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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第37話「名を、書く」


 その夜、私はヒナの帳面を一冊もらった。


 白い、まだ何も書かれていない帳面だ。


 ヒナが市の値を写すために何冊も用意していた、そのうちの一冊。


 私はそれを卓の上に置いた。


 ヒナが墨を磨ってくれた。


 私はたったひとつの手で、筆を握った。


 三本の指と、親指で。


 骨を握り、棒を握ってきた手だ。


 筆を握るのは、まだ慣れていない。


 字は、ヒナのように几帳面には書けない。


 私の字は太く、ゆがんでいた。


 それでも書けた。


 筆を紙に下ろすのに、私はすこし迷った。


 腕がひとつしかないから、紙を押さえる手がない。


 書いているうちに、紙がずれる。


 動く。


 だから、銀の杯で紙の端を押さえた。


 岩を削るとき、押さえる手のない分を、肩で、腰で補ったように。


 書くときも、足りない手の分を杯の重みで補う。


 足りないことには、もう慣れている。


 私はその帳面に書きはじめた。


 ◆  ◇


 戸板の下の女から書いた。


 名は、近くに座っていた者から聞いた。


 麦を売る列に毎日並んでいた女だ。


 買えずに毎日帰っていく。


 三日前から並ばなくなった。


 今朝、戸板の下にいる。


 名を聞き、年を聞いた。


 子供を二人亡くしている。


 最後の一人を抱えたまま座っていた、あの女だ。


 名を書いた。


 年を書いた。


 子供の数を書いた。


 次に、骨の浮いた老人。


 名は分からなかった。


 誰も知らなかった。


 流れてきた者らしい。


 それでも、私は書いた。


 「名、知れず」と。


 年は、見当で。


 「六十ばかり」と。


 路地のいちばん奥の壁に、もたれていた、と。


 書きながら、私は穴の底を思い出していた。


 あの冬、十二人が岩になった。


 私はその十二人を、いまも覚えている。


 名はなかった。


 番号で覚えた。


 けれど、誰がどの順で冷えていったか。


 最後に、誰が私の隣で息を止めたか。


 それを、私は覚えている。


 覚えているのは、私が生き残ったからだ。


 生き残った者が覚えていなければ、岩になった者は誰の中にも残らない。


 完全に消える。


 番号さえ消える。


 この路地の者も同じだった。


 生き残る者が覚えていなければ、消える。


 だから、私は書いた。


 私が生き残るために、ではない。


 この者たちを消さないために。


 ひとり書くたびに、その者の顔を、残った左の目に浮かべた。


 書きながら、私は自分が何をしているのか、よく分かっていた。


 これは数えだ。


 ナダからヒナへ渡った、あの数え。


 人数の段と、年の段。


 誰がいて、誰が岩になったか。


 それを刻む。


 穴の底で、私は十二人が岩になるのを見た。


 番号で覚えた。


 八百三十二番。


 あれは、数えられる側の数だった。


 いまの私は、数える側にいる。


 けれど、これはナダの数えとは、すこし違った。


 ナダの数えは、八人をいっぺんに失わないための数えだった。


 散っても、数えてさえいれば、つながりは消えない。


 どこにいるかが分かっていれば、いつかまた会える。


 あれは、生きている者をつなぐための数えだ。


 いま私が書いているのは、そうではなかった。


 これは死んだ者の数えだった。


 もう会えない者の。


 つなぐためではない。


 残すためだ。


 誰がここで飢えて死んだか。


 何という名の、何歳の者が。


 何人が。


 それを紙に残す。


 なぜ書くのか。


 その夜の私には、まだうまく言えなかった。


 突きつけるためか。


 誰かにこれを見せて、お前が殺したのだと言うためか。


 それもあった。


 けれど、それだけではなかった。


 名のない者は消える。


 穴の底で、私はそれを知った。


 番号で呼ばれた者たちは、岩になって、運び出されて、消えた。


 名を誰も覚えていなかった。


 覚える者がいなかったからだ。


 番号は消える。


 けれど、誰かが覚えていれば消えない。


 私が八百三十二番をいまも覚えているように。


 この路地の者たちも消える。


 帳簿のいちばん下の段で。


 名もなく、年もなく、ただ麦が細くなった結果として。


 何人死んだかさえ数えられずに。


 商館同盟の帳簿には、麦の量は書いてある。


 倉に、いくつ。


 市に、いくつ。


 けれど、その麦が買えずに死んだ者の数は、どこにも書いていなかった。


 死んだ者は、向こうの帳簿のどこにも載らない。


 麦の数は数えられて、人の数は数えられない。


 それが向こうの帳面の決まりだった。


 けれど、私が書けば消えない。


 名と、年と、数を書けば。


 少なくとも、一冊の帳面の中に、その者たちは残る。


 向こうの帳面が書かなかった段を、私が書く。


 麦の数のいちばん下に。


 その麦で、死んだ者の名を。


 ◆  ◇


 これは、向こうの帳面だ、と私は思った。


 懐に、もうひとつ帳面がある。


 カラスの遺品の、薄い、読めない帳面。


 あの言葉のない男が、誰にも読ませずに死んだ帳面。


 読めない帳面だ。


 読もうとしても読めない。


 けれど、いま私が書いているのは違う。


 これは、向こうの帳面だ。


 世界側の数えだ。


 誰が麦の値で堰の外へ振り分けられたか。


 その向こうの帳面。


 読めない帳面ではない。


 私が書いて、私が読める。


 読み返せる帳面だ。


 商館同盟の帳簿が、人を振り分ける向こうの帳面なら。


 私のこの帳面は、振り分けられた者を数え返す向こうの帳面だった。


 同じ向こうの帳面でも、向きが逆だった。


 あちらは、誰を飢えさせるかを決めるために数える。


 こちらは、飢えさせられた者を覚えておくために数える。


 決める数えと、覚える数え。


 私は覚える側の数えを書いていた。


 灯火がつきるまで、私は書いた。


 ヒナが墨を足してくれた。


 何も、言わずに。


 私がひとりひとり書いていくのを、隣で見ていた。


 途中で、ヒナがひとつ名を教えてくれた。


 市の列で隣に並んでいた男の名だ。


 この子も数えていたのだ。


 私が麦の山を量るあいだ、ヒナは列に並ぶ者の顔を覚えていた。


 その顔のひとつが、今朝並ばなかった。


 ヒナはその名を低い声で言った。


 私はそれも書いた。


 書き終えた頃には、夜が深くなっていた。


 帳面の最初の一枚が、太いゆがんだ字で埋まっていた。


 名と、年と、数で。


 まだ一枚だ。


 けれど、この一枚はこれから増える。


 値が下がらない限り。


 麦が細いままである限り。


 路地の戸板は増え続ける。


 私の帳面の数も増え続ける。


 それを、私は知っていた。


 私はその帳面を、懐の読めない帳面の隣にしまった。


 読めない帳面と、読める帳面。


 カラスの帳面と、私の帳面。


 ふたつの帳面が、いま私の懐にあった。


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