第35話「堰の、設計図」
帳簿を、手に入れるのに、半月かかった。
商館同盟の共通の帳簿だ。
三つの商家が、それぞれの倉の麦を、一冊に書き込む。
三家、合わせて、どれだけの麦があるか。
市に、どれだけ出すか。
値を、いくらにするか。
それが、その一冊に記されている。
三家の秘中の秘だ。
簡単に、見られるものではなかった。
けれど、見えないものを、見えるところから量る術を、私は知っていた。
直に手に入らなくても、その縁を、たどる術を。
ステリオスを、もう一度、使った。
あの両替商は、三家の銀の流れを両替で回している。
倉に荷を入れる者も、出す者も、どこかで、この男の両替を通る。
だから、帳簿そのものは見られなくても、帳簿の影は銀の動きに映る。
私はステリオスから、写しの一部を引き出した。
全部ではない。
麦の値を決める、その芯にあたる部分だけを。
礼として、リンが見立てた北の山の薄荷の束を、いくつも渡した。
アズリアでは手に入らない品だ。
乾いた葉がひと束ごとに、ステリオスの口を、すこしずつゆるめた。
商いの世界では、帳簿の写しさえ、銀で動く。
それも、ひと月では足りなかった。
ステリオスは、一度にすべては見せなかった。
一枚見せて、私の顔色を読み、また一枚。
両替商の抜け目のなさだ。
私が何を知りたがっているかを量りながら、すこしずつ出してきた。
私は、急がなかった。
急げば、警戒される。
麦の話を、またひとつ土産に出し、薄荷を、またひと束渡す。
そうやって、半月かけて紙を引き出した。
盗賊の頃なら、塀を越えて、奪えばよかった。
商いでは、塀の中のものを、ひと月かけて紙の写しで買う。
遅い。
けれど、塀は、越えずに、済む。
そうして、私の手元に、その紙が集まった。
◆ ◇
宿の一室で、私はその写しを卓の上に並べた。
日が暮れて、灯火をひとつともした。
窓を閉めて、外の目を断った。
卓の上に、横へ、横へ、紙を並べていく。
一枚、また一枚。
たったひとつの手で、紙の端を揃えていく。
腕がひとつしかないから、めくれる紙は銀の杯の重みで押さえた。
ヒナが私の隣で、墨を磨った。
帳簿の数を、書き写すための墨だ。
写しの紙は、いつ返さなければならないか分からない。
だから、要るところを、ヒナの帳面に移しておく。
几帳面な、細い字で。
市に出る麦の量。
倉に溜まる麦の量。
日ごとの値。
ヒナの筆が灯火の下で、数をひとつずつ写し取っていった。
並べてしまうと、見えてきた。
麦の値がどう決まっているか。
その仕組みが、数の列の上にゆっくりと姿を現した。
残った左の目で、私はその列を追った。
市に出る麦は、毎日、決まった量だった。
多すぎず、少なすぎず。
きっちり、同じだけ。
日によって、人が買う量は変わるはずだ。
雨の日もあれば、祭りの日もある。
人の入り用は、日ごとに揺れる。
なのに、市に出る麦は、変わらない。
揺れない。
まるで、誰かが毎朝桝で同じだけ量って、出しているようだった。
誰かが、出す量を握っている。
その日、その日の出す量を揃えている手が、あった。
その量は、市の入り用より、いつもすこし足りなかった。
足りなければ、買えない者が出る。
買えない者は、明日、また列に並ぶ。
並ぶ者が多ければ、麦は奪い合いになる。
奪い合いになれば、すこしでも先に、と高い値でも買う者が出る。
その高い値が、次の日の市の値になる。
毎日、すこしずつ足りない。
ただ、それだけで、値はひとりでに上がっていく。
坂を、ゆっくり、登るように。
誰も押していないように見えて、その坂は、毎朝、誰かがすこしずつ傾けていた。
倉には、麦が満ちていた。
帳簿の数を足していくと、三家の倉には、麦が唸るほど溜まっていた。
市に出ている麦の何十倍も。
倉の中は、麦でいっぱいだった。
けれど、市に出るのは、毎日、薄い、薄い一筋だけ。
倉は満ち、市は乾く。
その間を、誰かが堰のようにせき止めていた。
値は、上がっていた。
麦が倉に満ちているのに、値は下がらない。
むしろ、ゆっくりと上がっていた。
物が余れば、値は下がる。
それが、ナダの教えだった。
物が余る土地は、安い。
物が足りない土地は、高い。
その差を埋めて回るのが、商いだ、と。
なのに、この都では、倉に麦が余っているのに、値は上がり続けていた。
物の理に、逆らっていた。
いや、逆らっていたのではなかった。
倉の麦は、市の上では見えない。
塀の中に、隠れている。
市の者が見るのは、市に出ている、薄い一筋だけだ。
市の上では、麦は足りていない。
だから、値は、上がる。
市は、物の理の通りに動いている。
倉の麦を、市の目から隠している。
それだけだった。
市に、本当の量を見せていない。
見せなければ、市は足りていると思い込む。
足りていなければ、値は、上がる。
逆らわせている手が、あった。
◆ ◇
私は、その数の列を長く見ていた。
灯火が、すこしずつ油を減らしていく。
ヒナの筆が、止まっていた。
書き写すのをやめて、私の手元の紙を、覗き込んでいる。
「これは」
ヒナが、低い声で言った。
「わざと、出してない」
「ああ」
私は、頷いた。
わざと、出していない。
倉に麦は、ある。
あるのに、出さない。
出す量を握って、市に流れる麦を細くする。
麦が細ければ、奪い合いになる。
奪い合いになれば、値が、上がる。
値が上がれば、銀のある者だけが、買える。
銀のない者は、買えない。
それが、見えた。
商館同盟の価格操作の、全体像が。
三家がひとつの帳簿で、倉の麦を握っている。
市に出す量を揃え、値を決めている。
市の賑わいは、その堰の上澄みだ。
堰の下では、麦が届かない者のところで乾いていた。
帳簿は、その堰の、設計図だった。
以前、ステリオスが言った通りだった。
値は、帳簿で決まる。
けれど、私がいま見ているのは、ただの値の表ではなかった。
誰がどれだけ麦を握り、どれだけ出し惜しみ、その値で誰を堰の外へ振り分けるか。
その、全部だった。
向こうの帳面。
その言葉が、また胸に浮かんだ。
穴の底の向こうの帳面と、同じだ。
番号を書き込み、誰がいて、誰が岩になったかを記す帳面。
あれと、この麦の帳簿は、根が同じだった。
紙の上の数が、人の生き死にを決めている。
私はその帳簿を読み終えるまで、宿を出なかった。





