠くから見た。


 金融の家の者だろう。


 その男が門を出たところで、黒い衣とすれ違う。


 男は、足を止めた。


 そして、黒い衣が通り過ぎるまで、すこし頭を伏せて、待つ。


 黒い衣が行ってしまってから、また歩きはじめる。


 けれど、その足取りは、来たときよりすこし速い。


 早く、その場を離れたい。


 そういう足取りだった。


 商館同盟の上の者たちが。


 麦を握り、銀を回し、人を飢えさせる、その手たちが。


 あの合法の壁を平然と語り、誰も殺していない、と言い切った手たちが。


 その黒い衣の前では、目を伏せた。


 畏れていた。


 麦をいくら握っても、銀をいくら回しても、黒い衣を畏れていた。


 商館の上に、もうひとつ、手があった。


 倉を握る家の上に、銀を握る家の上に、信用を握る家の上に。


 さらに、黒い衣の手が。


 私はそれを、遠くから見た。


 ただ、それだけだった。


 近づけない。


 顔も、名も、分からない。


 何の家かも、何の力かも、掴めなかった。


 ただ、商館のいちばん上にかかっている、黒い影。


 麦も、銀も、信用も、その影の下にあるらしかった。


 いちばん近づいて、分かったのは、近づけない、ということだけだった。


 ◆  ◇


 黒い衣を、私はもう一度、別の場所でも見た。


 ドレーヴェの館に近い、静かな一画だ。


 麦の値がその後どう動いたかを、私は市で確かめて、帰る途中だった。


 海から、夕方の風が吹いていた。


 荷揚げの終わった水路は、静かだった。


 日が、暮れかけていた。


 水路に架かる低い橋のたもとに、黒い衣が立っていた。


 影が、橋の石に貼りついているように見える。


 日の落ちかけた一画のいちばん暗いところに。


 ほかの通行人は、その黒い衣の前を足早に避けて通っていた。


 見ないようにして。


 私は、足を止めた。


 近くの石壁の影に、身を引いた。


 盗賊の頃、闇に紛れて、護送の列を見張った、あの引き方で。


 息を、ひそめた。


 その黒い衣の前に、別の者が立っていた。


 ドレーヴェの館の使いの者らしかった。


 整った身なりの若い男だ。


 商人でも、聖職めいた長衣でもない。


 ただの使い走りの顔だ。


 その男が、黒い衣の前で、すこし身を傾けている。


 何かを、差し出していた。


 一通の、書状だった。


 遠かった。


 声は、聞こえなかった。


 けれど、様子は、見えた。


 残った左の目で。


 使いの男が、黒い衣に書状を渡す。


 封のしてある書状だ。


 蝋で、封じてある。


 それを、黒い衣が受け取る。


 頭巾の影から、顔は見えなかった。


 ただ、長い袖の中から、手が伸びて、書状を受けた。


 受け取って、黒い衣は、それを懐にしまった。


 中を、改めもしなかった。


 封を、切りもしなかった。


 ただ、受け取って、しまった。


 読まずに。


 読む権を持たぬ者のしまい方だった。


 書いた者でも、読む者でも、ない。


 ただ、運ぶ者の手つきだった。


 ◆  ◇


 私は物陰で、息を止めて、それを見ていた。


 黒い衣は、書状をしまうと、橋を渡りはじめた。


 ドレーヴェの館の方角ではなかった。


 館を背にして、水路の奥の方へ。


 市の喧騒からも、館からも、離れていく方へ。


 足音は、しなかった。


 影が、滑っていくように。


 一度も、振り返らなかった。


 使いの男のほうは、書状を渡し終えると、館の方へ足早に戻っていった。


 私はその黒い衣の背中を、目で追った。


 あの影が、ドレーヴェの館に出入りしていた。


 信用を握る家に。


 私はずっとそれを、商館のいちばん上にかかった影だ、と見てきた。


 商人たちがその前で、目を伏せ、身を引いた。


 だから、いちばん上の手だと思っていた。


 けれど、いま見たものは、違った。


 黒い衣は、書状を受け取っていた。


 差し出されて、受け取った。


 封のしてある書状を。


 読まずに、しまって、運んでいった。


 命じる者なら、書状を書く。


 差し出す。


 読ませる。


 受け取って、運ぶのは、命じる者ではない。


 命じられて、運ぶ者だ。


 黒い衣は、運ぶ者だった。


 誰かの封じた言葉を、懐に入れ、足音を立てずに、どこかへ運ぶ。


 誰かの命を、伝える者。


 あの顔を見せない頭巾も、足音のない歩き方も、自分のためのものではなかった。


 隠して運ぶ者の装いだった。


 運ぶ者は、運ぶ物より、軽くなければならない。


 だから、影のように、薄かった。


 商館の者たちが、その前で目を伏せたのは。


 黒い衣そのものを畏れたのではなかったのかもしれない。


 黒い衣が運んでいる、その向こうの見えない手を畏れていたのだ。


 書状を書く手。


 封をする手。


 黒い衣に、運べと命じる手。


 伏せた目は、影の前ではなく、影の向こうの見えない誰かの前を通り過ぎていたのだ。


 ◆  ◇


 宿へ帰る道で、私はそれをずっと考えていた。


 夕闇が、青の都に降りていた。


 市の灯が、ひとつ、ふたつとともりはじめる。


 けれど、私の目は、その灯を見ていなかった。


 頭の中で、私は辿ってきた道を、もう一度、上へ、上へと登り直していた。


 私は上流を辿ってきた。


 麦の値を。


 銀の流れを。


 信用の網を。


 倉の主に行き当たり、その上に金融の家を見つけ、その上に認証の家を見つけ、その奥に黒い衣を見た。


 ひとつ上へ行くたびに、もうひとつ上があった。


 倉の主は、末端だった。


 金融の家も、末端だ。


 認証の家も、末端だった。


 そして、黒い衣も、末端だった。


 誰も、いちばん上ではなかった。


 誰もが、もっと上の何かに繋がっている。


 倉の主は、麦を握っているように見えて、その値を自分では決められなかった。


 同盟が黙っちゃいない、とマッテオは言った。


 金融の家は、銀を回しているように見えて、その銀のいくらかを上へ流していた。


 崖の向こうの見えない先へ。


 認証の家は、信用を握っているように見えて、その奥に黒い衣を出入りさせていた。


 そして、その黒い衣でさえ、封じた書状を、ただ運んでいた。


 読まずに。


 書いた者の命じるままに。


 誰も、いちばん上では、ない。


 みんな、末端だ。


 頭の上に、もうひとつ手を載せられている。


 その手の上に、また別の手が載っている。


 重なった手のいちばん上は、夜に隠れて、見えなかった。


 私は辿りながら、ずっといちばん上の握る手を探していた。


 その手を断てば、飢えが終わる、と思っていた。


 倉の主か。


 金融の家か。


 認証の家か、黒い衣か。


 けれど、どれを断っても、その上が、また駒を置く。


 断つべき相手が、いなかった。


 いや、相手は、いる。


 けれど、それは誰か一人ではなかった。


 麦を握る手も、銀を回す手も、信用を握る手も、書状を運ぶ手も。


 みんな、繋がって、ひとつの大きな何かを動かしていた。


 誰か一人を断っても、その大きな何かは、別の駒を立てて、また回りはじめる。


 いちばん上は、掴めなかった。


 黒い衣を辿っても、その先には、またそれを書いた手があり、その手の上に、命じる手がある。


 糸は、封の蝋で切れていた。


 崖のように。


 誰がこの見えない網を置いているのか。


 私には、掴めなかった。


 私が辿ってきたのは、握る手ではなかった。


 末端が、いくつも並んでいる、その列だった。


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