第36話「罪のない、壁」
帳簿を読み込むほど、私は奇妙なことに気づいた。
探していた。
盗賊の頃の癖だ。
襲う前に、護送の列の弱いところを探した。
どこに見張りが薄く、どこの綱が緩いか。
崩せる一点を探す。
いまも、私はその一点を探していた。
この帳簿のどこに、罪があるか。
麦を握って、値を吊り上げ、人を飢えさせる。
その罪を、紙の上から見つけ出す。
それを突きつければ、堰は崩せる。
けれど、罪はどこにもなかった。
◆ ◇
ひとつずつ、私は帳簿の手口をたどっていった。
盗賊の頃、護送の列の隊形をひとつずつ読んだように。
見張りの位置。
綱の結び目。
崩せる一点。
それを探す目で、私は帳簿のひとつずつの手口を検めた。
まず、倉に麦を溜めること。
それは罪ではなかった。
倉に麦を抱えるのは、商人の当たり前の仕事だ。
冬に備え、凶作に備え、麦を蓄える。
誰もそれを咎められない。
むしろ、賢い商いだ。
私自身、二十年、丘の床の下に銀を蓄えてきた。
蓄えることは罪ではない。
麦を溜めるのは、保管というまっとうな仕事の顔をしていた。
次に、出す量を揃えること。
それも罪ではなかった。
三家が相談して、市に出す量を決める。
それは、ただの商人同士の取り決めだ。
誰にいくつ売るかは、売る者の勝手だ。
たくさん売ろうと、すこしだけ売ろうと、それは商人の自由だった。
出し惜しみは貪欲かもしれない。
けれど、貪欲は罪ではない。
値を吊り上げること。
それも罪ではなかった。
値は、欲しがる者が多ければ上がる。
麦が細ければ、欲しがる者が増える。
値が上がる。
それは、物の理だ。
三家が値を直に決めているわけではなかった。
麦を細くしておけば、値はひとりでに上がる。
市が勝手に上げてくれる。
三家は、ただ出す量を絞るだけでいい。
あとは、市が値を運んでくれる。
手を、汚さずに。
さらに、先の麦を、売り買いすること。
帳簿には、まだ収穫していない来年の麦の値を先に決めて、売り買いした覚えがあった。
来年、麦がいくらになるか。
それをいまのうちに、約束で売る。
買う。
先物、というらしかった。
畑にまだ穂も出ていない麦を、紙の上でもう売り買いしている。
私には不思議な仕組みだった。
けれど、それも罪ではなかった。
互いに納得して、先の値を約束する。
誰も騙していない。
約束を交わしているだけだ。
その先の値を握れば、市はさらに動かせた。
来年、麦が高くなると、紙の上で約束を積み重ねる。
すると、市の者が、来年は麦が足りなくなる、と思いはじめる。
思えば、いまのうちに買い溜める。
買い溜めれば、いまの値も上がる。
畑の麦は、まだ青いままなのに。
来年の値を握る手が、今年の値を吊り上げていた。
それも約束の枠の内側だった。
そして、銀を貸すこと。
メルカディンの家は、銀を貸す家だった。
麦を買う銀のない者に、銀を貸す。
値が上がる。
買えない者が増える。
増えた者に銀を貸す。
貸して、利を取る。
利が払えなければ、何かを取り上げる。
畑を。
家を。
あるいは、人の働きを何年ぶんも。
それも罪ではなかった。
借りた者が返せないなら、取り上げる。
それは、貸し借りの当たり前の決まりだった。
私はそこで、ひとつ見えた。
値を上げる手と、銀を貸す手は同じ家だった。
麦を細くして、値を上げる。
値が上がれば、買えない者が銀を借りに来る。
借りた者から利を取る。
返せなければ、畑を取る。
畑を取れば、その畑の麦も握れる。
握れば、また値を動かせる。
輪になっていた。
値を上げるほど、借りる者が増える。
借りる者が増えるほど、取り上げる畑が増える。
畑が増えるほど、麦が握れる。
回りながら、輪がすこしずつ膨らんでいく。
ナダが空に描いた商いの円と同じ形だ。
けれど、その円は銀を回すのではなかった。
人を回していた。
保管。
取り決め。
先物。
貸し借り。
どれも、商いのまっとうな顔をしていた。
◆ ◇
私は卓の上の紙を、もう一度、最初からたどった。
ひとつずつ、指で行を追っていく。
三本の指で。
どこかに、ひとつでいい。
明らかな罪があるはずだ。
盗んだ麦を隠している。
役所の目をごまかしている。
重さを偽っている。
何か、ひとつ。
崩せる一点が。
なかった。
帳簿はきれいだった。
あまりにきれいだった。
一枚も汚れていない。
盗みも、ごまかしも、偽りもなかった。
すべてが、表の決まりの中で回っていた。
保管の枠内。
取り決めの枠内。
先物の枠内。
貸し借りの枠内。
法に触れることは、ひとつもなかった。
私はそこで、息を呑んだ。
盗賊の頃、私が断ってきた者は、いつも何か明らかな悪をしていた。
麦を奪い、人を売り、銀を無理やり取り立てた。
だから、私は断てた。
獲物の掟だ。
明らかな悪をする者を選ぶ。
その者を断つ。
それでよかった。
けれど、この帳簿には、断つべき明らかな悪がなかった。
誰も盗んでいない。
誰も騙していない。
誰も無理やり奪っていない。
みんな、決まりを守っていた。
決まりを守ったまま、麦を握り、値を吊り上げ、買えない者を飢えさせていた。
罪のない手で、人を殺していた。
ヒナが私の手元を見ていた。
「悪いこと、してないの」
ヒナの声に、戸惑いがあった。
「ああ」
私は答えた。
それだけしか答えられなかった。
悪いことをしていない。
なのに、人が飢えて死ぬ。
盗みなら断てた。
騙しなら断てた。
けれど、決まりを守ったまま人を飢えさせる手を、私はどう断てばいいのか分からなかった。
穴の底でも、私を縛ったのは悪人ではなかった。
番号を書き込む者は、ただ決まりに従っていた。
配る量を決める者も、決まりに従っていた。
誰も私を憎んではいなかった。
憎まれて穴に落とされたのなら、まだ分かりやすかった。
憎しみには相手がいる。
けれど、私を縛ったのは憎しみではなかった。
決まりだった。
決まりには顔がない。
憎む相手がいない。
だから、私は穴の底で、誰を恨めばいいのかさえ分からなかった。
いま、この帳簿の前で、私は同じものを見ていた。
顔のない決まりが、人を飢えさせている。
憎しみではなかった。
ただの決まりだった。
罪のない壁が、私の前に立っていた。
その壁の向こう側を、私は見に行った。
帳簿の数は、卓の上のただの墨の列だ。
けれど、その墨の列が、堰の外でどんな顔をしているか。
それを、私は自分の目で見なければならなかった。
盗賊の頃、襲う前に、必ず地形を自分の足で踏んだ。
紙の上の読みだけで飛び込まなかった。
それも、カラスから手で覚えた慎重さだった。
ヒナと二人で、市の裏の路地へ入った。
◆ ◇
市の表通りは、麦であふれていた。
山と積まれた、乾いたいい麦。
麦の店が軒を連ねている。
買い手が銀を出して、袋に麦を詰めてもらう。
商いの賑わいだ。
豊かな都の賑わいだった。
けれど、その賑わいの値が、いま高かった。
私は店の前で、ひとつの値を聞いた。
半月前より、またすこし上がっていた。
帳簿の数の通りに。
表通りから、細い路地へ一歩入った。
日が当たらなくなった。
石畳が、夜の冷たさを昼まで残している。
表の賑わいの音が、急に遠くなった。
麦の匂いも、ここまでは届かない。
代わりに、別の匂いがした。
汗と、土と、それからすこし饐えたような匂い。
人が長く洗わずに座り込んでいる匂いだ。
路地に人がいた。
壁にもたれて、痩せた者たちが座り込んでいた。
膝を抱えて動かない。
目だけが、表通りの方を見ている。
麦のある方を。
表通りには、麦が山と積まれている。
すぐそこに。
手を伸ばせば届きそうなところに。
けれど、彼らの手には銀がなかった。
値が上がりすぎていた。
麦は見えているのに、買えない。
子供を抱えた女がいた。
壁の根方にしゃがんで、痩せた子を膝に抱えている。
子供は、もう泣く力もないらしかった。
母親の腕の中でぐったりと、目を半分閉じている。
腕は、枯れ枝のように細かった。
皮の下に、骨の形がそのまま浮いていた。
女は、私たちが通っても顔を上げなかった。
手を差し出しもしなかった。
物乞いをする力さえ、もう残っていないのだ。
ただ、子を抱えて座っていた。
その女のすぐ向こうの表通りでは、麦が山と積まれていた。
壁ひとつ隔てた向こうで。
手を伸ばせば届くほどの近さで。
けれど、その壁は石の壁ではなかった。
値の壁だった。
女には、麦を買う銀がない。
だから、女と麦のあいだには、目に見えない薄い壁が立っていた。
その壁は、石よりずっと固かった。
石の壁なら崩せる。
値の壁は崩せなかった。
樫の棒でも、短刀でも崩せない壁だ。
剣の届かない壁が、女と麦のあいだに立っていた。
その横を、骨の浮いた老人が座っていた。
壁に背を預けて。
胸が浅く上下している。
生きてはいる。
けれど、その目は、もうどこも見ていなかった。
表の麦も、行き交う人も、何も映していない。
ただ息をしているだけの目だった。
ヒナが、その前で足を止めた。
数えの木札に指が動いていた。
無意識に。
路地に座る者の数を数えている。
私が麦の山を見て量らずにいられないように、この子も、人を見れば数えずにはいられない。
けれど、その指が途中で止まった。
私は横目でそれを見た。
ヒナは数えるのをやめた。
数えても減らない数だと、この子も気づいたのだ。
八人を数える数えと、ここに座る者を数える数えは違う。
前のは、つながりの数だ。
あとのは、堰の外へ振り分けられた者の数だった。
ヒナは木札から指を離した。
◆ ◇
路地の奥に進むと、人が増えた。
みんな同じだった。
痩せて、座り込んで、表通りの麦を見ている。
買えない麦を。
彼らは盗もうとはしなかった。
表の麦の山を奪おうとはしなかった。
盗めば捕まる。
捕まれば、もっと悪くなる。
だから、彼らはただ座って飢えていた。
決まりを、守って。
麦を握る側が決まりを守るように、飢える側も決まりを守っていた。
路地のいちばん奥に、戸板が立てかけてあった。
その下に人が横たわっていた。
動かない人だった。
胸が上下していない。
顔に布が掛けてある。
誰かが掛けたのだ。
同じ路地のまだ動ける者が。
戸板は墓標の代わりだった。
墓を掘る力も、銀もない。
だから、戸板を立てかけて、それで終わりにする。
昨日まで生きていた者が、今朝、岩になった。
私はそれを見た。
残った左の目で。
帳簿の数が、ここにいた。
卓の上の墨の列。
市に出る麦の量。
倉に溜まる麦の量。
日ごとの値。
あの数のいちばん下の段に、この戸板の下の人がいた。
麦を細くする。
値が、上がる。
買えない者が、買えない。
買えない者が、飢える。
飢える者が、岩になる。
帳簿の数を上からたどっていけば、いちばん下にこの戸板があった。
これは計画されていた。
飢饉は、空から降ってきたのではなかった。
麦はある。
倉に、唸るほどある。
なのに、人が飢えている。
それは天の災いではなかった。
誰かが麦を握り、値を決め、買えない者を振り分けた。
買える者と、買えない者に。
買えない者は、堰の外へ。
堰の外で、岩になるように。
穴の底の飢えを、私は思い出した。
あの冬、私たちは、与えられる水と麦の量で生き死にが決まった。
多く与えられた者は生きた。
少ない者は岩になった。
誰が多く、誰が少ないか。
それを決めていたのは、向こうの帳面だった。
番号ごとの配る量。
あの量を決める手が、私たちの生き死にを決めていた。
穴の底では、それは見えていた。
柵の向こうに、配る者がいた。
この都の飢えは、それと同じだった。
ただ、配る手が見えにくいだけだ。
穴には柵があった。
この都には決まりがある。
決まりの内側で、配る量が決められている。
柵の向こうの手より、ずっと見えにくい手で。
それを、紙の上で誰かが決めていた。
私は戸板の前で、しばらく動かなかった。
脅かされていない、という静けさを、私はずっと飲み込めずにいた。
けれど、いま私が飲み込めなかったのは、別のものだった。
罪のない手が、ここに人を横たえている。
その静けさだった。
誰もこの人を殺していない。
決まりは、どこも破られていない。
なのに、人が死んでいた。





