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灰のレン ~転生医師に拾われた片腕片目の奴隷少女が、百年をかけて神になるまで~  作者: K3/KASANE
第六編 商人編

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第35話「堰の、設計図」


 帳簿を、手に入れるのに、半月かかった。


 商館同盟の共通の帳簿だ。


 三つの商家が、それぞれの倉の麦を、一冊に書き込む。


 三家、合わせて、どれだけの麦があるか。


 市に、どれだけ出すか。


 値を、いくらにするか。


 それが、その一冊に記されている。


 三家の秘中の秘だ。


 簡単に、見られるものではなかった。


 けれど、見えないものを、見えるところから量る術を、私は知っていた。


 直に手に入らなくても、その縁を、たどる術を。


 ステリオスを、もう一度、使った。


 あの両替商は、三家の銀の流れを両替で回している。


 倉に荷を入れる者も、出す者も、どこかで、この男の両替を通る。


 だから、帳簿そのものは見られなくても、帳簿の影は銀の動きに映る。


 私はステリオスから、写しの一部を引き出した。


 全部ではない。


 麦の値を決める、その芯にあたる部分だけを。


 礼として、リンが見立てた北の山の薄荷の束を、いくつも渡した。


 アズリアでは手に入らない品だ。


 乾いた葉がひと束ごとに、ステリオスの口を、すこしずつゆるめた。


 商いの世界では、帳簿の写しさえ、銀で動く。


 それも、ひと月では足りなかった。


 ステリオスは、一度にすべては見せなかった。


 一枚見せて、私の顔色を読み、また一枚。


 両替商の抜け目のなさだ。


 私が何を知りたがっているかを量りながら、すこしずつ出してきた。


 私は、急がなかった。


 急げば、警戒される。


 麦の話を、またひとつ土産に出し、薄荷を、またひと束渡す。


 そうやって、半月かけて紙を引き出した。


 盗賊の頃なら、塀を越えて、奪えばよかった。


 商いでは、塀の中のものを、ひと月かけて紙の写しで買う。


 遅い。


 けれど、塀は、越えずに、済む。


 そうして、私の手元に、その紙が集まった。


 ◆  ◇


 宿の一室で、私はその写しを卓の上に並べた。


 日が暮れて、灯火をひとつともした。


 窓を閉めて、外の目を断った。


 卓の上に、横へ、横へ、紙を並べていく。


 一枚、また一枚。


 たったひとつの手で、紙の端を揃えていく。


 腕がひとつしかないから、めくれる紙は銀の杯の重みで押さえた。


 ヒナが私の隣で、墨を磨った。


 帳簿の数を、書き写すための墨だ。


 写しの紙は、いつ返さなければならないか分からない。


 だから、要るところを、ヒナの帳面に移しておく。


 几帳面な、細い字で。


 市に出る麦の量。


 倉に溜まる麦の量。


 日ごとの値。


 ヒナの筆が灯火の下で、数をひとつずつ写し取っていった。


 並べてしまうと、見えてきた。


 麦の値がどう決まっているか。


 その仕組みが、数の列の上にゆっくりと姿を現した。


 残った左の目で、私はその列を追った。


 市に出る麦は、毎日、決まった量だった。


 多すぎず、少なすぎず。


 きっちり、同じだけ。


 日によって、人が買う量は変わるはずだ。


 雨の日もあれば、祭りの日もある。


 人の入り用は、日ごとに揺れる。


 なのに、市に出る麦は、変わらない。


 揺れない。


 まるで、誰かが毎朝桝で同じだけ量って、出しているようだった。


 誰かが、出す量を握っている。


 その日、その日の出す量を揃えている手が、あった。


 その量は、市の入り用より、いつもすこし足りなかった。


 足りなければ、買えない者が出る。


 買えない者は、明日、また列に並ぶ。


 並ぶ者が多ければ、麦は奪い合いになる。


 奪い合いになれば、すこしでも先に、と高い値でも買う者が出る。


 その高い値が、次の日の市の値になる。


 毎日、すこしずつ足りない。


 ただ、それだけで、値はひとりでに上がっていく。


 坂を、ゆっくり、登るように。


 誰も押していないように見えて、その坂は、毎朝、誰かがすこしずつ傾けていた。


 倉には、麦が満ちていた。


 帳簿の数を足していくと、三家の倉には、麦が唸るほど溜まっていた。


 市に出ている麦の何十倍も。


 倉の中は、麦でいっぱいだった。


 けれど、市に出るのは、毎日、薄い、薄い一筋だけ。


 倉は満ち、市は乾く。


 その間を、誰かが堰のようにせき止めていた。


 値は、上がっていた。


 麦が倉に満ちているのに、値は下がらない。


 むしろ、ゆっくりと上がっていた。


 物が余れば、値は下がる。


 それが、ナダの教えだった。


 物が余る土地は、安い。


 物が足りない土地は、高い。


 その差を埋めて回るのが、商いだ、と。


 なのに、この都では、倉に麦が余っているのに、値は上がり続けていた。


 物の理に、逆らっていた。


 いや、逆らっていたのではなかった。


 倉の麦は、市の上では見えない。


 塀の中に、隠れている。


 市の者が見るのは、市に出ている、薄い一筋だけだ。


 市の上では、麦は足りていない。


 だから、値は、上がる。


 市は、物の理の通りに動いている。


 倉の麦を、市の目から隠している。


 それだけだった。


 市に、本当の量を見せていない。


 見せなければ、市は足りていると思い込む。


 足りていなければ、値は、上がる。


 逆らわせている手が、あった。


 ◆  ◇


 私は、その数の列を長く見ていた。


 灯火が、すこしずつ油を減らしていく。


 ヒナの筆が、止まっていた。


 書き写すのをやめて、私の手元の紙を、覗き込んでいる。


「これは」


 ヒナが、低い声で言った。


「わざと、出してない」


「ああ」


 私は、頷いた。


 わざと、出していない。


 倉に麦は、ある。


 あるのに、出さない。


 出す量を握って、市に流れる麦を細くする。


 麦が細ければ、奪い合いになる。


 奪い合いになれば、値が、上がる。


 値が上がれば、銀のある者だけが、買える。


 銀のない者は、買えない。


 それが、見えた。


 商館同盟の価格操作の、全体像が。


 三家がひとつの帳簿で、倉の麦を握っている。


 市に出す量を揃え、値を決めている。


 市の賑わいは、その堰の上澄みだ。


 堰の下では、麦が届かない者のところで乾いていた。


 帳簿は、その堰の、設計図だった。


 以前、ステリオスが言った通りだった。


 値は、帳簿で決まる。


 けれど、私がいま見ているのは、ただの値の表ではなかった。


 誰がどれだけ麦を握り、どれだけ出し惜しみ、その値で誰を堰の外へ振り分けるか。


 その、全部だった。


 向こうの帳面。


 その言葉が、また胸に浮かんだ。


 穴の底の向こうの帳面と、同じだ。


 番号を書き込み、誰がいて、誰が岩になったかを記す帳面。


 あれと、この麦の帳簿は、根が同じだった。


 紙の上の数が、人の生き死にを決めている。


 私はその帳簿を読み終えるまで、宿を出なかった。


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