第40話「末端の列」
信用を握る家を、私は辿った。
誰が青印を与え、剥がすのか。
市の商人たちに、それとなく訊いて回った。
けれど、誰もはっきりとは言わなかった。
青印商人ギルドが与える、と言う者もいる。
けれど、そのギルドの上に、誰がいるかは、語れば、自分の印が危ない、という顔をして、みんなその家の名の前で、口を閉じた。
ようやく、ひとつの家に辿り着いた。
ドレーヴェ。
認証の家だ。
三つの商家のうちのひとつ。
物流のオルセラ、金融のメルカディン、そして、認証のドレーヴェ。
青の都に来て、その三つの家の名を聞いていた。
けれど、認証の家のことだけは、いちばん影が薄かった。
物流は、倉を持ち、麦を握る。
金融は、銀を回し、利を生む。
けれど、認証の家は、何をしているのか、よく見えなかった。
いま、それが、見えた。
認証の家は、印を握っていた。
誰の品が本物か。
誰の銀が信じられるか。
誰が市に立つにふさわしいか。
それを認める家だ。
物も、銀も、握らない。
ただ、誰を信じ、誰を信じないかを決める。
その家が、信用のいちばん上に座っていた。
当主は、女だった。
テオドラ・ドレーヴェ。
市の商人たちは、その名を、声をひそめて口にした。
粗野な物流の当主や、冷たい金融の当主とは、違う、と。
あの家の当主は、上品で、礼儀正しく、決して声を荒らげない、と。
けれど、そう語る商人たちの顔には、ひとつ共通したものがあった。
畏れだ。
物流の当主を語るときの対抗心でもない。
金融の当主を語るときの嫌悪でもない。
ただ、畏れ。
あの家には、近づくな、という声にならない警告が、その名の周りに漂っていた。
礼儀のいちばん奥に、腐った匂いがする、と言った商人がいた。
酔った口で、すぐに口をつぐんだ。
礼節の裏に、何かがある。
私には、まだそれが何か、掴めなかった。
けれど、ステリオスが恐れた家、市の誰もが名の前で口を閉じる家、その家がいちばん上に座っていた。
◆ ◇
ドレーヴェの家を、私は遠くから見た。
商館同盟のほかの家とは、建物が違った。
倉も、市の喧騒も、近くになかった。
都のいちばん静かな一画に、白い石の館が建っていた。
窓は、深く奥まっていて、中が見えなかった。
門の前に、人の出入りはすくない。
けれど、出入りする者は、みな身なりが整っていた。
商人ではない者も、いた。
聖職めいた長い衣を着た者が、門をくぐっていくのを、私は遠くから見た。
その衣の中に、ひとつ黒いものが混じっていた。
黒い、衣だ。
ほかの衣は、白かったり、灰色だったりした。
けれど、その一人だけ、黒かった。
深い、夜のような黒。
装飾も、なかった。
ただ、黒い、長い衣。
顔は、頭巾の影に隠れていて、見えなかった。
歩き方も、静かだった。
足音が、しなかった。
ほかの者が、石畳を踏む音をさせて歩く中で、その黒い衣だけは、影が滑っていくように、門をくぐっていった。
遠くから、見ただけだ。
顔も、見えなかった。
何者かも、分からなかった。
聖職者なのか、商人なのか、それとも、別の何かなのか。
私には、判じられなかった。
けれど、その黒い衣が、ドレーヴェの館の門をくぐっていった、その一瞬。
私の頭の奥の番人が、目を覚ました。
ぞくり、とした。
脇腹の傷でも、ない。
古い刃の記憶でも、ない。
もっと、奥の、もっと、底の方が、冷えた。
穴の底で、死肉食らいが闇の中から近づいてくる気配を感じたときの、あの冷え方に似ていた。
見えない。
けれど、いる。
そして、それは私のいちばん深いところを知っている。
そんな気配だった。
その黒い衣が、ドレーヴェの館に出入りしていた。
信用を握る家の、奥に。
◆ ◇
私はその館を何日か、遠くから見ていた。
近づきは、しなかった。
近づけば、見られ、潰される。
だから、私は市の喧騒から、その静かな一画を、ただ目で舐めた。
盗賊の頃、襲う前に、敵の塒を遠くから読んだように。
誰が出入りし、誰が出入りしないか。
荷は、入るか。
銀は、動くか。
ドレーヴェの館には、麦も、銀も、ほとんど入らなかった。
入るのは、人と、紙だけだった。
整った身なりの商人たち。
そして、長い衣の者たち。
彼らは館へ入り、しばらくして、出てきた。
手ぶらで、入り、手ぶらで、出ていく。
ただ、何かを持ち込み、何かを持ち出していた。
目に見えない、何かを。
信用だ、と私は思った。
あの館で、やり取りされているのは、物でも、銀でもなかった。
誰を信じるかという約束だった。
誰の印を認め、誰の印を剥がすか。
その見えない取り決めだ。
それを、彼らは手ぶらで運んでいた。
物より、軽い。
けれど、物より、ずっと、重い。
麦の値を、銀の流れを、人の生き死にを、その見えない約束が握っていた。
そして、その約束の奥に。
黒い衣が、いた。
何度か、私はそれを見た。
たいてい、日の暮れ方、ほかの者が引けたあとに、黒い衣だけが館へ入っていく。
商人たちは、その前を通るとき、すこし身を引いた。
畏れるように。
あるいは、見ないように。
ある日の夕方、商館同盟の使いらしい男が館から出てくるのを、私は遠くから見た。
金融の家の者だろう。
その男が門を出たところで、黒い衣とすれ違う。
男は、足を止めた。
そして、黒い衣が通り過ぎるまで、すこし頭を伏せて、待つ。
黒い衣が行ってしまってから、また歩きはじめる。
けれど、その足取りは、来たときよりすこし速い。
早く、その場を離れたい。
そういう足取りだった。
商館同盟の上の者たちが。
麦を握り、銀を回し、人を飢えさせる、その手たちが。
あの合法の壁を平然と語り、誰も殺していない、と言い切った手たちが。
その黒い衣の前では、目を伏せた。
畏れていた。
麦をいくら握っても、銀をいくら回しても、黒い衣を畏れていた。
商館の上に、もうひとつ、手があった。
倉を握る家の上に、銀を握る家の上に、信用を握る家の上に。
さらに、黒い衣の手が。
私はそれを、遠くから見た。
ただ、それだけだった。
近づけない。
顔も、名も、分からない。
何の家かも、何の力かも、掴めなかった。
ただ、商館のいちばん上にかかっている、黒い影。
麦も、銀も、信用も、その影の下にあるらしかった。
いちばん近づいて、分かったのは、近づけない、ということだけだった。
◆ ◇
黒い衣を、私はもう一度、別の場所でも見た。
ドレーヴェの館に近い、静かな一画だ。
麦の値がその後どう動いたかを、私は市で確かめて、帰る途中だった。
海から、夕方の風が吹いていた。
荷揚げの終わった水路は、静かだった。
日が、暮れかけていた。
水路に架かる低い橋のたもとに、黒い衣が立っていた。
影が、橋の石に貼りついているように見える。
日の落ちかけた一画のいちばん暗いところに。
ほかの通行人は、その黒い衣の前を足早に避けて通っていた。
見ないようにして。
私は、足を止めた。
近くの石壁の影に、身を引いた。
盗賊の頃、闇に紛れて、護送の列を見張った、あの引き方で。
息を、ひそめた。
その黒い衣の前に、別の者が立っていた。
ドレーヴェの館の使いの者らしかった。
整った身なりの若い男だ。
商人でも、聖職めいた長衣でもない。
ただの使い走りの顔だ。
その男が、黒い衣の前で、すこし身を傾けている。
何かを、差し出していた。
一通の、書状だった。
遠かった。
声は、聞こえなかった。
けれど、様子は、見えた。
残った左の目で。
使いの男が、黒い衣に書状を渡す。
封のしてある書状だ。
蝋で、封じてある。
それを、黒い衣が受け取る。
頭巾の影から、顔は見えなかった。
ただ、長い袖の中から、手が伸びて、書状を受けた。
受け取って、黒い衣は、それを懐にしまった。
中を、改めもしなかった。
封を、切りもしなかった。
ただ、受け取って、しまった。
読まずに。
読む権を持たぬ者のしまい方だった。
書いた者でも、読む者でも、ない。
ただ、運ぶ者の手つきだった。
◆ ◇
私は物陰で、息を止めて、それを見ていた。
黒い衣は、書状をしまうと、橋を渡りはじめた。
ドレーヴェの館の方角ではなかった。
館を背にして、水路の奥の方へ。
市の喧騒からも、館からも、離れていく方へ。
足音は、しなかった。
影が、滑っていくように。
一度も、振り返らなかった。
使いの男のほうは、書状を渡し終えると、館の方へ足早に戻っていった。
私はその黒い衣の背中を、目で追った。
あの影が、ドレーヴェの館に出入りしていた。
信用を握る家に。
私はずっとそれを、商館のいちばん上にかかった影だ、と見てきた。
商人たちがその前で、目を伏せ、身を引いた。
だから、いちばん上の手だと思っていた。
けれど、いま見たものは、違った。
黒い衣は、書状を受け取っていた。
差し出されて、受け取った。
封のしてある書状を。
読まずに、しまって、運んでいった。
命じる者なら、書状を書く。
差し出す。
読ませる。
受け取って、運ぶのは、命じる者ではない。
命じられて、運ぶ者だ。
黒い衣は、運ぶ者だった。
誰かの封じた言葉を、懐に入れ、足音を立てずに、どこかへ運ぶ。
誰かの命を、伝える者。
あの顔を見せない頭巾も、足音のない歩き方も、自分のためのものではなかった。
隠して運ぶ者の装いだった。
運ぶ者は、運ぶ物より、軽くなければならない。
だから、影のように、薄かった。
商館の者たちが、その前で目を伏せたのは。
黒い衣そのものを畏れたのではなかったのかもしれない。
黒い衣が運んでいる、その向こうの見えない手を畏れていたのだ。
書状を書く手。
封をする手。
黒い衣に、運べと命じる手。
伏せた目は、影の前ではなく、影の向こうの見えない誰かの前を通り過ぎていたのだ。
◆ ◇
宿へ帰る道で、私はそれをずっと考えていた。
夕闇が、青の都に降りていた。
市の灯が、ひとつ、ふたつとともりはじめる。
けれど、私の目は、その灯を見ていなかった。
頭の中で、私は辿ってきた道を、もう一度、上へ、上へと登り直していた。
私は上流を辿ってきた。
麦の値を。
銀の流れを。
信用の網を。
倉の主に行き当たり、その上に金融の家を見つけ、その上に認証の家を見つけ、その奥に黒い衣を見た。
ひとつ上へ行くたびに、もうひとつ上があった。
倉の主は、末端だった。
金融の家も、末端だ。
認証の家も、末端だった。
そして、黒い衣も、末端だった。
誰も、いちばん上ではなかった。
誰もが、もっと上の何かに繋がっている。
倉の主は、麦を握っているように見えて、その値を自分では決められなかった。
同盟が黙っちゃいない、とマッテオは言った。
金融の家は、銀を回しているように見えて、その銀のいくらかを上へ流していた。
崖の向こうの見えない先へ。
認証の家は、信用を握っているように見えて、その奥に黒い衣を出入りさせていた。
そして、その黒い衣でさえ、封じた書状を、ただ運んでいた。
読まずに。
書いた者の命じるままに。
誰も、いちばん上では、ない。
みんな、末端だ。
頭の上に、もうひとつ手を載せられている。
その手の上に、また別の手が載っている。
重なった手のいちばん上は、夜に隠れて、見えなかった。
私は辿りながら、ずっといちばん上の握る手を探していた。
その手を断てば、飢えが終わる、と思っていた。
倉の主か。
金融の家か。
認証の家か、黒い衣か。
けれど、どれを断っても、その上が、また駒を置く。
断つべき相手が、いなかった。
いや、相手は、いる。
けれど、それは誰か一人ではなかった。
麦を握る手も、銀を回す手も、信用を握る手も、書状を運ぶ手も。
みんな、繋がって、ひとつの大きな何かを動かしていた。
誰か一人を断っても、その大きな何かは、別の駒を立てて、また回りはじめる。
いちばん上は、掴めなかった。
黒い衣を辿っても、その先には、またそれを書いた手があり、その手の上に、命じる手がある。
糸は、封の蝋で切れていた。
崖のように。
誰がこの見えない網を置いているのか。
私には、掴めなかった。
私が辿ってきたのは、握る手ではなかった。
末端が、いくつも並んでいる、その列だった。





